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フェデリコ2世

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シチリア文学レリーフ/Palermo 神聖ローマ皇帝フェデリコ2世ほどにユニークで異彩を放った中世君主はいない。まずは、どれほど凄かったのか、彼の偉業をいくつか並べてみよう。
中世ヨーロッパで最初の国法典を制定し、国家組織を近代化。最先端の科学や芸術に通じ、優れた学者や芸術家を保護。この辺りまでは歴史上よくいる有能な君主というだけだ。しかし、武力によらず、交渉によって聖地エルサレムをキリスト教世界に回復したのは、後にも先にもフェデリコだけの偉業である。自分自身が学者であったり芸術家であったりした王侯貴族は数多いけれど、自らキリンを飼って動物研究に熱中していたのは彼くらいのものだろう。しかも、彼は音楽の達人でもあり、自らシチリア口語で詩を詠んだ詩人でもあった。だから、イタリア文学は、彼の宮廷から始まったとも言われている。
フェデリコは、イスラムの文化にも通じた先進的な国際人だった。だからこそ、アラビア語を含む種々の言語を話すことができ、様々な学芸に通じることができたのである。彼の周囲には、様々な民族と宗教が入り乱れている。宮廷や軍隊にも、当たり前のようにイスラム教徒がいた。そのせいか、フェデリコは” アンチ・キリスト”と非難を浴びた皇帝でもあった。彼が活躍した時代は13世紀の前半のこと。ルネッサンスの光がイタリアを照らすのは、まだまだ先のことだ。この天才皇帝は、あらゆる面で時代を超越し過ぎていたのである。

トラーニの城
ふたつの王冠
さて、プーリアは、この驚異の皇帝と最も縁の深い地域と言っていいだろう。世界遺産に登録されたカステル・デル・モンテをはじめとして、フェデリコが残した建造物はプーリアで数多くみられる。ドイツでもなくシチリアでもなく、なぜかプーリアなのである。
フェデリコは、1194年、ドイツ王位と神聖ローマ皇帝位を承継していたホーエンシュタウフェン朝の王子として生まれた。だが、生まれた場所はイタリアのマルケ州イエージであり、幼年期の彼はシチリアのパレルモで養育されている。
そのためか、本家ドイツにはあまり立ち寄ろうとせず、大人になろうと皇帝になろうと、わずかな期間を除けば、ずっとイタリアに居座っていた。そして彼は、シチリアのパレルモを本拠地としながらも、プーリアの地を愛し、この地に滞在しながら狩りを楽しむことが多かったのだ。

ドイツ王家の王子が南イタリアと深い縁を結ぶことになったのは、彼の母であるコスタンツァがシチリア王家の王女だったことによる。要するに、幼年期のフェデリコは母親の実家で育てられたわけである。
母コスタンツァは、初代シチリア王ルッジェーロ2世の娘。中世期の南イタリアを征服したロベルト・ギスカルドの弟、ルッジェーロ1世の子孫にあたり、勇猛なノルマン人騎士の血を受け継いでいる。彼女は、フェデリコの父ハインリッヒ6世に嫁いでいたのだが、シチリア王グリエルモ2世が1189年に没すると、王に嫡子がなかったため、王位承継問題が生じた。この問題は、ハインリッヒの軍事介入によって、コスタンツァがシチリア王国の唯一の相続人ということで決着が着けられることになる。
そんなわけで、フェデリコは、生まれながらにしてドイツとシチリアの二つの王冠を授かる運命に恵まれたのだった。

マルトラーナ教会/Palermo もっとも、フェデリコがドイツ、シチリア、そしてイタリア半島の三分の一をも占める広大な領土の支配者となるまでには、紆余曲折があった。
父ハインリッヒが亡くなったのは、フェデリコがまだ3歳のときだった。母コスタンツァは、皇帝不在の混乱の中で、幼いフェデリコをシチリア王として戴冠させることを条件に、実権を教皇庁に譲り渡してしまう。そして、この母も時を経ずして病死してしまった。
この幼くして孤児となったフェデリコの後見人となったのが、教皇イノケンティウス3世だった。イングランド王ジョンを屈服させ、イングランド全土をローマ教会に差し出させた、あの教皇である。この頃、教皇の権威は絶頂期を迎えていた。コスタンツァから王国と幼い王をゆだねられたこの教皇は、シチリアのパレルモに優れた学者を送り込み、フェデリコの教育にあたらせた。教皇庁に従順な、立派なキリスト教君主に育てあげようというわけである。
しかし、フェデリコの天才ぶりは、はやくも教皇の思惑をはるかに超えてしまうものとなる。
もともとシチリア王国は、当時のヨーロッパの中では最先端の学問と芸術が発展していた国である。この王国は、ギリシャ人やアラブ人が官僚や軍人として重用されていた他民族国家だった。当時のシチリアは、イスラム教徒、カトリック教徒、ギリシャ正教徒、ユダヤ教徒が共存共栄する島だったのだ。だから、当時最も華やかで先進的なイスラム文化を取り入れることができたし、歴代の王は、人種や宗教にとらわれず、優れた学者や芸術家を王宮に集めることができた。
こうした王国の環境の中で育ったフェデリコは、幼い頃からその天才ぶりをいかんなく発揮していたのである。フェデリコは、9カ国語を話し、7カ国語の読み書きができたと言われる。多種多様な民族が入り乱れていた島だったから、頭のよかった彼は、周囲で使われている言語を自然に習得してしまったのだろう。フェデリコは、王国の学問の伝統を受け継ぐとともに、教皇庁から送り込まれた教師団からも次々と学問を吸収する。さらには詩や音楽といった芸術面でも才能を発揮するようになった。

アンチキリストの皇帝誕生
さて、こういう優れた人物に皇帝になってもらっては困る、というの教皇庁の本音である。
教皇領はドイツとシチリア王国とに挟まれている。当時の教皇庁の外交方針はただ一つ。ドイツ皇帝と争いになったときは南イタリアに助けを求め、南イタリアと喧嘩したときはドイツと結ぶ。これが外交の基本である。しかし、北と南が同一人物の支配下に入ってしまったら、そんなかじ取りは不可能となる。しかも、そこに有能な君主が君臨するとなれば、教皇庁にとって危険極まりない事態ということになる。
そんなわけで、教皇イノケンティウス3世は、ホーエンシュタウフェン家の王子フェデリコの存在を無視し、オットー4世をドイツ王兼皇帝にするという手を使った。しかし、この手段は教皇庁の思惑とは反対に、結果的にフェデリコに皇帝位を与えることになってしまう。ホーエンシュタウフェン家の対抗馬として王位に就けたはずのオットーだったのだが、教皇庁を裏切り、教皇領を脅かすようになった。そこで、いつもの教皇庁の外交方針が採用されたのである。北と争うときは南と結ぶというパターン。つまり、パレルモのフェデリコと結ばざるを得なくなった。そんなわけで、次代の教皇ホノリウス3世は、たぶん渋々、そして不安いっぱいだったと思うが、1220年、フェデリコを皇帝として戴冠する。
こうして皇帝フェデリコ2世が誕生した。
しかし、教皇庁は、やはりフェデリコの戴冠を後悔することになる。
フェデリコには、地方領主、都市国家などに分権化された状態を解消し、イタリア・ドイツを自らの王権の下に統一しようという野望があった。ヨーロッパには、かつてのローマ帝国をもう一度という空気が脈々と息づいている。現代に至っても、ヨーロッパ人はヨーロッパ統合という途方もないことを実現しようとしている。フェデリコにしてみれば、ローマ帝国の後継者として、当然に果たすべき責務という思いがあったのではなかろうか。
フェデリコが本拠地としたシチリア王国は、他のヨーロッパ諸国に先駆けて効率的な官僚制度が整えられ、中央集権化の進んだ王国だった。彼は、この王国を足掛かりに、イタリア・ドイツの統一と王権の強化を目指そうとしたのである。 一方、イタリアとドイツに挟まれた当時の教皇庁も強力だった。絶頂期の教皇と、世界の驚異と呼ばれた皇帝とが激突することになったのである。

第5回十字軍
オートラント 最初の正面衝突の原因となったのは十字軍問題だった。
フェデリコは、十字軍を率いて聖地エルサレムを奪回する約束をしていたのだが、ホノリウス3世の督促にもかかわらず、遠征を開始する気配すらない。
フェデリコにしてみれば、十字軍の愚かさを現代人と同じように感じていたのではなかろうか。彼の周囲には、官僚、王宮の侍従、親衛隊と、どこにでもイスラム教徒の姿がある。パレルモの街にはモスクが当たり前のようにあった。こうした国際的な環境にあったシチリア王国の歴代王たちは、十字軍に対して冷淡な態度をとりつづけてきた。自らの印章に「アッラーに讃えあれ。」と記した王がいたほどの国だ。聖地をめぐって戦争をするよりも、イスラム世界との通商で富を生み出すことの方が有意義だというのがシチリア王国流の考え方だった。
しかし、教皇にとって聖地奪回は数百年来の悲願である。ホノリウスの後を次いだ教皇グレゴリウス9世もしつこくフェデリコに十字軍の遠征を迫った。
ようやくフェデリコも重い腰を上げ、1228年には一応、聖地へと出発する。しかし、艦隊に疫病が発生して途中で引き返すことになった。もともとやる気がなさそうだったし、フェデリコの言い訳は通じず、グレゴリウスは皇帝を破門。両者の激突が始まることになる。
この破門に対し、フェデリコは彼らしい方法で応えた。交渉による聖地奪回である。彼は、再度艦隊を率いて聖地へと出発するが、剣を抜く前にペンをとった。当時エルサレムを支配していたエジプトのスルタンに親書を送って交渉を始める。パレルモと同じように、エルサレムをキリスト教徒とイスラム教徒が共存できるような街にしようというわけである。
さて、エルサレムの街は、第1回十字軍でヨーロッパ側が奇跡的な奪回に成功したものの、英雄サラディンの出現によって、再びイスラム側のものとなっていた。しかし、エルサレム以外の沿岸部地域については、ヨーロッパ側による支配は維持され、そこでは、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団といった聖職者による軍事組織が力をもっていた。十字軍の成功のためには、遠征軍と、こうした現地の軍事組織との協力が不可欠と言える。ところが教皇は、これらの現地キリスト教徒に対して、フェデリコへの協力を一切禁じるという、とんでもない指示を出していた。フェデリコの十字軍は、いろんな意味で特殊な十字軍だったのである。十字軍を妨害しようという教皇がいて、聖地奪回よりも教皇の指示を優先する現地の聖職者たちがいた。彼らは、フェデリコに協力するどころか、イスラム側に密告する始末だった。フェデリコが現地のキリスト教徒から支持を得ていないこと、皇帝がヨルダン河に赴いたときに襲えば殺害できるといった情報がスルタン側に密告されていた。
しかし、スルタンだったアル・カーミルもなかなかの人物だったらしい。フェデリコがこれまでの連中とはひと味違った皇帝であることを感じ、使者を送って交渉に入る。フェデリコは、この使者に対し、流暢なアラビア語で交渉に応じたと言われている。アル・カーミルは、イスラム世界に通じた教養人フェデリコに心服し、二人は後々も文通を続ける仲となる。1229年、キリスト教徒とイスラム教徒が互いに信仰の自由を認め合う条件で両者に講和が成立し、フェデリコがエルサレム王として戴冠された。
この十字軍の特徴を伝える一つのエピソードがある。
現地のイスラム側の代官は、フェデリコがエルサレムに入城すると、市民たちにイスラムの祈りを止めさせていた。キリスト教界の最高権威である皇帝に気を遣ってのことである。その“異変”に気づいたフェデリコは、さっそく代官を呼び出し、「それでは、あなた方が私たちの国に来たとき、教会の鐘が鳴らせなくなってしまう」と言ったそうだ。
そして、祈りを告げるモアズィンが復活すると、その合図に応じて、フェデリコの側近の幾人かもまたイスラムの祈りを始めたと伝えられている。

驚異の知性
メルフィの城 敵であるイスラム君主アル・カーミルさえも心服させたのは、フェデリコの途方もない知性だった。
ナポリ大学を創設し、学芸を奨励した君主というだけに留まらない。皇帝自身が優れた学者であり芸術家であった。フェデリコの宮廷には、優れた学者や芸術家が集まり、また、音楽や踊り、道化といった様々な趣向を凝らした宴が催された。
様々な学問に通じていたが、とりわけ科学や数学が好きだった。彼は狩りを好んだが、それは動物学の研究とも結びついていた。鷹狩りの手法とともに、鳥類の生態を研究した著書も現存し、その科学的な研究内容は今日でも高い評価を受けている。それだけでなく、宮廷の庭を動物園化してライオンやキリンとかを飼って研究していたらしい。アル・カーミルは、皇帝の趣向に合わせて、象などの動物やプラネタリウムの装置などを贈ったりもしている。
文芸面でも、この皇帝は自らシチリア口語で詩を詠んだ。イタリアで口語文学が生まれたのはフェデリコ時代のシチリアである。その意味では、彼はイタリア文学の創始者の一人とも言える。パレルモの王宮には、イタリア文学発祥を記念するレリーフがあるが、その中央に描かれた人物こそフェデリコなのである。詩聖ダンテは、こうしたフェデリコのイタリア文学への功績をたたえ、「世界の驚異」と評したのだった。
中世ヨーロッパで最初の国法典「シチリア王国法典」(1231年)をプーリアのメルフィで発布したのも彼である。また、1240年には、フォッジアで官僚や各都市の代表者が出席する帝国議会を開催している。この議会は、イギリス議会の起源となったシモン・ド・モンフォールの議会の手本になったとも言われている。法律と官僚制度が整った国家らしい国家がヨーロッパに初めて生まれたのである。経済面でも、地中海貿易によるシチリアの繁栄はヨーロッパの中でも際だったものだった。
少し大袈裟に言えば、フェデリコの王国は、ルネッサンスや絶対主義といった数百年後のヨーロッパ世界を先取りしていたのである。そして、キリスト教的な世界観にとらわれない彼の行動と合理的思考は、数世紀もの時代を超えたものだった。 ただし、フェデリコと同じ時代に生きた人々の中で、彼の先進性を理解できた人は決して多くはなかったはずである。彼の時代を超越した天才ぶりと壮大な帝国建設の野望は、多くの敵をつくる結果となった。

天才皇帝の誤算
皇帝の城/Plato フェデリコのドイツ・イタリアの統一戦略に対し、猛烈に反発したのは教皇庁だったが、彼の敵はそれだけではなかった。北イタリアの自由都市もまた、強力な皇帝権の確立を阻もうと、必死になってフェデリコと戦うことになる。
かくして、北イタリアの自由都市では、激しい戦闘が繰り広げられることになった。
フェデリコは、教皇軍と戦うだけでなく、教皇派にまわった都市に対し、容赦ない攻撃と弾圧を行った。中世の戦争というのは、勝ち敗けが決まればよく、それ以上に相手にとどめを刺すようなことはしないものだった。ところが、この時期の戦闘では、かなり残虐な殺し合いがなされるようになり、戦争の質が変わっていった。それに、教皇派と皇帝派の争いは、都市内での主導権争いが絡んでいたから、紛争の内実は複雑だった。ロミオとジュリエットの物語は、同じ都市内部での教皇派と皇帝派の対立を背景にしたものだ。同じ市民同士がいがみ合い、そして殺し合うという事態も生まれ、互いに怨恨の念を増すばかりの泥沼の戦争となった。

イスラムコロニー跡地/lucera もっとも、こうした凄惨な戦のさなかにあっても、フェデリコ自身はプーリアの地で狩猟などを楽しみ、意外と優雅な生活を送っていたようである。
彼は、プーリア各地に王宮や城を建造した。世界遺産として登録されたカステル・デル・モンテもその一つだが、この城は狩猟を楽しむためのものだった。カステル・デル・モンテは、その建築様式もユニークなものだが、娯楽用の城というところも、当時の城としては珍しい性格をもったものと言える。
また、フェデリコは、フォッジアの街に近いルーチェラにイスラム教徒を移住させ、イスラム居住区を建設している。そして彼は、その場所にも王宮を建て、ハーレムの女性やラクダなどの動物を伴って自ら移り住んだ。シチリア王国流のエキゾチックな宮廷をプーリアにもたらしたのである。
フェデリコには確固たる信念があったし、泥沼の争いも、いずれ決着が着けられると思っていたのではなかろうか。
しかし、それは誤算だった。ローマ帝国崩壊後、混乱と停滞の時代を乗り越えてきた北イタリア都市の市民にしてみれば、ようやく手に入れた自由と富を皇帝に奪われたくはない。市民たちの抵抗は自ら死を覚悟した頑強なもので、フェデリコの激しい弾圧にも怯むことはなかったのである。
戦闘は互いに決着をみることはなく、そうこうしているうちに、フェデリコは病に倒れてしまう。この天才皇帝は、1250年、プーリアの地で没する。その遺体は、ジョイア・デル・コーレに安置された後、ターラントを経由してパレルモに運ばれた。彼の棺は、パレルモのカテドラーレで目にすることができる。

栄光を失った南イタリア
フェデリコが亡くなると、教皇庁は、一気にホーエンシュタウフェン家を潰しにかかった。南イタリアの支配権を認めることを条件に、フランス王の弟シャルル・ダンジューに介入を促すという手を使った。シャルルは、大軍を率いて南イタリアに侵入。フェデリコの残した王子たちを破り、ホーエンシュタウフェン家を滅ぼす。シチリア王国は、このシャルルが王位を継ぐことになり、以後アンジュー家の支配下に入った。そして、南イタリアは、この頃からかつての栄光を失ってしまうようになる。以後、南イタリアは、フランスやスペインといった大国による領土争奪戦の対象となり、大国の植民地的な地域になってしまったのである。イタリアの南北格差は、フェデリコの死とともに始まったとも言えるだろう。
一方、ホーエンシュタウフェン家との争いに決着をつけるためにフランスを頼った教皇庁は、皮肉にもフランス側に主導権を奪われ、後に教皇庁のアビニヨン移転という結果を招くこととなった。そして、北のドイツでは大空位時代が始まる。
教皇権と皇帝権、聖と俗のふたつの最高権威が崩壊するきっかけをつくったのがフェデリコだった。彼の死後、これらの権威から解放されたヨーロッパは大きな転換期を迎えることになったのである。皇帝との熾烈な戦いを乗り越えた北イタリアの自由都市は、ルネッサンスという新しい時代を拓く。そして、フランスやスペインでは、民族統一と王権による中央集権化が進み、強力な国家が出現するようになった。
フェデリコのもっていた合理的思想、彼が目指していた国家像。これらはみな、彼の死後になってはじめて、ヨーロッパの主流となる。歴史家ブルクハルトは、フェデリコを「王座の上の最初の近代人」と呼んだ。彼は、あまりにも早く生まれすぎた天才だったのである。