バレエ《後宮の嫉妬》に寄せたモーツァルトの大いなる関心 K.135a

1.はじめに

1772年12月26日初演の歌劇《ルチオ・シッラ》K.135の幕間バレエの一つとして題名が知られている《後宮の嫉妬 La gelosìa del serraglio》には、ほぼ同名のモーツァルト自筆スケッチ《後宮の嫉妬 第1バレエ Le gelosie del serraglio. Primo ballo》K.135a(コンラッド番号Skb1773α, a-hh4)(全33曲)が残されている。しかし、この曲はモーツァルトの自作ではなく、備忘録の形での筆写と考えられ、その証拠にシュタルツァーやグラニエの原曲が最近見つかっている。

2.歌劇《ルチオ・シッラ》の幕間バレエ (NMAのカトレーン・ハンゼルの序文より)

イタリアの大劇場では、オペラ・ブッファの場合と同様にオペラ・セリアの場合にも、声楽上演と併せて幕間バレエが演奏されていた。オペラ・セリアでは更に最終幕のあとにも第3バレエがある。3つのバレエだけで約2時間かかっていた。
1760年代後半には第1幕のあとに最も長く印象的なバレエを上演する習慣となっていた:約1時間もののパントマイム、そこでは神話上の、歴史上の、あるいは異国のストーリーがうまく組み込まれたバレエが演じられる。第2幕のあとのバレエはより短く、初期の幕間ディヴェルティメントのありきたりの形、限定された規模にとどめておかれた:カラフルな導入部があり、初期の様式化された踊りでパントマイム描写が示される。これら幕間バレエはストーリー、舞台装置そして音楽においてオペラからは全く独立し、お互いに何の関係もなかった。第3のバレエはそれに反して、凱旋の踊りの形を持ち、オペラの登場人物を褒め称えており、しばしば「シャコンヌ Ciaccona」あるいは「高貴なバレエ Ballo nobile」と称されていた。

印刷台本に記されたバレエの表題は以下の通りであった。

第1バレエは《後宮の嫉妬 La gelosìa del serraglio
第2バレエは《降神術の学校 La scuola negromanzìa》(作曲者不明。ただし旧作の流用)
弟3バレエはシャコンヌ(オペラの最終合唱曲が代替)

これらのバレエのために32人の踊り手と2人の振り付け師−シャルル・レ・ピックとジュゼッペ・サラモニ (「ポルトガル人」と呼ばれていた)が初演より1年前に既に契約されていた。モーツァルトの備忘譜には舞踊手としてマリーア・カッサチ、ジュゼッペ・サラモーニ、フランチェスコ・クレリーコ、エリザベッティ・モレッリ、リッカルド・ブレク、アンナ・ビネッティ、シャルル・レ・ピックの名前が書きとめられている。なお、レ・ピックはノヴェール門下生であった。

3.バレエ《後宮の嫉妬》の系譜 (NMAのカトレーン・ハンゼルの序文より)

《後宮の嫉妬》は新作ではなかった。同名のバレエはかなりの回数の改訂が以前から成されており、今回の上演もそれらの延長線上にある。

(1)《後宮の嫉妬 Le gelosie di Serraglioのタイトルでフランツ・アントーン・ヒルファーディング(1711-68)が1752/53年にヴィーンでバレエの舞台にかけている。

(2)《後宮の嫉妬 Le gelosie del Serraglioのタイトルでヨーゼフ・シュタルツァー(1726-87)作曲の年代不明のスコアがある(ゲルハルト・クロルがチェク国立古文書館で発見した)。クロルによれば、序曲とフィナーレを含んで全19曲からなり、トルコ・ドラムすなわち小タンブリン、トライアングル、シンバルを用いている。

(3)《後宮の嫉妬 Les jalousies ou les fêtes du sérailのタイトルでジャン・ジョルジュ・ノヴェール(1727-1810)は彼の初版をフランソワ・グラニエ(1717-79)の音楽により1758年9月21日にリヨンで初演した。

(4)《サルタンの5人の妃 Les cinque soltaneというタイトルのもと、ノヴェールは彼のバレエをヴィーンで1771年1月に、異なった版およびヨーゼフ・シュタルツァーの音楽により上演した。

(5)《後宮の嫉妬 La gelosìa del serraglioが1772年12月26日初演の歌劇《ルチオ・シッラ》の第1インテルメッツォ・バレエとして上演された。曲はモーツァルトの備忘譜《後宮の嫉妬 第1バレエ Le gelosie del serraglio. Primo balloから判断すると、従来のバレエ数曲からのパスティッチョであった。現在、以下のように原曲がわかっている。

4.どのようにしてモーツァルトは備忘譜を作ったのか

4.1 楽譜からの推定

序曲と第1曲および第2曲(第2部の途中まで)のみ大譜表で書かれ、あとは旋律のみが記されている。

(1) 原曲と音価が異なる場合がある
第6曲では原曲の四分音符に対し、八分音符を書いている。これは明らかに原曲の楽譜を書き写したのではなく、音楽を思い出して筆写している証拠である。

(2) 原曲では繰り返し記号なのにベタ書きのところがある
これも原曲を書き写したのではなく、音楽を思い出して筆写しているため。

(3) 音の流れが原曲と微妙に異なっている
聴きながらの速記でもないことの証拠である。

(4) 終止形がはっきりしないところあり。
再度確認することをしていない(あるいは出来なかった)。

(5) etcで省略しているところあり
繰り返しをはっきり思い出せなかったか、楽句を思い出せなかったものと思われる。

(6) 途中で調が変わるところはよどみなく調号を変えている。
曲全体を見通しての作業としか考えられない故、曲を聴き終わってからの筆写である。

(7) 第26曲には代案も書かれている。
何回か上演を聴いていた中に代案を演奏した日があったことを意味し、モーツァルトが何回か聴きに来て記憶に焼き付けていたことを裏付けるものと思われる。

以上纏めると、何回か上演を聴いた記憶に基づいて全33曲を書き記したものであろうと考えられる。書き記した後は聴きに行っていないから、シーズンが終わってからのことであろうと思われる。

4.2 手紙からの推定

1773年1月23日、姉への手紙で「ゆうべ第2オペラ[ジョヴァンニ・パイジェッロ作曲、ジョヴァンニ・ダ・ガメッラ台本の音楽劇《モンゴルのシスマノ》]の最初のオケ合わせがありました。ぼくはその第1幕だけを聴きました。もう遅くなったので第2幕で帰ってしまったのです。このオペラでは24頭の馬と大勢の人が登場するので、なにか思わぬ事故が起こらなければ不思議です。その音楽はぼくの気に入りましたが、聴衆が好むかどうかはわかりません。というのも、劇場関係者以外は舞台稽古に立ち合うことを許されなかったからです。」と述べているところから判断すると、モーツァルトはバレエの舞台稽古にも立ち合えなかった可能性がある。しかし、バレエの楽譜を目にすることは出来たものと考えられる。モーツァルトの備忘譜のタイトルが劇場発表のものと異なり、シュタルツァーの流れを汲むタイトルと同じであるのはそのためであろう。ただし、じっくり楽譜を見ることが出来なかったであろうことは容易に想像される。

5.何のための備忘譜か?

(1) パスティッチョとして用いるネタ集め?
ちょうど、このミラノ旅行からザルツブルクに帰ったモーツァルトは、到着の翌日[1773.3.14]が大司教の選任記念日であったので、ヨーゼフ・シュタルツァーの作品ならびにグルックの曲からモーツァルト父子が編曲した「管楽器とティンパニのための10の小品」K.187=K6.Anh.C17.12をそのお祝い演奏に供している。このようなパスティッチョ作品はモーツァルトにおいてはオペラ・アリア以外には珍しいので、このころの需要と供給の特徴と考えてもよいかも知れない。

(2) 気に入った曲をプライベートに紹介するため?
1770年3月24日のナンネル宛て手紙で「[ヴィーンで踊っていた]ピック氏が、[ミラノの]舞台で踊り、そのあとミラノの舞踏会でみんなが踊ったメヌエットを近いうちに送りましょう。当地ではいかにみんながゆっくりと踊るか、ということだけはわかるでしょう。メヌエットそのものは、とっても美しいのです。」と書き、じっさいに3月27日に送り、4月21日には感想を求めている。また、このメヌエットをモーツァルトは4月25日にシーデンホーフェン宛にも送っている。(ちなみにヴァルター・ゼンによればこの曲は シュタルツァーかデラーが作曲したもので、メヌエット 変ホ長調 K.122(73t)であろうとされる)これらの曲もこのような用途のために筆写したのだろうか。

(3) バレエ作曲の勉強のため?
一見スケッチという形がいかにもこれから仕上がっていく過程にあるものと錯覚してしまうが、そうではないのだから、習作としての勉強ではない。逆に完成曲から、モーツァルトは必要なエッセンスとして何を抽出しているのかが問題となろう。メロディーとリズムだけでこと足れりの筆写なのだから、オーケストレーションの勉強ではない。物語も併記していないから物語との関連づけでもない。クロルの発見したスコアに見るように原曲はトルコ音楽としての特徴を備えていたと思われるが、モーツァルトの筆写譜ではその特徴が薄まっている。モーツァルトはトルコ音楽として捉えてもいなかったようだ。考えられる研究対象は、

6.結論

モーツァルトが1年前、このミラノで《アルバのアスカーニオ》を作曲した際には、曲が(3幕形式の)ブッファでもセリアでもない(2幕の)祝典劇であったため、幕間だけでなく曲中にもバレエを入れる必要が生じ、自前でバレエを書かざるを得なかった。そのときレーオポルトは手紙に「今日、私たちはバレエの練習を見ましたが、2人のバレエの主役舞踏手ピックとファビエが熱心なのでびっくりしました」と書いている。これはすなわち、それまでモーツァルト父子がバレエを甘く見ていたことの現れではないだろうか。以後、インテルメッツォ・バレエの勉強の機会を窺っており、K.135aでチャンスに巡り会ったというのが最もあり得ることと思われる。勉強の成果は5年後パリでの《レ・プティ・リアン》K.299bに現れ、また、《クレータの王イドメネーオ》のためのバレエ音楽K.367や《パンタロンとコロンビーヌ》K.446(416d)にも生かされたと言うべきであろう。

なお、類似メロディの転用問題については別途項を改めて論じたい。

[参考文献]


Sound
ヨーゼフ・シュタルツァー
フランソワ・グラニエ
(そしてその他作曲家?)の曲から
シャルル・レ・ピックが編集した

パスティッチョ・バレエ音楽《後宮の嫉妬》

〜モーツァルトの筆写スケッチ Skb1773α, (a-hh4)→K.Anh.109 (135a)による〜

(注記:演奏楽器はモーツァルトの指定がない限り、ユニゾンやオクターヴでの演奏指定を含め、野口が設定した。また、特記した場合に限り音符を追加したが、それ以外には音符の追加はしていない。ダカーポ時の繰り返しは省略して演奏した。小節数は繰り返しを含まず表記してあるため実際の演奏時間とは比例しない。演奏時間は全曲演奏で約40分である。原曲が判明し、ピアノ譜が参照できるものはピアノ演奏を付した)
パート設定:K.135a: Sinfonia=Ob+Str, No.1=Ob+Fg+Str, No.2=Fg+Str, No.3=Fl+Fg+Str, No.4=Str, No.5=Fl, No.6=Fl+Ob+str, No.7=Str, No.8=Fl+Ob+Str, No.9=Ob+Str, No.10=Fl+Fg, No.11=Str, No.12=Str, No.13=Fl+Ob+Cor, No.14=Fl+Ob, No.15=Str, No.16=Ob+Fg, No.17=Str, No.18=Str, No.19=Str, No.20=Fg+Cor, No.21=Fl+Ob, No.22=Fl, No.23=Fl+Ob+Str, No.24=Fl+Fg, No.25Fl+Ob+Str, No.26=Fl+Ob+Fg+Cor+Str, No.27=Str, No.28=Fl+Str, No.29=Fl, No.30=Cor+Str, No.31=Ob, No.32=Fl+Ob+Fg+Str, Starzer 1771: Sinfonia/01/03/04/05/06/08=Piano, Starzer Early: No.1=Str, No.8=Str
使用楽譜: K.135a: Müller von Asow: Briefe W. A. Mozarts, 1942, 1ter Band, Appendix pp.3-13; Starzer 1771: Walter Senn: Mozarts Skizze der Ballettmusik zu „Le gelosie del serraglio“ (KV Anh. 109/135a) in: Acta Musicologica 33 (1961), pp.183-192; Starzer Early: Gerhard Croll: Bemerkungen zum Ballo Primo (KV Anh.109/135a) in Mozarts Mainländer Lucio Silla in: Friedlich Lippmann (ed.): Colloquim „Mozart und Italien“ (Rome 1974), Köln 1978 (Analecta Musicologica 18), pp.162-163
   

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作者:野口 秀夫 Hideo Noguchi
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(作成:1998/9/6、改訂:2014/8/1)