浦幌炭鉱は大正7年大和鉱業の手により開発が始まりました。しかしながら不況と輸送の不便さから当初の開発は停滞し本格的には昭和初頭からとなります。昭和8年には炭鉱鉄道の建設に着手しますが豪雨の影響などで開通を果たせず採算の悪化からか昭和11年に三菱雄別炭鉱に買収され尺別炭鉱の支鉱となります。石炭は浦幌からではなく山を越える索道にて尺別炭鉱へ送られましたがさらなる効率化のため尺浦通洞が建設され昭和16年に開通します。戦中は一度休山しますが三菱の財閥により生まれた雄別炭礦鉄道株式会社の手により昭和23年出炭を再開。昭和20年代は出炭量も増加し隆盛期を迎えます。しかしながらその期間はわずかで不況の中昭和29年に雄別炭礦鉄道株式会社の中で最も採算性の悪かった浦幌炭鉱は閉山となりました。その後昭和30年に高校の分校は廃校となり、小中学校も縮小の過程を経て廃校となりました。この地が無人の地となったのは昭和40年初頭ということでそれまで人が残ったことには不思議さを感じます。
浦幌炭鉱を目指すと最初に現れるのがこのブロック造2階建ての職員住宅で3棟が並んでいます。
川に橋台がありました。
かつての双運市街は植林が行われみらいの森と名付けられています。遊歩道なども整備。その看板の脇にはかつての市街地の配置図が添えられていて訪れた人を想像の世界に駆り立てます。
病院の基礎が林の中に残っていました。
尺浦通洞。道道には案内板がありそこからの築堤を歩きトンネルに達します。築堤は川の侵食の影響を受け切り立っていて微妙に危険。
そしてその軌道は川と道道を跨ぎます。橋脚は一部が残存。
軌道跡を双運坑方面へ辿っていくと築堤を下っていきピットに達します。双運坑の坑口のあったと思われる谷には残念ながら痕跡はほとんど見当たりませんでした。
引き返して太平坑方面へ。林道が切り通しになっていてその上を軌道跡が横切ります。
途中には硫黄臭のする坑口と前に台座のある坑口がありました。
常室川を渡る軌道跡。
その先に太平坑坑口が残っていました。
尺浦通洞は浦幌炭鉱と尺別炭鉱を結ぶ中間地点で地上に一旦姿を現します。その中間地点の浦幌側。
直別川を渡ります。
尺別側は浦幌側よりも立派でした。
参考文献 平成13年 北海道かくれた風景地図を紀行する 堀淳一
北海道旅情報巻頭 3-1.炭鉱を旅する