1.心を閉ざした懐疑論者


「我々は懐疑心を満たすためではなく、可能性を見極めるために行くべきだ」
バートランド・ラッセル教授


O教授:さて、ヴィクター。君が唱える、その証拠とやらを聞かせてもらおうじゃないか。

ヴィクター:えー、証拠を提示する前にまず二種類の懐疑論者について論じたいのですがいいですか?

O:何それ。早く本論を始めないと読者が逃げてしまうぞ。

ヴィ:これは私の弁論に必要不可欠な話題なので、是非述べさせてください。

O:手短かにな。

ヴィ:私は今までに、他界を信念として受け入れる準備ができている人たちから懐疑論者たちまで、多様なグループに接してきました。25年間、否定論者たちと付き合い続けながらも、私自身は心を開いた懐疑論者として過ごしてきました。心を開いた懐疑論者とは一般に、物理的・心理的な心霊現象の説明として、迷信その他の根拠のない信念を受け入れたりはしない人たちです。しかし彼らは科学的な事柄、客観的に導かれた結果は受け入れます。次の章で説明されるように、最も有名な心霊研究家の多くは心を開いた懐疑論者として調査を始めています。

O:どうも君の言い方は堅苦しくていかん。つまり、おキツネ様のたたりじゃ〜、なんて言われても信じないけれど、綿密な調査の末に、この現象はキツネのたたりと呼んでもおかしくない、というような結果が出たら、それは受け入れるというわけだな。

ヴィ:そうです。私は疑い、疑問を唱え、資料を読み、研究し、調査しました。私は未だにある程度は懐疑論者だと言えます。しかしながら死後の世界に関しては、この徹底的に調査してしまった特定分野だけは違います。体系的に死後の世界を調査しようと努めた多くの偉大な科学者たちと同様に、私は我々が確かに物理的な死を越えて生き残るという取り返しがつかない結論に達したのです。ここで注意したいのは、この結論は私が常に心を開いていたために得られたということです。

 一方、歴史を眺めると、心を閉ざした懐疑論者として知られてきた人達もいます。近代的な「心を閉ざした懐疑論者」として代表的な人々と言えば、死後の世界あるいは心霊現象の存在が科学的に証明されたとしても、それを決して受け入れようとしない人々のことでしょう。

O:科学的に証明されても、か。面白い、証明できるものなら証明してもらおうじゃないか。本当にそうなったら私も信じるよ。

ヴィ:「心を閉ざした懐疑論者」は始めからすべてを決めてかかっているのです。彼らは、ガリレオを迫害した牧師たちのように、個人的な信念と矛盾するという理由で科学的な情報を考慮することを拒んでしまいます。心霊現象を調査したと主張する心を閉ざした懐疑論者たちは、客観的な結果が得られたときでさえ、その結果のほとんどを、実験をした人間が不適任だとか、詐欺師が絡んでいるに違いないなどと難癖をつけて拒絶してきました。なぜなら彼らの論理では他界と心霊現象は存在しないし、そんなものがあってはならないからです。

 オーストラリアのシドニーで私が主催した会合において、心を閉ざした懐疑論者が自己の理論と矛盾する新しい情報をどうあっても決して受け入れないことを示す、典型的なコメントがありました。私が死後の世界に関する客観的証拠を提出していくと、1人の筋金入りの心を閉ざした懐疑論者がついに爆発したのです;

「ヴィクター、たとえ君が死後の世界を証明することができたとしても、私
はそんなものを信じないぞ!」


 心を閉ざした懐疑論者はジグソーパズルのピースを意識的に、ときには無意識的に削除してしまいます。彼らは全体的な構図を「見ていない」のです。心を閉ざした懐疑論者が、科学の歴史においていかに愚かしいことをやってきたか、いくつかの例を示しましょう。


 心を閉ざした懐疑論者が、その頑固に抱き続けている信念と、彼らの五感から導き出される考えに矛盾する事柄を、すべて受け入れずに拒否してきたことを示す事例はいくらでもあります。心を閉ざした懐疑主義は宗教のような主観的信念で、根本的な誤りを含む完全に無効な認識です。それにも関わらず、彼らは声高に、死後の世界が存在しないなどという非現実的な主張を叫ぶのです。

O:死後の世界が存在しないなどという非現実的な主張? 私にはとっても現実的な主張に思えるんだがなー。私の感性がおかしいのか、君の感性がおかしいのか、読者に尋ねてみてもいいかね?

ヴィ:いいですよ。ただし、私がすべての証拠を提示した後でなら!

弁護士の論じる死後の世界


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