交響曲 ニ長調 《パリ》 K.297(300a)の自筆譜及び初期上演への考察

野口秀夫

1.はじめに

パリ交響曲の新全集版は、ヘルマン・ベックにより1957年に校訂出版されたが、幾つか存在する自筆譜と上演との関連については現在に至るまで充分に解明されてはいない。ここでは、自筆譜の状況及びモーツァルトの手紙に述べられている報告から自筆譜の異版と数回にわたる上演との関連を述べる。

2.初演までの状況

 この交響曲は、コンセール・スピリチュエルの支配人ル・グロがパリ滞在中のモーツァルトに依頼したものである。ル・グロは、既に数か月前、協奏交響曲を注文していたが、完成した曲K297B の楽譜を預りながら上演することなく紛失してしまったので、暫くはモーツァルトと仲が悪くなっていた。今回はそのよりを戻しての注文だった。パリ交響曲の作曲に当りモーツァルトが紛失事件の経験を踏まえ慎重になり、自衛手段をとったことは想像に固くない。その自衛手段とは手元に草稿を残し、ル・グロには清書譜を渡すということであったと思われる。図1に示すように6月18日の初演にはその清書譜が使われ、第1楽章と第3楽章はシベール社の初版(E) として現在残ったものの、清書譜そのものはモーツァルトの心配通りやはり紛失してしまった様である。

では草稿の方を詳しく見てみよう。第1楽章アレグロ・アッサイ(A) は、書くそばから、まだ充分に完成していないうちに順次写譜に出していったものと思われる。その写譜(C) を清書譜にしようとしたようだが、モーツァルトは修正を思い立ち、草稿と写譜の両方に修正を加えていくことになった。しかし、修正のアイデアが更に大きくなり、全曲書き変えを要することになったため、新たに管やヴィオラにソロ表示を加えたアレグロ・ヴィヴァーチェの清書譜を起したのである。

第2楽章については、アンダンティーノ(A) が6/8 拍子のロンド形式で書き始められた。 完成していれば160 小節に及んだと思われるが、中間部を抹消することにより、結局98小節の二部形式の構想に落ち着いた。しかし、モーツァルトの1778年7月3日と7月9日の手紙によれば、初演の第2楽章はアンダンティーノではなく、アンダンテと明記してある。草稿アンダンティーノから清書譜を作成する際テンポがアンダンテに変更されたものと考えられる。

第3楽章の草稿は136 小節から142 小節(Z) が残っているのみである。この1枚のシートは、スイスのアインジーデルン修道院でエルンスト・ヘスにより発見され、1965年にMJbに発表された。図2に見るように楽器指定,声部記号,拍子記号がないこと、ファゴットだけには、136 小節から138 小節をバスと異なる音で奏するよう注記があること、そして何よりも第1ヴァイオリンが前の小節からのタイを伴っていることが、このスコアが途中ページであることを示している。つまり、1小節から135 小節は既に書かれていたが、現在紛失してしまっているのだと考えるのが妥当であろう。更に重要なことは、142 小節で中断し、その後ろに空白が残っていることである。このシートには142 小節以降は書かれず、従って裏面は空白で残されたことになる。この途中までの草稿からモーツァルトは、初演用の清書を作成したものと考えられる。

3.再演に至るまで

初演後ル・グロが第2楽章アンダンテを「長すぎる」と評したことに対し、モーツァルトは「ル・グロが言うのとは反対で非常に短いのです」と7月9日の手紙に書いている。既に自らが長いアンダンティーノのロンドの構想を放棄して、短いアンダンテで初演したのだということを言いたかったのではないだろうか。

ル・グロの指示に従ってモーツァルトはアンダンテ・コン・モートのスケッチ(Z) を図3に示す通り一気に書き下ろした。このスケッチは先に述べたように第3楽章の中断した草稿の最終ページがたまたま空白だったので、そこにこの時期になって書き込まれたものと私は考える。従来のアラン・タイソン博士とニール・ザスロウ博士の説では、6/8 拍子版と3/4 拍子版の成立順序が逆であった。その理由として図2の第3楽章の作曲がまだ進行中なのに図3のとおり3/4 拍子の第2楽章はほとんど完成していることを挙げている。すなわち3/4 拍子の第2楽章は第3楽章より前に作曲されたという説である。しかし、すでに述べたように、図2は中断したドラフトで、清書譜が別に作成されたと考えればこの時間順序は逆となる。3/4 拍子版が先で6/8 拍子版が後ということが考えにくいのは短いアンダンテを新たに作曲するにあたって6/8 拍子のアンダンティーノのような長大なロンドを構想することがあり得るだろうかという疑問が湧くからである。また1780年代に出版された初版に3/4 拍子のアンダンテが含まれていることも説明が難しくなる。図3の下半分に書かれている2曲の舞曲のスケッチについては、タイソン博士は《レ・プティ・リアン》との関連ということで1778年6月11日以前と考えておられるが、これらの曲が《レ・プティ・リアン》に含まれていないのだから強いて結び付けることは無く、モーツァルトのパリ滞在中の夏、即ち6月18日以降に再び舞曲作曲のチャンスがあったと見るべきではないだろうか。K299c、K300の舞曲と恐らく同様のチャンスに作曲されたものであろう。

  7月3日、共にパリに滞在していた愛する母マリーア・アンナが亡くなる。父レーオポルトへの愛情溢れる気遣いの手紙の中でモーツァルトは更にこの曲についての報告を進めており、7月9日の手紙では新しいアンダンテが完成したと言っている。これが3/4 拍子のアンダンテで現在シベール社の初版(E) として見ることが出来るものである。スケッチのアンダンテ・コン・モートを元に、ほんの少しだけメロディを変えてある。このメロディの変更の一部は母親の死に密接に関係していると思われるので説明しておきたい。問題となるのは、図4aに示す冒頭の主題である。この部分のメロディ・ラインを抜き出してみると右側の様になる。ここで注意深く見れば、最終稿は聖金曜日に歌われるエレミアの哀歌のメロディに合わせるように変更されていることが分かるだろう。図4bの指差しマークの下2段目に示すとおりエレミアの哀歌のメロディは3音目が同音を繰り返すところに特徴があるが変更後はそこまでそっくりである。モーツァルトが他の曲でこのメロディを用いているのは、《フリーメイスンのための葬送音楽》K477(479a)の中間部の金管パートであるが、1980-83 年のMJbでM・Eボンズは、このメロディの真の出所がミヒャエル・ハイドンの《レクイエム》であると述べている。しかし、だからと言ってモーツァルトがエレミアの哀歌を知らなかったということにはならない。調べてみると、1767年作曲の《聖墓の音楽》K42(35a)で既にホルン・パートとそれに続く弦楽器のパートにエレミアの哀歌が引用されており、哀悼の意を表するメロディであることをモーツァルトは充分に知っていたのである(共に図4aを参照)。更にピアノ協奏曲変ホ長調K449では、図5に示す様に楽譜の欄外中央上部にD.M.という文字と数字1,2,3,4をリング状に配している。これは、diis manibus、ラテン語で「死者の霊に」というメッセージであり、この曲がタイソン博士の指摘通り1782年末に書き始められ暫く作曲を中断していたとすれば、1783年8月19日に生後2か月余りで亡くなったモーツァルトの第一子ライムント・レーオポルトと関係があると思われる。数字は十字を切る順序を示している様である(K449はP・Aオートグジェが指摘しているようにフリーメイスンにも関係しているが、自作品目録の1曲目に置かれていることにも注意すべきである)。

この他、敬愛する作曲家の死に際して、クリスティーアン・バッハの時はピアノ協奏曲K414(385p)に、アーベルの時はヴァイオリン・ソナタK526に作品の一部を引用して追悼の意を表することも行っている。

これらモーツァルトの習慣から考え、母親の死後最初に曲を完成させることになるパリ交響曲の3/4 拍子の新しいアンダンテで何等かの哀悼の意を表明することは当然のことであったに違いない。エレミアの哀歌を織り込んだ3/4 拍子のアンダンテはかくして完成し、8月15日聖マリアの昇天の祝日に演奏されたのであった。モーツァルトが7月9日の手紙の中で2つのアンダンテを比較し、「どちらもそれぞれ良い出来です。2つは性格的に違っているのです。しかし、後者の方が私には気に入っています。」と言っているのにはこの様な事情も関係しているのかも知れない。

なお、ヘルマン・ベックはNMAでアレグロ・アッサイが初演に用いられ、アレグロ・ヴィヴァーチェが再演用であったとしているが、第1楽章を改訂する必要性をモーツァルトは何も述べていないためその可能性は薄いと考える。

4.パリを離れて

初演及び再演に使われた自筆譜すなわち図1の「清書譜」をル・グロに売却し、モーツァルトはパリを離れることになった。帰途10月3日にはザルツブルクの父へ手紙を書いており、こう言っている。「ソナタの他は何も完成したものは持ち帰りません。二つの序曲[一曲がパリ交響曲である]と協奏交響曲はル・グロに買取られました。彼はそれを独占しているつもりでしょうが、そうはいきません。私は頭の中にまだ生き生きと入れてありますから、家へ帰ったら早速もう一度書き上げます。」 図1にあるように、この時モーツァルトは第1楽章,第2楽章のスコア(A) と第3楽章の筆写譜のスコア(D) を持っていた。しかし、それは今の手紙によれば「完成していない」ものであり、「家へ帰ってもう一度書き上げる」草稿のままのものである筈である。従ってアレグロ・アッサイ(A) 及びアンダンティーノ(A) はこの時点でまだ修正の充分施されていない草稿の形であったということが分かる。第3楽章だけ筆写譜なのは草稿が142 小節までしか無かった為、ル・グロに売却する前に清書譜から写しをとらせておいたものと思われる。

帰途立寄ったシュトラスブルクでこの曲を演奏する必要が生じた為、ザルツブルクへ帰らずしてこの曲をもう一度書き上げることとなったモーツァルトは手持ちの草稿(A) に加筆・訂正を行なったものと思われる。第1楽章については、オーケストラがパリのオーケストラと異なる為か初版(E) とは異なった修正に留まっている。第2楽章については、アンダンティーノ(A) に加筆,修正を始めたが、あまりにも譜面が汚れ読みにくいので、もう一度清書譜(B) を作成した。この清書譜(B) はタイソン博士によりスイスのバーゼル製の用紙であることが分かっており、この説が支持される。(B) が内容的に初演時の紛失したアンダンテとどの程度一致するのかは憶測するしかない。そして、この時「気に入っていた」筈の3/4 拍子の方のアンダンテを記憶の中から引き出して清書することも出来たと思われるが、結局そうせずに6/8 拍子の方を選んだという理由についても憶測するしかない。

また、以上のことから言えるのは、モーツァルト自身にはアンダンティーノ(A) による演奏を聴く機会が無かったということである(我々は旧モーツァルト全集による演奏でこのアンダンティーノを長い間聴いてきたのであるが)。

5.その後の上演

モーツァルト生前の演奏としては、1783年のヴィーン上演の他、計画倒れになったロンドン上演、そしてプラハ上演があったようである。これらの上演のベースとなったスコアは、第1楽章アレグロ・アッサイ(A) 、第2楽章アンダンテ(B) 、第3楽章筆写譜(D) であったものと思われる。一時プラハ交響曲のフィナーレを第3楽章に用いる計画があったが実現しなかったと言うことがタイソン博士により報告されている。これらの上演の度ごとにモーツァルトがスコアに手を加えていることも大いに考えられる。現在我々が見ているのは、最終の形であることに注意する必要がある。

6.おわりに

 パリ交響曲について述べてきた事をまとめると以下の通りである。
(1) パリにおける2回の上演では今は紛失してしまった清書譜が使用されたであろうこと。
(2) 初演、再演共第1楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェであろうこと。
(3) 第2楽章アンダンティーノは恐らく上演の機会が無かったこと。
(4) 第2楽章アンダンテは初演が6/8 拍子、再演が3/4 拍子の版であろうこと。
(5) 3/4 拍子のアンダンテには母の死を悼んでエレミアの哀歌が織り込まれていること。
(6) 第1楽章アレグロ・アッサイの自筆譜には何回かの改訂が含まれているであろうこと。

今後はインクの成分分析等の研究により現在残っている自筆譜の改訂の順序あるいは改訂部分のグルーピングを明らかにする必要があることを指摘して終りとしたい。

[参考文献]
(1) Neue Mozart-Ausgabe IV/11/5, Sinfonie in D ("Pariser Sinfonie") KV297(300a) edited by Hermann Beck (1957)
(2) H. Beck, Zur Entstehungsgeschichte von Mozarts D-Dur-Sinfonie, KV.297 in MJb 1955 (Salzburg 1956)
(3) E. Anderson, editor, Letters of Mozart and his Family (London 1938; rev.3/1985)
(4) E. Hess, Ein neu entdecktes Skizzenblatt Mozarts in MJb 1964 (Salzburg 1965)
(5) A. Tyson, The Two Slow Movements of Mozart's "Paris" Symphony, K.297 in: Mozart Studies of the Autograph Scores (Harverd Univ. Press 1987)
(6) N. Zaslaw, Mozart's Symphonies, Context, Performance Practice, Reception (Clarendon Press, Oxford 1989)
(7) M. E. Bonds, Gregorian Chant in the Works of Mozart in MJb 1980-83 (Salzburg)
(8) A. Tyson, The Mozart Fragments in the Mozarteum, Salzburg in: Mozart Studies of the Autograph Scores (harvard Univ. Press 1987)
(9) P. A. Autexier, Les Œuvres Temoins de Mozart (Editions Alphonse Leduc 1982)
(10) A. Tyson, New Dating Methods : Watermarks and Paper-Studies in: Mozart Studies of the Autograph Scores (harvard Univ. Press 1987)
(11)
野口秀夫:モーツァルト、手紙の真実〜交響曲 ニ長調 《パリ》 K297(300a)をめぐって 〜音楽現代 1990年1月号、芸術現代社

[本論文は1991国際モーツァルト・シンポジウムで発表したものの再録である]

Sound:交響曲 ニ長調 《パリ》 K.297(300a) 第2楽章 アンダンティーノ (補作完成:野口秀夫), [本文へ戻る]
パート設定; CH1: Flauto, CH2: Oboi, CH3: Fagotti, CH4: Corni in Sol, CH5 :Violino I, CH6 :Violino II, CH7 :Viole, CH8: Violloncello, CH9: Basso

使用楽譜;

              

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作者:野口 秀夫 Hideo Noguchi
URL: http://www.asahi-net.or.jp/~rb5h-ngc/j/k297.htm
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(改訂:1998/2/11)