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Lecce

レッチェ  <1997年> 戻る

ひたすらバロック

レッチェはバロックの街と言われている。
レッチェでは、16世紀の神聖ローマ皇帝カール5世時代にバロック建築ラッシュが始まった。カール5世はハプスブルグ家の絶頂期の皇帝だが、レッチェの城を整備すると同時に建物の建築を命じた。東のトルコ勢力を意識してのことと言われているが、たぶん、この皇帝はこのレッチェの地が好きだったのだと思う。いずれにせよ、皇帝の命で一気にバロックの華やかな街に変身。そして衰退。バロック建築が残された。
建物の多くは、独特の石灰岩でできているらしい。夕日に照らされると金ぴかに輝く。よそでは見られない石材だと思う。建築様式もレッチェならではのもの。プーリアでは珍しく見所の多い街になっている。


サンタクローチェ聖堂

壮麗なる窮屈さ

ただ、都市計画がまずかったのか、ルネッサンス抜きでいきなりバロックから始めてしまったのが間違いだったのか、何となく、ちぐはぐな印象を受ける。やはり、プーリアにハプスブルグ家流の壮麗さを持ち込んだがいけなかったのだろうか。
レッチェバロック建築の傑作と言えばサンタクローチェ聖堂。横に長いので遠くから眺めたい気がするが、その前に何とも狭い道があるだけ。間近で見るしかない。この手の壮麗な建物にはやはり、前面に広い庭園か何かが付いてるのが普通なんじゃないでしょうか。せめて広場が欲しいですよ。この狭い道はいけません。
これに限らず、狭い曲がりくねった道を歩いていると、忽然とバロック建築が現れる。道が狭いために、どれもこれも間近で見上げて見物することになる。 ドゥオーモ広場

何とも凄かったのはドゥオーモ広場。広場そのものは広いのだけれど、やはり窮屈で息苦しい。何しろ、広場だというのに出入口が一カ所しかない。しかもその出入口が狭い。せめてもう一カ所出入口が欲しい。中に入ると、広場のまわりをレッチェならではの建物が隙間なくびっしりと取り囲んでいる。広場には木や草が一本も生えていない。四方とも同じ色の石の壁。隙間と言えば、縦に細長い隙間が一カ所のみ。それが出入口。建築家は独特の閉ざされた空間を意識的に造り上げたのだろうか。古代エジプトの神殿じゃないんだから、もっと開放的にやって欲しかった。

そしてまた、同じ色

そして印象深かったのが、この街で食べたウニのリゾット。これまた、街に溢れる黄金色の石と同じ色をしていた。黄金色のウニがたくさん入っていた。イタリアで食べた料理の中で、このウニのリゾットが一番おいしかったと思っている。そのレストランは、サンタクローチェから少し裏路地に入ったところにあった。
ウェイターに値段や料理の内容を聞くと、ウェイターは、隣に立ってる小学生の男の子にお伺いをたてる。その店の息子らしい。男の子がウェイターに説明し、その内容をウェイターが私に伝えるという不思議な伝言ゲームが続く。ウェイターは英語ができない。男の子も英語ができない。伝言ゲームに何の意味があったのかは不明である。それにしても、その小学生が私の料理の内容と値段を決めているという状況に、若干の恐怖を覚える。
そして、その小学生が持ってきてくれた白ワインのピッチャーには氷が入っていた。そう、白ワインはよく冷やして飲むんだよね…。この店大丈夫なのだろうか、というのが当初の感想だった。しかし、ウニで納得。1000円くらいの値段だったけれど、日本だったら原価2000円分くらいのウニが投入されていた。
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<旅行メモ>

国鉄とSud-Est線の駅がある。

駅から旧市街までは少し歩く。地図が載っているガイドブックもいくつかあるのだが、旧市街の道は狭くて曲がりくねっているため、地図と実際の道とでは若干感覚が違う。最短距離を狙って歩くと迷う危険あり。