チューリッヒの近郊線はSバーンとして、車掌の乗車がない。最初の一週間はほとんど検札に会わなかったが、一週間過ぎた頃から、毎日検札が来た。
この時切符を持っていないと50フランのペナルティが課せられる。私は今回行くところがもの凄く多かったのでスイス・パスを購入して行ったが、それを穴があくように見て、更にパスポートを要求することが多く少々辟易としていた。しかし、一等車にしたので、空いていたので、車内での仕事にはうってつけだった。
チューリッヒ駅は重厚で立派だ。Sバーン(近郊線)の多くは地下に集められている。地下街も充実していたし、遅くまで開いていたのは、スイスも随分変わったものだと思う。かつては商店は夜7時を越えて開いていることは滅多になかった。スイスも夜型になったのだろうか?トラムの乗り場もすぐにあるし、駅内のinfomationで地図をもらって市内観光に行こう。
上の写真はグロスミュンスターである。左はリマト川を挟んで見た夕景のグロスミュンスターで、右端に宗教改革者として有名なツヴィングリの像があるヴァッサー教会の塔が少しだけ見えている。左から二枚目は旧市街を駅から歩いてきて行き当たりの広場で出会うグロス・ミュンスター。続いてグロス・ミュンスター内である。
さすがプロテスタントの教会。内部の装飾はほとんど無く、なんともさっぱりしたものである。
この教会で、ネーゲリが合唱のコンサートを行い、合唱のスイスの大きな土台を築いたのである。
リンデンホーフはチューリッヒの起源に繋がる丘。昔々、ローマ皇帝マクシミリアーヌスのキリスト教弾圧の中で、この地でフェーリックスとレグーラがこの地で斬首された。斬首はリマト川の小島でされたと伝えられているが、それは現在のヴァッサー教会(グロス・ミュンスターから湖の方に降りていったところの小さな教会)のあたりであると言われているが、彼らは首を刎ねられた後、自分の首を持ってリマト川の高台ので40歩歩いたと言う。そしてそのこに彼ら殉教者たちの墓地となる。ここがチューリッヒの核となり、やがて東フランク帝国の国境となったため、チューリッヒは要衝の地として発展していく。
旧市街、リンデンホーフの丘を下ったところにある聖ペーター教会は、最初に訪ねた日、バッハのヨハネ受難曲の演奏会の最中であった。残念ながらその日は中を見ることは出来ず、何日かしてから行く。ここも内部には装飾はほとんどなく、あっさりした教会である。宗教改革によって、外面的なものから内面的な世界へと信仰が純化していくのは、こうしたところからうかがえるというのは言い過ぎだろうか。そのためオルガンがほとんど壊されてしまったので、チューリッヒには古いオルガンが全くと言っていいほど残っていないのは、残念なことだ。
とても大きな時計を塔に持っていることでもこの教会は知られているが、私には周りの風景の方に関心がある。
旧市街の中の美しい広場の立木は冬枯れのままであったが、よく見ると新しい芽が少しだけ出ていた。
ジャコメッティの美しいステンドグラスでも有名なフラウミュンスターは2005年春訪れた時は工事中であった。もちろん中に入れるが・・・。9世紀から13世紀にかけて立てられたロマネスク・ゴシック様式の代表的な建物だそうで、維持するのも大変なのだろう。
ただ、内部はここも見るべき物はステンドグラス以外にほとんどない。チューリッヒは宗教改革の最も大きな波に洗われた町なのだ。
リマト河畔を歩いていると、美しい夕日が川面に映っていた。シルエットとなったチューリッヒの町は、もう夕暮れ五時半を回っているというのに、暖かくそぞろ歩きの人々も数多くいる。三月半ば、スイスは激しく春になっていた。