クラランのチャイコフスキー

 チャイコフスキーはロシアの作曲家ですが、彼の交響曲第四番のいくらかと代表作歌劇「エフゲニ・オネーギン」の大半と、名作ヴァイオリン協奏曲は、スイスのレマン湖畔のクラランで書き上げられました。
 ここには、大指揮者のフルトヴェングラーの家もあり(今もエリザベート未亡人が住んでいらっしゃいます)フルトヴェングラーも戦後、演奏活動が制限されていた時に、ここで第二交響曲を書き上げ、未完には終わったのですが第三交響曲を作曲しました。
 更に、別項でも書きましたが、ストラヴィンスキーもここで多くの名作を生んでいますし、フォーレも長く滞在していました。
 何故か、作曲家に人気のある地域といいますか、それだけ落ち着いた環境があるということなのでしょう。

 一八七六年の終わり頃、モスクワ音楽院の教授をしていたチャイコフスキーに富裕な未亡人のフォン・メック夫人より年額六千ルーブルの年金の提供の申し出があり、お互いに最後まで会うことのない不思議な文通だけの交際が始まった直後のことでした。
 それまでのチャイコフスキーは生活の為、音楽院で教えなくてはならず、作曲に没頭できなかったそうです。
 しかしメック夫人の年金のおかげで、第四交響曲、そして歌劇「エフゲニ・オネーギン」の作曲に没頭できたのであります。一八七七年の手紙で、この交響曲が出来たらメック夫人に捧げたいと書いていますから、余程感謝していたことは間違いありません。
 ちょうどその頃、チャイコフスキーは「あなたへの想いで死にそうです。」という熱烈な求婚を受けました。モスクワ音楽院の通信教育を受けたことがあるだけの、チャイコフスキーとは一面識もない女性だったのですが、何と彼はその求婚を受け入れ、そして破滅的な結婚をしてしまうのです。
 女性の名はアントニーナ・イヴァノヴナ・ミリュコーヴァ。五月に婚約し七月六日に結婚したのですが、芸術に対するあまりの無理解にチャイコフスキーが一ヶ月と経たない内にこの結婚は破綻してしまい、チャイコフスキーはミリュコーヴァの元を逃げ出してしまいます。一度戻って、一緒に住もうと努力はしたのですが、結局は彼が家出をして、モスクワ河に夜腰まで水に浸かって凍死しようとしているところを見つかって保護され、救われたのですが、この自殺未遂騒ぎは狂言というのが、一般的な見方のようです。しかし、そのおかげで、別居することができたのですから、効果はあったというべきでしょう。
 九月末には弟アナトーリをたよってペテルブルクに行っています。この頃チャイコフスキーが重度のノイローゼ状態だったといいますから、転地療養のために、アナトーリがチャイコフスキーをスイスに連れていったのです。
 メック夫人の年金が無ければ、こうは行かなかったでしょうね。
 第四交響曲はモスクワですでに第一楽章を完成していて、スイスに来て他の楽章を作曲。そして地中海の景勝地、サンレモで完成しています。

 また、この三年ほど前、パリでサラサーテが演奏するラロの「スペイン交響曲」を聞いたチャイコフスキーは、民族的に題材によるヴァイオリン協奏曲を作りたいと考えていたようで、レマン湖畔のクラランでの滞在中にヴァイオリン協奏曲に取りかかったのです。
 ちょうどロシアから友人のヴァイオリニストのコチュークが来ていたこともあり、奏法についての助言を得られたことも大きかったのでしょう。一ヶ月ほどで完成しました。
 コチュークは音楽院でチャイコフスキーから理論を学んでいた師弟関係でもあったそうで、彼がメック夫人のサロンで演奏した「ワルツ・スケルツォ」によってメック夫人からの年金がもらえるようになったということもあって、チャイコフスキーも大変信頼していたと思われます。
 第二楽章は当時「瞑想曲」であったのですが、コチュークや弟モデストの賛成を得られず「なつかしい土地の思い出より」という組曲の一曲目に再利用されることでボツ。そして現在知られている「カンツォネッタ」が書かれたのであります。
 わずか一日で作られたとも言われているこの小さな楽章は、実に新鮮な響きの連続で幕を開けます。メロディーの魅力がいっぱいに溢れるこの楽章をはじめ、いかにもコサック風の終楽章などは、あまりに刺激的であったようで、大ヴァイオリニストのアウアーらから「演奏不可能」というレッテルを貼られ、一時は初演もできない状態であったそうです。
 彼の有名なピアノ協奏曲第一番も当時の大ピアニストのルービンシュタインから同様のことを言われ、お蔵入りになるところをビューローらが演奏して回って、名曲の仲間入りを果たしたのですから、チャイコフスキーの協奏作品は、余程玄人受けが悪かったようです。
 そして、作曲から三年あまり経った一八八一年十二月にブロズキーのヴァイオリン、ハンス・リヒターの指揮でウィーンで、クラランで作られた名作は初演されたのであります。
 初演の時の評判はそれこそ惨憺たるもので、評論家ハンスリックは「悪臭をはなつ音楽」と決めつけすさまじい酷評に晒されることになったのです。
 しかし、ブロズキーはこの曲を各地で演奏してまわり、次第に人気を得てきたのであります。後に「演奏不可能」と言って初演を断ったアウアーも積極的にこの曲を取り上げるようになり、彼の弟子達(ハイフェッツやエルマン等々)にもこの曲を教え、世界中に広まっていったのです。

 ダン・デュ・ミディからフランス・アルプスが湖面に映り、深い青緑の湖面を白い船が行き来するこの土地、バイロンなどが感動して立ち寄ったシヨン城も近く、この穏やかな風景が、これらの音楽を育んだことを思って、今年もまたここを訪れる予定であります。