フォーレとスイス


 夏が来ると思い出すのは、尾瀬の自然だけだけではありません。トゥーン湖畔、チューリッヒのブラームスのように、王侯貴族の保護を受けなくなった作曲家たちは、冬のシーズンは演奏活動や教育活動やらで生活費を稼ぎ、夏休みに避暑地で作曲するようになっていきました。マーラーもそうですし、以前取り上げたブラームスもそうですし、フォーレもそうでした。

 パリ・コミューンの事件の後、荒廃したパリの町を逃れた作曲家のひとりにフォーレがいました。パリ郊外のランブイエに逃れていたフォーレはスイスのローザンヌに疎開していたパリのある音楽学校の作曲の先生として1871年6月赴任する。と言っても、夏の間だけのアルバイトのようなものだったようです。
 この学校の生徒たちの勧めで男声合唱とオルガンのための「アヴェ・マリア」を書いたそうで、8月、サン・ベルナルディーノの峠に登りそこで初演されたということです。
 遺作ということで、生前には出版されず、死後随分と経って1957年に出版されたそうですが、現在フランスのADESというレーベルから202132という番号でCDが出ています。

 二分足らずの短い小品でありますが、後年のレクイエムやパヴァーヌなどの世界に通じる音の世界を持っている作品でありました。
 岩と氷だけのサン・ベルナルディーノ峠に、このような音楽が鳴り響いたことに想いを馳せると、なんとも文化の香りを感じるいい話ではないでしょうか。

 これは若い頃のフォーレのお話ですが、後年、パリ国立音楽院の院長として、文字通りの重責にあった彼は、色んな会議などにも出なくてはならず、そんな時、作曲の為スイスに滞在をしていた彼をかばって、「彼は今、フランスの資産を増やしているのだ」といって会議の延期をしたりと、当時のフランス政府は随分粋な計らいをしていたようです。

 晩年、彼は耳の病気に悩んでいました。低音が高く聞こえ、高音が低く聞こえるという、特殊な病気で、終生直ることはなかったようですが、それを気にしてか、空気のいいところを求めて、また、静かに静養・作曲に専念できる所を求めて、スイスに随分滞在しています。
 ジュネーヴ、ローザンヌ、ヴヴェといった多くの音楽家と同様、レマン湖畔に加え、ルガーノ、チューリッヒ、ルツェルン、フィッツナウという所に彼の足跡が刻まれております。他には、イタリアに属していますが、マッジョーレ湖畔のイタリア側のストレーザもお気に入りだったようですし、当然、エヴィアンといったフランス側のレマン湖畔の町にもよく滞在していたようです。
 フォーレは1906年の夏、8月8日から25日まで、フィッツナウの湖畔のデラックス・ホテル、SEEHOTEL REFUGIUM VITZNAUERHOFに滞在し、イヴの歌という連作歌曲の作曲に着手しています。
 彼はこの年、この作品を持ってマッジョーレ湖畔のストレーザまで行っています。ここは、まだ私は行ったことありません。ものの本によると、湖畔の静かな静かな保養地ということで、行ったひとの話では「まるでおとぎの国」だそうです。
 フォーレがここストレーザに移った理由は、なんとスイスのホテルの宿泊費が高いということからだったようです。
 音楽院の院長をしていて、収入も安定してきたはずのフォーレには、ちょっと驚くような理由だったようで、当時からスイスの宿泊料は高かった?フィッツナウのホテルは今もそこにあって、現在は四ツ星ホテルなんですがね…。
 ストレーザのホテルも、今も当時と同じように営業しているようです。

 この後、耳の異常を医者に見てもらおうと、ローザンヌに立ち寄っていますが、青春時代から何度となく通いつめたこの町は、それこそ毎年のように滞在しています。
 パリでは音楽院の院長としての激務があり、耳の病気は何としても隠さなくてはならなかったからです。

 フォーレは、歌劇「ペネローペ」の作曲の為に、1907年、1908年と、ローザンヌに滞在しています。1908年の時に滞在した場所はオテル・セシル。現在は病院となっているそうです。ここから、長男の滞在しているシャモニーの方に行ったりしているのですから、耳のほうの調子も少し良かったのではないでしょうか。
 さて、どういう道を辿ったのでしょうか。マルティニからの鉄道はまだ開通していなかったはずですしねぇ。やはり峠越えのバスでしょうか。古い交通手段の文献がほしくなります。

 1909年、彼の耳の状態はいよいよ深刻な状態になりつつあったようです。そんな中、彼はルガーノに訪れています。駅から線路沿いにミラノ方面に数分歩いた所に、彼が定宿にしていたホテルはあったそうですが、今はありません。
 ここで、1906年に書き始めた「イヴの歌」を完成するはずだったようですが、歌劇「ペネローペ」の方が優先されたようで、ここで「ペネローペ」の二幕が完成しています。1909年から連続三年、ここルガーノに滞在したフォーレは、まさしく、ここスイスで生まれた歌劇「ペネローペ」を完成させています。

 この、スイスで生まれた名曲が、音楽史ではそれほど大きな扱いを受けないのは、フォーレという作曲家の特殊な位置にありますが、音楽も確かにイタリアのヴェルディなどと比べれば地味ではありますが、勿論好き嫌いを通り越して、真実を語る精緻な作曲態度によるその作品は、決して二級品ではなく、本物の第一級品であることは、私ごときの言を待つまでもありません。
 しかし、音楽文化の面でウィーンやパリといった華やかさとは縁のないスイスらしい、もっともスイスらしい音楽文化の有様であるように思います。いかがでしょうか。気が向いたら、「ペネローペ」を聞いてみてください。また、スイスでその多くの部分が書かれたピアノ五重奏曲の一番や歌曲集「イヴの歌」などを聞いてみられてはいかがでしょう。ただし、気に入らなくっても、当方は一切責任は負いません。あしからず…。