(YSGA編集版)アメリカ南北戦争日報

1863年


〜 1863年1月2日  ストーンリバー会戦
 (マ−フリースボロの戦い続き)
 (西部戦域 ケンタッキー戦役)
 ブラッグは北軍は退却するものと思い込んでいたが、朝に彼が目にしたのはストーンリバー東岸の丘を北軍が占領していることだった。ブラッグは縦射の餌食になるとの反対意見を無視して以前に副大統領を務めたブレッケンリッジ(★3.1,2-2-2)に北軍が前日占領した丘を攻撃するように命じた。ブレッケンリッジの師団は丘にいる北軍兵士を駆逐したものの、対岸から58門の猛砲撃を受けて大損害を被り退却した。この会戦は戦術的には引き分けだったが、戦略的には北軍の勝利であった。北軍の損害は12,906、南軍の損害は11,740であった。

 ジョージ H.トーマスは1840年にウエストポイントを卒業、フロリダのセミノールインディアンと戦い、米墨戦争にも従事し、51年から54年までウエストポイントで教鞭をとった。南部出身であったが、北軍に身を投じた。戦闘に際して入念な準備をしたため優柔不断と噂されたが、そのようなことは決してなかった。北軍の中で恐らくいちばん過小評価されている人物だろう。

1月〜8月 北軍の沿岸封鎖
 北軍海軍は乗員の不足、疫病の蔓延という障害にもかかわらず、この時期までに南部経済を窒息させていった。全天候下における退屈で過酷な哨戒航海は給炭所に向かって急行するときにのみ解放された。大西洋向けの船とそれに慣れた乗組員では喫水の浅い封鎖突破船が追跡を振り切るために飛び込む沿岸の浅瀬には適していなかった。
 1863年6月までにリンカーンの網は885隻の突破船を捕らえていたが、網の目は大きく封鎖かいくぐりは大もてのビジネスになった。特製の高速船はバハマのナッソー、バミューダ、ハリファックス、キューバを出港し、その大部分はチャールストンとウィルミントン(ノースカロライナ州)に入った。(メキシコ湾岸の諸港が占める割合はわずかだった。)物資の流入を断ち切るためには港湾の占領が必須であることは明白であり、特に北軍の関心はチャールストンに集中した。また南部にとってはその攻防戦は大きな注目を集め、その確保は象徴的な意味を持った。チャールストンの防御はボールガール(★★★3.0.1,4-3-4)によって巧妙に組織され精力的に指揮された。

 ピエール G.T.ボールガールは、1838年にウエストポイントを次席で卒業した。米墨戦争では2度負傷し表彰も受けた。60年にはウエストポイントの校長に任命されたが辞任して南軍の准将となり、南北戦争の口火を切ったサムター要塞攻撃を指揮した。彼は戦略家としては平凡で大統領のジェファソン・デービスや他の将軍とも折り合いが悪かったが、戦況が厳しいときに指揮を任せると役に立つ男だった。

1月 テネシー軍の作戦準備
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 グラントはホリースプリングス補給集積所の苦い経験から自分が用いることのできる兵力ではカイロからの長い補給線の末端にあるヴィックスバーグに対する陸上からの作戦行動は不可能であると確信した。先任の政治屋将軍マクラナンド(☆☆4.-1,3-4-3)の能力には疑問符が付いていたのでグラントはヴィックスバーグに対するミシシッピー川からの遠征軍の司令官にはシャーマンを任命し、マクラナンドは無害な陽動作戦のためア−カンサス川に派遣させられた。

1月 ア−カンサス作戦
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 分派されたマクラナンドの軍は、ミシシッピ−軍と呼称され、アーカンサス州のアーカンサスポストのハインドマン要塞攻略に向かった。
 8隻の艦艇(3隻の甲鉄艦を含む)の支援を受けて攻撃は順調に進んで1月18日に降伏し4,800の捕虜を得た。

1月26日 バーンサイド罷免
 (東部戦域)
 バーンサイドはリンカーンの中止命令を無視してラパハノック川をフレデリックスバーグの上流で渡る再度の攻勢を実施したものの失敗に終わり解任された(1月20日)。この“狂気の進撃”は豪雨によって動きがとれなくなってしまったのである。

1月26日 フッカー、ポトマック軍司令官を拝命
 (東部戦域)
 バーンサイドの後任としてポトマック軍司令官にフッカー(☆☆☆3.-1.0,2-5-4)が任命された。

 ジョセフ・フッカーは1837年にウエストポイントを卒業、米墨戦争時は参謀将校であったがウィンフィールド・スコットと衝突し53年に軍を辞した。その後はカリフォルニアで農業を営んでいたが、第1次ブルラン会戦の後にリンカーンに手紙で訴えて将軍に抜擢された。戦場では優秀な指揮官であったが、リンカーンに言わせると、しばしば上官や上層部について不適切かつ不必要な批判をしていた。


1月〜3月 グラント、ヴィックスバーグを威力偵察
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 グラントはミシシッピー川を下って司令部をルイジアナ州のミリケンズベンドに設営した。冬から初春にかけてグラントは軍を休ませることなくヴィックスバーグの段々強化される防備を探っていたが他には何も成しえなかった。雨が止むことと洪水が収まることを待つしかなかったのである。 ポーター提督はこの間中ヴィックスバーグに対する威力偵察に協力していたがヴィックスバーグとポートハドソンとの河川交通を妨げるために歴戦の砲艦クイーンズ・オブ・ザ・ウエストをヴィックスバーグ要塞の砲列を通り抜ける大胆な突破行に送りだした。
 突破を果たしたクイーンズ・オブ・ザ・ウエストは南軍支配下のミシシッピ川を縦横無尽に暴れまわり多数の船舶を捕獲したが、2月14日に座州して南軍の手に落ちた。ポーターは再度、砲艦インディアノーラを送り込むが、今回は武運に恵まれず捕獲されたクイーンズ・オブ・ザ・ウエストを含む南軍艦艇に撃破された(2月25日)。


3月14日 ポートハドソン突破
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 バンクス将軍との共同作戦計画の海軍の担当分を遂行すべく、ファラガット提督は強力に防備されたポートハドソンを突破して上流を目指した。4隻の艦と3隻の砲艦からなる艦隊は座州に苦しみながら前進したが損害は続出し、結局は旗艦のハートフォードと砲艦の2隻のみが突破を果たした。バンクスは共同作戦に失敗したものの、ファラガットは2隻を率いてミシシッピー川中央部から南軍船舶を急速に駆逐していった。


4月 グラント、作戦準備を完了
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 ヴィックスバーグを守備するペンバートンの部隊は約50,000を数え、ヴィックスバーグから10マイル上流のヘインズブラッフから40マイル下流のグランドガルフにかけて分散していた。(さらに南ではポートハドソンの15,000の守備隊がファラガットとバンクスの脅威から、その場に釘付けになっていた。)これに対峙してグラントは西岸に約50,000を配置しており、シャーマンの軍団をヴィックスバーグの上流に残したまま、軍の主力を率いて下流にあるグランドガルフ対岸に陸路移動した。これとほぼ同時にポーターはヴィックスバーグの砲列を劇的な夜間作戦により突破して、砲艦や輸送船をグラントの新たな拠点であるハードタイムズに集結させた。

4月7日 チャールストンでの敗退
 (東部戦域)
 デュポンの指揮で北軍の9隻の甲鉄艦は要塞化されたチャールストンを攻撃したが、砲で満ちあふれているかのような防備の前に大敗を喫した。

4月18日〜5月3日 グリアーソンの騎兵襲撃
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 グラントは3個騎兵連隊をベンジャミン H.グリアーソン(☆2.0,-)に与えて、南軍をより一層混乱させるためにテネシー州ラグランジェから分派した。グリアーソンはミシシッピー川全域で南軍領域を貫いて巧妙で破滅的な襲撃を行い、5月3日に北軍の拠点があるバトンルージュに達した。

4月27日〜30日 プレリミナリーズからチャンセラーズビルへ
 (東部戦域 チャンセラーズビル会戦)
 フッカーはリーを攻撃するためにラパハノック川東岸でフレデリックスバーグの対岸にある北軍陣地を出撃した。フレデリックスバーグでは4万を率いるジョン・セジウィック(☆☆3.1,4-4-3)はそこで渡河を強行するかのように陽動を行った。一方でフッカーは73,000でさらに上流から渡河してウィルダネスに入り、リーの左翼を包囲しようとした。ジョージ・ストーンマン(☆3.0,3-2-5)の北軍騎兵は西方に広範囲に展開し、その後はリーとリッチモンドとの間の連絡線を遮断するため南軍を襲撃することになっていた。リーの北ヴァージニア軍は60,000まで減少しており、士気は高いものの装備、食糧、衣服が不足していた。ロングストリートの軍団はジェームズ川の下流域で食糧を集めるために離れており、結局この会戦には間に合わなかった。スチュアートの騎兵で警戒網を張っていたため、リーはフッカーの移動をはっきりと把握していた。

4月30日 グラント、ミシシッピー川を渡河
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 ヴィックスバーグ上流、チカソーフラッグ近辺のヤズー川上流でシャーマンが自身の第15軍団と数隻の砲艦で効果的な示威行動で南軍を引きつけている間に、グラントは軍の主力を率いて当初の上陸予定地であるグランドガルフから10マイル下流に位置するブルインズバーグに向かった。ポーターの艦隊は一連の戦闘で少なからぬ損害を被っていたものの23,000の兵を抵抗もなく上陸させた。


5月1日  ポートギブソン会戦
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 南軍のグランドガルフ守備隊は北軍の内陸への前進をくい止めようとしたが、五千程度では2個軍団に敵うべくもなく撃退されてしまった。グラントはその後、別行動を取ったシャーマンが合流するのを待っていた。

5月1日 フッカー、平静を失う
 (東部戦域 チャンセラーズビル会戦)
 10,000を率いるジュバル・アーリー(★2.1,2-4-3)をセジウィックのフレデリックスバーグ攻撃をくい止めるためにメアリー高地に残し、リーは北軍の主攻勢を迎い撃つべく西に急行した。フッカーは日中になってから命令を発したために北軍の進撃は緩慢であった。最初の遭遇でマクロウズ、アンダーソン(-,3-4-4)の師団に阻止されると北軍の命令は錯綜し、事態を把握できなくなったフッカーは圧倒的な数的優勢にもかかわらず進撃を止め防御に移った。

5月2日 ジャクソンの側面攻撃
 (東部戦域 チャンセラーズビル会戦)
 スチュアートからフッカーの右翼ががら空きだとの情報を得ると、リーは翌日の早朝に大規模な包囲のためジャクソンに3個師団(A.P.ヒル、コルストン(-,4-2-4)、ローズ(-,2-4-4))兵26,000を与え、その一方で自身は17,000で圧倒的な北軍に対峙した。ウィルダネスの森林で視界が妨げられていたためジャクソンは無事に迂回を果たすことができた。北軍はリーは退却するものと思い込んでいたため、ジャクソンの展開を後退を援護するものとみなしてしまい、最右翼のハワード(☆☆3.-2,2-3-3)指揮する第11軍団は南を向いて展開し西には何の配慮もしていなかった。ちょうど日暮れ直前にジャクソンは、北軍塹壕線の右翼に彼の部隊が垂直に展開する形で突撃し、北軍右側面を包囲して第11軍団の士気を完全に喪失させて潰走させた。作戦の遂行を完全に成し遂げることと、フッカーとラパハノック川との連絡線を遮断するためにジャクソンは馬で偵察に出たが、夜間も戦闘は終わっておらず戦場は混沌としていた為、友軍の射撃により致命傷を負ってしまった。ジャクソンの軍団の指揮は一時的にスチュアートが引き継いだ。

5月3日 第2次フレデリックスバーグ会戦
 (東部戦域 チャンセラーズビル会戦)
 翌日、南軍の攻撃は再開されたが北軍の抵抗が強まってきたため勢いは弱まっていた。しかしフッカーは麾下の部隊で戦闘に参加したのは一部でしかなく戦況を挽回することはまだ可能であったのに、反撃をすることもなく事態を傍観していた。一方で9マイル東のフレデリックスバーグではセジウィックはメアリー高地へ3度も強襲をかけ、激戦の末にアーリーの師団は高地から追い落とされた。

5月4日 セーレムチャーチ会戦
 (東部戦域 チャンセラーズビル会戦)
 フッカーを引き止めておくためチャンセラーズビル周辺にスチュアート(前ジャクソン)の軍団を残して、リーは東に駆けつけセーレムチャーチでセジウィックを破った。

5月5日 フッカー退却
 (東部戦域 チャンセラーズビル会戦)
 ポトマック軍はラパハノック川を渡って撤退した(5月5日〜6日)。北軍の損害は戦死、負傷、捕虜を合計して16,792であり、南軍の損害は12,754であった。リーはフッカーの半分の戦力で大勝利を得たが、かけがえのない男を失った。ジャクソンは傷が因で亡くなったのである(5月10日)。

5月7日〜19日 ビッグブラッグリヴァー戦役
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 南軍はヴィックスバーグ周辺にあるペンバートンの35,000に加えて、そこから東に45マイル離れたミシシッピー州ジャクソンではジョセフ E.ジョンストン(負傷から回復し、西部の総司令官に就任した(★★★3.1.1,3-4-3)が9,000を集結させていた。グラントは41,000を有していたが、後方連絡線を自ら放棄して南軍の中間に割り込むように東方へ進軍していった。ジョンストンの南軍は合流してグラントを攻撃しようとしたが、配下のペンバートンは存在しない北軍の連絡線を遮断しようと試みてしまった。その間に、グラントはジョンストンを払いのけ(5月14日)、補給及び鉄道の完全な破壊と、ジョンストンの封じ込めの為にシャーマンをその場に残して、再度方向を変えてペンバ−トンの軍へ立ち向かった。

5月16日 チャンピオンヒル会戦
 (西部戦域 ミシシッピー戦役)
 ペンバートンは22,000を率いてビッグブラッグ東岸に強力な陣地を構えていた。グラントは主力軍団の軍団長であるマクラナンドの拙攻を正す為に直接指揮をとり、南軍を戦場から撃退した。ペンバートンはビックブラッグ川に橋頭堡を確保していたが翌日にはマクファーソン(☆☆3.1,-)の軍団に粉砕されてしまった。同時にシャーマンがより北方で川を渡り、ペンバートンはヴィックスバーグの守りへと後退した。

5月19日〜7月4日 ヴィックスバーグ包囲
 (西部戦域 ミシシッピー戦役)
 2回の突撃が失敗に終わった後(5月19日、22日)、グラントはヴィックスバーグを救援しようとするジョンストンの採りうるいかなる試みをも阻止すべくシャーマンの軍団を分派し、自身は包囲作戦に全力を尽くしていた。北軍の包囲は陸上の攻城砲からとミシシッピー川のポーターの甲鉄艦からとの絶え間ない砲撃を加えながら徐々に強化されていった。ヴィックスバーグの守備隊と市民は洞穴を掘り、飢餓に脅かされながら勇敢だが望みの無い戦いを続け、南部と同じくらいに北部側にも賞賛の念をかき立てた。


6月3日 リー、北部進攻を準備
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 イニシアチヴの維持を決心して、リーはスチュアートに、自軍の移動の遮蔽を任せながら、自身はシェナンドゥ峡谷に進んだ。

6月9日 ブランディステーション会戦
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 アルフレッド・プリザントン(☆3.1,1-4-4)の騎兵がラパハノック川を渡り、スチュアートの宿営地を奇襲したことでフッカーはリーの進攻に気付いた。南軍は態勢を立て直すと踏みとどまって戦い、騎兵同士では南北戦争中で最大の会戦となった。プリザントンは投入した12,000の内から900以上の損害を出し、スチュアートは、10,000の兵力から約500を失った。

6月13日〜14日 第2次ウインチェスター会戦
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 ユーエル(★★3.0,3-4-3)の第2軍団(旧ジャクソン)はロバート H.ミルロイ将軍の北軍部隊をシェナンドゥ峡谷下流で粉砕した。

6月15日〜24日 リー、ポトマック川を渡河
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 南軍76,000強は北方に進撃を続けペンシルバニア州に入りチェンバーズバーグを通過してカーライルとヨークに達した(6月28日)。

6月13日〜27日 フッカー、リーを追跡する
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 リーの大がかりな行軍にとうとう気付いて、フッカーとポトマック軍115,000は北への移動を開始した(6月13日)。フッカーは繰り返し訪れた南軍の伸びきった隊列を攻撃する機会を逃し、そしてフレデリックスに達したが同時に両翼からの戦略的包囲を行ってリーを罠に掛けるという彼の計画をハレック(彼はチャンセラーズビルにおけるフッカーの計画と実際の行動との食い違いを忘れていなかった)が却下したことを知った。フッカーは自身の辞任を申し出たが、これは彼自身も驚いたことに翌日の夜明け前に受理された。

6月17日 南軍甲鉄艦アトランタ捕獲される
 ヴァージニアの成功を期待して、アトランタは封鎖を受けていたサヴァナを出撃したが、待ち構えていた2隻のモニター型甲鉄艦の攻撃を受け、座礁して降伏した。

6月23日〜7月2日 トゥラホーマ戦役
 (西部戦域 ケンタッキー戦役)
 マーフリーズボロの作戦行動から6ケ月後、ブラッグはトゥラホーマに居すわっていた。グラントがヴィックスバーグ近郊で作戦を遂行している間に、更送するとの脅しをハレックから受けたローズクランスはついに腰を上げ行動に移った。良く計画されて手際よく実行された機動を行って、ローズクランスは無血でブラッグにチャタヌーガへの後退を強要した。

6月26日〜7月2日 スチュアートの襲撃
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 ポトマック川を渡っている間、リーの右翼を遮蔽しながらスチュアートは自由裁量の命令を拡大解釈しメリーランド州中部で北軍の後方を荒し回った。

6月28日 ジョージ C.ミード、司令官に就任
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 ミード(☆☆☆3.1.1,4-5-4)はこの10ヵ月で5人目のポトマック軍司令官となった。リーはスチュアートの不在により偵察情報が不足していたが、同日遅くにはポトマック軍の大まかな所在と司令官の交替を察知しており、直ちにキャシュタウン近郊でノースヴァージニア軍の集結を開始した。

6月30日 遭遇戦
 (東部−ペンシルバニア侵攻)
 ミードはサスケハナ川南方での会戦に南軍を誘致すべくエミッツバーグとハノーバーに向けて慎重に探りを入れた。ゲティスバーグに向かい南東に進んでいた南軍の歩兵旅団が北西に偵察を行っていた北軍の騎兵旅団と遭遇した。この予期しない衝突からアメリカ大陸史上最大の激戦が戦われることになる。


7月1日 ゲティスバーグ会戦(第1日)
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 ゲティスバーグ北西では前日からビューフォードの騎兵旅団が展開しており、ポトマック軍が到着するまで貴重な時間を稼いでいた。このためレイノルズ(☆☆3.1,4-4-3)の第1軍団は南軍に先んじて要地であるマクファーソンズリツジに展開することができた。リーは南軍が集結するまで戦闘を開始しないように指示したが、それぞれの先陣を勤める南軍ヒース(-,2-4-4)の師団(A.P.ヒルの軍団所属)と北軍ワズワース(-,3-3-3)の師団(第1軍団)は激突し南軍の2個旅団は潰走したもののレイノルズは狙撃兵の銃弾を受けて戦死した。正午すぎにはゲティスバーグの北と北西で南軍A.P.ヒルの第3軍団は北軍のレイノルズの第1軍団およびハワ−ドの第11軍団と対峙していた。やがてユーエルの第2軍団がヘイドラーズバーグから南下し北軍の右翼に脅威を与えていた。この状況下でリーは戦場に到着し、事態を把握すると当初の決心を変えロングストリートの到着をまたずに攻撃を命じた。北方からのユーエルの攻撃は当初はローズの師団が大損害を受けて行き詰まりかけたものの、アーリーの師団の攻撃が成果を収め第11軍団は潰走した。第1軍団は善戦したもののこのため側面を暴露してしまい、ペンダー(-,2-5-4)の師団の強圧に耐えかねて後退した。北軍は町の南方にあるセメタリーヒルとカルプスヒルに敗走し、一方で南軍はゲティスバーグとその南西のセミナリーリッジを確保した。リーは北軍の後続が到着する前に敗走した北軍を叩き、それらの丘を奪取しようとしてユーエルに「可能ならばセメタリーヒルを攻撃するように」との指示を出した。ユーエルは北軍の守備は固いと判断しこの日の戦闘は終わりを告げた。北軍の2個軍団はおよそ半分にも及ぶ損害を出したが、夜中にポトマック軍の残りがミードとともに到着してセメタリーリッジに沿って西を向いて配置につき、有名な北軍の“釣り針”形戦列を形成した。

7月2日 ゲティスバーグ会戦(第2日)
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 前年冬の経験からロングストリートは防御に移り北軍に攻撃させることを主張したが、リーは攻撃に執着した。A.P.ヒルの軍団は2個師団が大損害を受けていたため、リーはユーエルと新たに到着したロングストリートの軍団(フッド、マクロウズの2個師団、加えてヒルの軍団からアンダーソン師団の支援)で北軍の両翼の包囲を試みた。ロングストリートの攻撃は強行軍の疲労と彼自身の攻撃への不安から16時になるまで延期されたが、うかつにも前進していたシックルズ(-,2-3-2)の北軍第3軍団を桃の果樹園の剥き出しになった陣地から追い出し、北軍左翼をほぼ迂回したかに見えた。ミードの幕僚で工兵を担当していたウォーレン(-,3-4-3)はリトルラウンドトップが占拠されていないことに気付き、この要地に手際よく近くの旅団と砲兵中隊を配置して応戦し、とりわけ最左翼のメイン州第20連隊は弾薬が切れても銃剣で逆襲するほどの奮戦を見せ窮地を救った。またシックルズとハンコック(☆☆3.2,3-5-3)の両軍団間の隙間にも南軍は殺到したが、この危機にハンコックは、唯一の予備であるミネソタ州第1連隊(ブルラン以来のヴェテラン)を投入、彼らは7倍近い南軍勢を増援の到着まで押し止めたが、無事戻ったものは1/5に満たなかった。このような南軍に対峙しての死にもの狂いの戦いは北軍部隊がラウンドトップからカルプスヒル(ユーエルが北軍から奪取することに失敗していた)までの尾根に沿って堅く陣を構えたことで終止符を打った。

7月3日 ゲティスバーグ会戦(第3日)
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 前日の攻撃が成果を収めたことを確信していたリーは北軍戦列に対しもう一撃を加え突破をはかることを決断した。150門という南軍最大規模の砲撃に支援されて10個旅団が“ピケットの突撃”として知られる攻撃を行った。(もっともピケット(-,3-3-2)は参加した4人の師団長の1人に過ぎなかったのだが。)およそ15,000の兵士が北軍の砲火の中を半マイル押し寄せたが、猛火を受けて戦列には大きな隙間が生じてしまった。生き残って北軍陣地に達した南軍兵士は手短に突破を果たしたものの、ミードの予備に押し戻されるのみであった。突撃の生き残り(開始時のわずか半分)と、リーはその場で災厄の責任を甘受し反撃を待ち受けたが、ミードは遂に動くことはなかった。3日間で北軍の受けた損害は戦死3,155、負傷14,529、行方不明5,365であり、南軍の損害は戦死3,903、負傷18,735、行方不明5,425であった。

7月4日 ヴィックスバーグ降伏
 (西部戦域 ヴィックスバーグ戦役)
 北軍の総攻撃を察知して、ペンバートンは降伏した。直ちにグラントは、飢えた市民や兵士に対し大急ぎで食料を供給した。南軍の攻撃はヘレナアークで撃退され、ポートハドソンもバンクスに降伏し、あっけない結末を迎えた(7月9日)。
 リンカーンが述べたようにミシシッピー川は今や頭を悩ますこともなく海に流れ込むようになり、南部は2つに分裂した。

7月4日〜14日 リーの退却
 (東部戦域 ペンシルバニア侵攻)
 泥と雨そして増水したポトマック川という悪条件にかかわらず、この退却は大きな支障もなく終了した。ミードは用心深く後を追ったが、リンカーンは勝利を台無しにしたミードの失策に大いに落胆した。


7月〜9月 北軍のチャールストン攻撃
 デュポンの後任のダルグレン(7月10日着任)は陸上からと共同してチャールストンの守備隊に対し砲撃を続けていた。第一の目標となったワグナー要塞は数回の突撃を受けたが、北軍に大損害を与えて撃退していた。【映画グローリーの舞台】

7月〜9月 北軍のチャールストン攻撃
 デュポンの後任のダルグレン(7月10日着任)は陸上からと共同してチャールストンの守備隊に対し砲撃を続けていた。第一の目標となったワグナー要塞は数回の突撃を受けたが北軍に大損害を与えて撃退していた。

7月〜9月 チャールストン攻防
 (沿岸作戦)
 乗組員の疫病といった障害にもかかわらず、この頃までに北軍の封鎖は南部経済を窒息させていった。退屈な航海はいかなる天候のときにでも続けられ、ただ給炭所に急いで戻るときにのみ乗組員はこの苦役から解放された。遠洋航海向きの艦船やそれに慣れた乗組員は喫水の浅い封鎖突破船が追跡を振り切ろうとして入り込む沿岸の浅瀬には不向きだったため、こん封鎖網の網の目は大きく(1863年6月までに885隻の封鎖船が捕獲されていたが)封鎖かいくぐりは大もての商売になった。特製の高速船はバハマ、バミューダ、ハリファックス、キューバを出航し南部に向かった。突破船の入港先は大部分がノースカロライナ州のチャールストンとウィルミントンであり、メキシコ湾岸の諸港の占める割合は少なかった。物資の流入を断ち切るためには港湾の占領が必須であったので、北軍の関心は特にチャールストンに集まり、その確保は注目を浴びるようになり象徴的な存在とまでなった。チャールストンの防衛はボールガール(☆☆☆3.0.1,4-3-4)により巧妙に計画され、精力的に指揮された。ジョン A.ダールグレン(デュポンの後任として7月10日着任)は艦隊を率いてクインシー A.ギルモアによる陸上からの攻撃と共同してチャールストンの守備隊に対し砲撃を続けていた。


8月16日 ローズクランスとバーンサイドの攻勢
 (西部戦域チカマウガ戦役)
 長期間、行軍を停止して補給体制を再構築した後、北軍首脳陣から催促を受けたローズクランス(☆☆☆3.-1.0, 3-5-3)はようやく腰を上げてトゥラホーマから進撃を再開した。成功に終わったトゥラホーマ戦役の手法を繰り返し、彼はフェイントをかけてチャタヌーガ市の上流で渡河すると見せかけて(南軍は正にそう思い込んでいた)、60,000の兵力の大部分をほとんど防御されていない同市の下流でアトランタに通じる鉄道を目標にテネシー川を渡河させ、ブラッグ(★★★3.-1.0,4-1-5)の後方を脅かした。同日、オハイオ軍を指揮するバーンサイド(☆☆☆3.-1.-1, 3-3-3)も24,000を率いてケンタッキー州レキシントンからノックスヴィルに向かい、9月3日にそこを占領した。

 ローズクランスはこの時44歳でオハイオ州出身、43年のウエストポイントを5番で卒業して以後4年間を母校で物理学と土木工事の教授をしていた。南北戦争直前には灯油の製造会社を設立したばかりであったが、ビジネスから兵役に戻るとウエストヴァージニアでマクレランの配下で活躍した。コリントとマルフリーズボロの両会戦に参加して有能で信仰心に富んだ指揮官との評判を得た。他の指揮官と同様に彼もリンカーンには悪い道路、悪天候、劣悪な補給など不平を訴えてはいたが、マクレランとは異なりワシントンの首脳部を罵倒することはなかった。


9月6日 ワグナー要塞占領
 (沿岸作戦−チャールストン)
 南軍はワグナー要塞を撤退し、その放棄により封鎖突破船の安息の地としてのチャールストンの価値は減じた。他の要塞は持ちこたえ、南軍の発明の才は潜水艦の建造にに向けられた。

9月7日 南軍チャタヌーガを放棄
 (西部戦域 チカマウガ戦役)
 退路を断たれることを恐れた南軍はチャタヌーガを放棄し、ローズクランスはジョージア州北西部へと追撃を行った。テネシー軍の士気はがた落ちし、南部の世論は悲観論に傾くかにみえた。しかし南部連合大統領ジェファーソン デービスは62年春に首都に迫る北軍に対しリーとジャクソンが果敢な攻撃を行って戦況を逆転させたことを再現しようと思い立った。すなわちリーがマクレランに敢行した反撃を、ブラッグにも同様にローズクランスに対して行うように指示したのである。そこでミシシッピーのジョンストンの元から2個師団を引き抜いていたが、数の上では互角になったとはいえテネシー軍の低い士気からこれだけでは不十分であるとデービスは判断した。そこでリー(★★★2.3.1,4-5-5)に西部へ転出しブラッグの指揮をとること打診したが、ミード(☆☆☆3.1.1,4-5-4)に対して攻撃を計画していたリーはこれを拒否した。デービスは代りにロングストリート(3.2,5-4-4)の2個師団(ピケット(-,3-3-2)の師団はゲティスバーグ会戦で受けた大損害からまだ回復していなかった)をジョージア州に派遣することを断行した。

9月8日 サムター要塞攻撃失敗
 (沿岸作戦−チャールストン)
 北軍艦隊は9月1日からサムター要塞に砲撃を加え、9月8日の夜間に上陸を敢行したが待ち構えていた守備隊により撃退された。

9月9日 ロングストリート西部へ
 (西部戦域 チカマウガ戦役)
 ロングストリートの軍団のうち第一陣12,000は9日に発したが、最短経路が北軍バーンサイドにより押さえられているため900マイルの道のり(300マイル以上の迂回)を走破することになった。チカマウガ会戦には半数しか間に合わなかったものの、この増援によりブラッグのテネシー軍は70,000まで増強され北軍より数的に優位にたつこととなる。

9月19日 チカマウガ会戦 1日目
 (西部戦域 チカマウガ戦役)
 ローズクランスが幅広く一列に並んで進撃してくる事を知って、ブラッグはチカマウガクリークを渡って攻撃に転じた。北軍を奇襲して各個に撃破することには再三に渡り失敗し集結を許したものの、ブラッグは積極性を失わず北軍の左翼を衝いてチャタヌーガとの連絡を断ち切ることを試みた。19日に南軍は攻撃を開始し、師団単位の突撃を主にトーマス(☆☆3.2,3-5-4)の軍団に敢行したが、鬱蒼とした森林に邪魔されて部隊同士の協調はとれず目立った戦果は挙げられなかった。夜にロングストリートと増援の残余が到着したので、ブラッグは翌日に全軍を2つの悌団に分けて左翼の指揮をロングストリートに右翼の指揮をレオニダス ポーク(★★3.-1,2-3-3)にそれぞれ委ね、右から左に波状攻撃を行うように命じた。

9月20日 チカマウガ会戦 2日目
 (西部戦域 チカマウガ戦役)
 20日朝、数時間遅れて開始されたポークの攻撃はいつものことではあるが失敗に終わり、前夜に築かれたトーマスの陣地に打撃を与えることはできなかった。そこでブラッグは11時半にロングストリートに対して全力で攻撃するように命じた。一方、北軍では幕僚組織の混乱から一師団が森に隠れていて視認できなかったことを、戦線の空白が1/4マイルそこにあると誤認し、ローズクランスがこの架空の弱点を解消するために別な師団をそこに移動させるように命令したため現実の空白地帯が生じてしまった。丁度この裂け目に、北ヴァージニア軍のヴェテランが突入してきたため北軍はパニックとなり中央と右翼が潰走した。ローズクランスもまた司令部が蹂躪されて北方に8マイル離れたチャタヌーガへ逃れた。この勝利をより一層拡大すべくロングストリートは予備を投入し、増援を求めたが、ブラッグは余力は無いとしてこれを拒絶した。そのためロングストリートは独力で攻撃を続行するしかなかったが、彼の前には態勢を整えたトーマスの軍団が待ち構えていたのである。予備の師団が師団長のゴードン グランガー(-,2-4-3)が独断で駆けつけたことに助けられ、トーマスは数次に及ぶ南軍の攻撃を撃退し、”チカマウガの岩”との尊名を得た。二日間の会戦で北軍の損害は戦死1,653、負傷9,756、行方不明4,757であり、勝利を得た南軍も戦死2,312、負傷14,674、行方不明1,486に昇った。

9月21日 南軍、追撃をためらう
 (西部戦域 チカマウガ戦役)
 奮戦して北軍を破滅から救ったトーマスは前夜に疲れ果てた軍団と共にチャタヌーガへと退いた。ロングストリートとフォレスト(★★2.2,1-6-5)は追撃を敢行して北軍が立ち直る前に叩くことを主張したが、司令官のブラッグは彼のテネシー軍が被った全軍の30%という膨大な損害と、片足を切断したフッド(★★2.1,1-5-1)をはじめとして10人もの将軍が戦死または負傷したことに恐れをなし、彼の関心はもはや戦果の拡大ではなく戦場に残された戦死者や負傷者の世話の方に移ってしまった。”何のため彼は闘ったのか”と怒ったフォレストは問うたのだが、やがて多くの南部人が同じ疑問を抱くようになった。その後フォレストは捨てぜりふを残してミシシッピー方面へ去っていった。

9月 チャタヌーガ包囲
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 ブラッグは北軍が飢えて降伏することを望み、チャタヌーガを3方から包囲し、北方からの山越えの小道を除き補給路を断つことに成功した。しかし、この山道もロバが運ぶ荷物と同じ重さの糧食を必要とする不経済なものであり、しかも南軍騎兵の襲撃により百輌もの補給馬車が捕らえられてしまった。このためチャタヌーガでは北軍の軍馬は餓死し、食糧の配給は半分以下に減らされた。電信のみがローズクランスと北部とを結んでおり、兵士と住民に飢えが近づいてきた。しかし肝心のローズクランスはチカマウガの敗北のショックでリンカーンの言葉によると”頭を打たれたあひるのように混乱し、麻痺してしまった”。

9月23日 ポトマック軍からの抽出決定
 ハレックはチカマウガ会戦の起こる以前からシャーマン(☆☆☆2.2.2,4-5-4)に対して4個師団をチャタヌーガに送るよう命じていた。しかし彼らは鉄道の修復も兼務していたので、すぐに転進することは望めなかった。テネシー州を失うことを恐れたスタントンはローズクランスに至急増援を送ることが必要とし、ミード率いるポトマック軍の攻勢に期待していたリンカーンとハレック(☆☆☆4.-2.-1,6-0-1)の反対を説得した。リンカーンはついに折れて第11、12軍団をフッカー(☆☆☆3.-1.0,2-5-4)の指揮のもと鉄路でローズクランス救援に向かわせることを決定した。

9月24日 フッカー西部へ
 決定が下されたあとの北軍の対応は迅速であった。北軍はポトマック軍から2個軍団を転用して、フッカーの指揮のもと鉄路でチャタヌーガ救援に投入した。この転進は、アパラチア山脈を越え、オハイオ川を橋の無い所で2ケ 所渡らなければならない1,200マイルに及ぶ困難なものであり、しかも軌道の幅が異なることから車両を乗り換えなければならない始末であったが、北部の優れた鉄道組織は約10日程ででこれを成し遂げた。先のロングストリートの鉄道移送とは異なりフッカーは砲兵と騎馬そして補給馬車をも遅延なく輸送できたのである。しかし包囲されたチャタヌーガに達することはできなかった。

9月〜10月 バーンサイド前進を停止
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 バーンサイド指揮するオハイオ軍はカンバーランド峡谷からのひどい悪路を通しては充分な補給を受けることはできず、チャタヌーガへ前進することはできなかった。


10月5日 ニューアイアンサイド攻撃
 (沿岸作戦−チャールストン)
 南軍のダヴィッド型は葉巻型の船体を持った蒸気機関の4人乗り半可潜艇(煙突とハッチを水上に出し7ノットで気走する)であり、長い円材に装着された銅製の箱に65ポンドの爆薬を詰めていた(スパートーピード)。ウイリアム T.グラッセル海尉指揮するその1隻が北軍の装甲艦ニューアイアンサイドに夜間接近し艦尾付近の水線下約1メートルの所で水雷を爆発させた。しかし装甲を打ち破ることは出来ず、また区分された防水隔壁のため損傷は軽微と見られたが、見た目とは裏腹に実際のニューアイアンサイドの損害は甚大であった。横梁は大きく裂け、機関室の肋材の骨組みは4フィートに渡りひびが入り、その上、舷側は40フィートの長さで4から5インチ内部に押し込まれていた。浸水も多くキールも損傷し、沈没を避けるためには直ちに乾ドックに入るしかなかった。付近には修理しうる港湾はなく、ニューアイアンサイドはフィラデルフィアに向かい1年以上も作戦行動に復帰できなかった。ダヴィッドは爆発の余波に巻き込まれて機関が停止し、沈没は必至と見たグラッセルは艇の放棄を命じ、彼ともう1人の乗員は北軍の捕虜となった。しかし機関長のトームは機関を再始動することに成功しもう1人の乗員とともに無事に帰港する事に成功した。

10月9日 リー北進を開始
 (東部戦線)
 リーはゲティスバーグ会戦後にペンシルバニア州から撤退する間でも反撃を行う機会を窺っていたが、ポトマック軍から2個軍団が転出したため戦力比がそれまでの1:2から5:8を僅かに下回るまで好転したこととチカマウガ会戦の勝利に刺激を受け、14ケ月前にポープを打ち破った戦役とまさに同じく、マナサスを目指して進軍を開始した。しかしノースヴァージニア軍にはその時の2人の軍団長であるジャクソンとロングストリートは姿を消し、リー自身もリューマチのため愛馬トラヴェラーに乗ることはできず馬車で行軍した。一方でミードは罠に掛かるのを避けるため指揮下の5個軍団をラパハノック川をこえて退却させた。彼は北軍首脳部の曖昧な態度にうんざりしており、また指揮下の軍団長でゲティスバーグから指揮をとっていたのはサイクス(-、2-4-3)とセジウィック(☆☆3.1、4-4-3)の2人に過ぎず、新任の内ニュートン(-、4-3-3)とフレンチ(、2-2-2)は目立った能力を発揮せず、かけがいの無いハンコック(☆☆3.2、3-5-3)の後を継いだウォーレン(-、3-4-3)は本質的に参謀であり、新しい、より責任のある職務について試練を受けたことはなかった。

10月11日 第2次ブランディステーション会戦
 (東部戦域)
 スチュアート(★★2.1,2-5-5)の前進はブランディステーションで遅滞行動中の北軍後衛部隊に阻止されその結果、第2次ブランディステーション会戦と呼ばれる小競り合いが起こった。スチュアートは敵騎兵をラパハノック川の対岸に追い払ったことに満足した。その後、彼はゲティスバーグ戦役での失敗を忘れずにリーとの連絡を密接に保ち、自身と敵軍の一を絶え間なく報告しつづけた。ミードは以前にポープがとった作戦と同様に機動の余地のあるところに布陣を望んだが、ラパハノック川の対岸で後退を止めるのではなく、オレンジ&アレキサンドリア鉄道まで指揮下の5個軍団を互いに支援できるように密接させながら移動し続けた。

10月14日 ブリストーステーション会戦
 (東部戦域)
 A.P.ヒル(★★2.1,3-4-4)は4マイル前方に北軍の大規模な縦隊がマナサスに向かって進んでいるのを発見した。北軍の最後尾の軍団が浅瀬を渡河中であるのを見たヒルは先導の師団長であるヒース(-,2-4-4)に即座に攻撃するよう命じた。ヒースは右手の鉄道の築堤の影に銃剣のきらめきを見たが、ヒルは続行するアンダーソン(-,3-4-4)の師団に側面を援護させることにして攻撃を継続させた。しかしそこにはゲティスバーグでピケットの突撃を粉砕したヴェテランが待ち受けており、彼らの銃火で、ヒースの2個旅団は粉砕された。この伏撃はウォーレンによって巧みに準備されたものであり南軍が1,900の損害を出したのに対し、北軍は300に過ぎなかった。北ヴァージニア軍にとってこのような一方的な敗北は7日会戦以来であった。

10月15日 第3次マナサス会戦、生起せず
 (東部戦域)
 リーは北軍がウォーレンの戦果に勢いを得て、ミードが後退を取り止めて第3次のマナサス会戦の準備を行うのではないかと予想した。それは正にリーが望んでいたことであったが、ミードは休息すらすることなく荒廃しきったマナサス ジャンクションを越えていった。悪化する天候のなかで南軍は補給が欠乏しつつあり、かつ北軍が地の利を得て山地沿いに展開していたため正面攻撃もほとんど望みが持てなかった。10月16日の豪雨の後、リーは鉄道を破壊しながら退却することを決断した。

10月17日 グラント西部の総司令官に就任
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 リンカーンはグラントをミシシッピー川とアレゲニーズ山脈の間の北軍総司令官に任命した。この時グラントはカイロにいたが、この任命を受けるとインディアナポリスへと向かい、そこで初めて陸軍長官のスタントンと会談した。

10月17日〜30日 チャタヌーガ救援
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 グラントはチャタヌーガへ急ぎ、その途中でローズクランスを解任し後任にトーマス(☆☆☆3.2.2,3-5-4)を当てるとの電報を発した。グラントはラバ用の小道を通って10月23日にチャタヌーガに到着し、その4日後にトーマスの軍の一部をルックアウトマウンテンの南軍に気づかれること無く対岸に平底船で渡し、包囲陣に穴を開けた。この隙間を通して、フッカーの部隊が前進し十分な量の食料を市に運び入れた。グラントは同時にテネシー軍を率いてメンフィスに駐留していたシャーマンに合流するよう命じた。

10月19日 バックランドへの競争
 (東部戦域)
 リーの後退を知ったミードは騎兵だけを追撃に差し向けた。そのため南軍後衛のスチュアートはプリザントン(☆☆3.0,1-4-4)指揮する3個騎兵師団を一手に引き受けることになった。彼はウォレントン近郊まで北軍騎兵を5マイルも誘い込み、そこで山間に潜んでいたフィツ リー(-,2-3-4)の伏撃に呼応して逆襲に転じた。南軍は追撃を先導していたカスターの司令部馬車を始めとする多くの戦利品と200名の捕虜を得た。スチュアートの騎兵の損害は408(その多くは軽傷にすぎない)であったが、北軍騎兵は1,251であった。リーはラパハノック川を渡ると停止し、休息を取りながら北軍を待ち受けた。(鉄道の破壊が功を奏し、ポトマック軍は迅速に前進することができずにいた。)


11月8日 ケリー フォード、ラパハノック ブリッジ会戦
 (東部戦域)
 北ヴァージニア軍右翼を担うユーエル(★★3.0,3-4-3)の軍団の担当戦域にはラパハノック川の渡河点の一つであるケリーフォードがあったが、そこは北岸が南岸よりも高いために北軍が好んで活用していた。そこでリーは北軍砲兵の威力を削ぐためにケリーフォードの河岸から離れてローズ(-、2-4-4)の師団を配置する一方で、そこから上流に行ったラパハノックステーションに船橋をかけた橋頭堡を築いてアーリー(★★2.0,2-4-3)の師団で守備した。ポトマック軍が2つの縦隊でケリー フォードと北岸の橋頭堡に迫るとの情報を得ると、リーは左翼のヒルの軍団に右翼を増援するよう指示し翌日の反撃に備えた。しかし司令部に戻ったリーを待ち受けていたのは橋頭堡の北岸で防御に当たっていたアーリー麾下の2個旅団が夜襲を受けて、退却に成功した約600を除いた1,674名が戦死するか捕虜になったという知らせであった。またケリーフォードの南軍も苦戦していた。リーは翌日、後退しラピダン川に沿って陣を引いた。この夜襲を指揮したのはセジウィックであり、北軍は僅か461の損害で南軍に総計で2,033の被害を与えた。

11月〜12月 ノックスビル包囲
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 ルックアウトマウンテンとミッショナリーリッジに築いた陣地が難攻不落であると信じ込んでいたので、ブラッグはロングストリートの20,000をナッシュビルに送り、同市のバーンサイドを包囲してすぐさま飢えの間近まで追い詰めた。ハレックとリンカーンはグラントに電報でバーンサイドに増援を送るように半狂乱で訴えた。

11月23日 チャタヌーガ会戦 前哨戦
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 総攻撃の前の出撃陣地の確保のためカンバーランド軍の2個師団は正午すぎに南軍の前哨拠点に攻撃をかけ、1時間の戦闘ののち目標を確保した。この結果、トーマスは南軍と平行して戦線を作ることになった。

11月24日 チャタヌーガ会戦 1日目
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 シャーマンが一ヵ月の行軍の末に到着したことで、強固な陣地を築いていたブラッグの40,000に対してグラントは61,000で立ち向かうことになった。グラントは直ちにフッカーの第2軍団を右翼に送ってルックアウトマウンテンを攻撃させる一方で、疲れ切った兵に休息を与えることなしにシャーマンを左翼に投入してミッショナリーリッジ北端に向かわせた。シャーマンは撃退されたものの、フッカーはルックアウトマウンテンの”雲の上の戦い”と呼ばれる霧のなかの戦闘で小規模の抵抗を粉砕し、わずか500以下の損害でそこを占拠した。

11月25日 チャタヌーガ会戦 2日目
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 シャーマンは南軍右翼に対する突撃を再開し、フッカーもいくぶん遅れながら前進したが、シャーマンはブラッグの軍で最良のクレバーン(-,3-6-4)の師団に撃退され、フッカ−は悪路のために攻撃は進展しなかった。当初の計画では中央のトーマス率いるカンバーランド軍はチカマウガの敗戦から立ち直っていないとみなされて、単に戦線維持を期待されていただけだったが、午後に至りグラントは計画が進展しないことから南軍を牽制するためにトーマスへ限定的な攻撃を行うように命じた。しかしトーマスは名誉を挽回する好機と見て2マイルの戦線にわたり4個師団で正面から強襲したのだった。二ヵ月に渡って強化された陣地に突撃を敢行するという、一見するとゲティスバーグにおけるピケットの突撃以上に成功の望みがないと思われたが、士気が低下していた南軍は脆くも崩れさり、命令も無しに追撃を続行したカンバーランド軍はとうとう3線の陣地をすべて突破してしまった。ブラッグの兵達はパニックに陥って30マイルも潰走したが、北軍も暗闇と後衛を受け持ったクレバーンの断固たる抵抗により効果的な追撃はできなかった。二日間の戦闘で北軍の損害は戦死753、負傷4,722、行方不明349であり、南軍は戦死361、負傷2,160、行方不明2,162であった。翌日グラントはシャーマンの軍をノックスビルのバーンサイド救援に派遣した。

11月27日〜12月1日 マイン ラン会戦
 (東部戦域)
 10月から11月にかけてリーに対して優位に戦えたことに自信を持ったミードはマイン ランの流れに沿って一列に並んでいるノースヴァージニア軍の右翼で迂回し、その後すばやく西進することによって、南軍左翼の軍団が救援に駆けつける前に包囲攻撃することを試みた。チャンセラーズヴィルのフッカーとは異なり、ミードは陽動攻撃を行うことなく全力を主攻勢に注ぎ込み、スピードに全てを頼ってリーが対応する前に決着を付けようとした。濃い霧のなか、北軍の5個軍団は行軍を開始したが、多数の軍団が集中したことにより渋滞が発生したことに加え先導するフレンチの軍団が道を間違えたことで北軍の行軍は予定より1日遅れてしまった。南軍はこの遅れを見逃さなかった。リーは密偵の報告で北軍が8日分の糧食を携行させたことを知ると警告を発し、翌朝スチュアートから北軍が渡河を開始したことの報告を受けるとすかさず全軍を集中させて北軍に停止を強制した。翌朝、南軍は強固な防衛線を築いていり、これを見たミードはウォーレンの進言もあって予定していた総攻撃を取り止めた。南軍の損害629に対して北軍は1,653であった。


12月6日 ノックスビル解放
 (西部戦域 チャタヌーガ戦役)
 ノックスビルに到着したシャーマンはロングストリートが2日前に包囲を解いたことを知った。今やテネシー州から南軍は一掃され、次ぎなる作戦であるジョージア州進軍の扉が開かれた。

1863年 洋上での通商破壊
 この年の南軍の通商破壊作戦はこの任務のためにイギリスの造船所で建造された2隻が中心となった。その1隻のフロリダは1862年8月から大西洋を荒らしまわっており、その戦果の1つにメイン州のポートランドに入港し捕獲される前に北軍のカッターを爆沈させた。最終的に蒸気コルベットのフロリダはバヒアハーバーに追い詰められ、ブラジルの中立を侵犯したが北軍のワチューセットに乗り込まれ捕獲された。もう1隻の一軸スクリューのスループ”アラバマ”は1862年8月に就役し、年末が近づいても大胆な艦長ラファエル セムスの下で大西洋で歴史的な航海を続けていた。

1861年  1862年  1864年  1865年 

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