ジョージ H.トーマスは1840年にウエストポイントを卒業、フロリダのセミノールインディアンと戦い、米墨戦争にも従事し、51年から54年までウエストポイントで教鞭をとった。南部出身であったが、北軍に身を投じた。戦闘に際して入念な準備をしたため優柔不断と噂されたが、そのようなことは決してなかった。北軍の中で恐らくいちばん過小評価されている人物だろう。 |
ピエール G.T.ボールガールは、1838年にウエストポイントを次席で卒業した。米墨戦争では2度負傷し表彰も受けた。60年にはウエストポイントの校長に任命されたが辞任して南軍の准将となり、南北戦争の口火を切ったサムター要塞攻撃を指揮した。彼は戦略家としては平凡で大統領のジェファソン・デービスや他の将軍とも折り合いが悪かったが、戦況が厳しいときに指揮を任せると役に立つ男だった。 |
ジョセフ・フッカーは1837年にウエストポイントを卒業、米墨戦争時は参謀将校であったがウィンフィールド・スコットと衝突し53年に軍を辞した。その後はカリフォルニアで農業を営んでいたが、第1次ブルラン会戦の後にリンカーンに手紙で訴えて将軍に抜擢された。戦場では優秀な指揮官であったが、リンカーンに言わせると、しばしば上官や上層部について不適切かつ不必要な批判をしていた。 |
ローズクランスはこの時44歳でオハイオ州出身、43年のウエストポイントを5番で卒業して以後4年間を母校で物理学と土木工事の教授をしていた。南北戦争直前には灯油の製造会社を設立したばかりであったが、ビジネスから兵役に戻るとウエストヴァージニアでマクレランの配下で活躍した。コリントとマルフリーズボロの両会戦に参加して有能で信仰心に富んだ指揮官との評判を得た。他の指揮官と同様に彼もリンカーンには悪い道路、悪天候、劣悪な補給など不平を訴えてはいたが、マクレランとは異なりワシントンの首脳部を罵倒することはなかった。 |