Tunis
チュニス

チュニジア共和国
北アフリカ

宗教・主にイスラム
言語・アラビア語、フランス語
パリより空路2時間半
市内メトロ・約0.3TD(約27円)

(1999年10月現在

バルドー ブシューシャ レピュブリック ハビブ・ブルギバ通り メディナ バルドー●バルドー国立博物館
ブシューシャ●水道橋
レピュブリック●食料市場、マジェスティックホテル
ハビブ・ブルギバ通り●イブン・ハルドゥーン像、11月7日広場
メディナ●エズシトゥーナモスク、ベイの墓、
     ダル・ベン・アフダーラ博物館、ユセフ・ディ・モスク

チュニスの歴史

●カルタゴの郊外の街として存在したチュニスが、この地域で注目されるは7世紀からである。西方拡大をはかっていたアラブ(ウマイヤ朝)は、ビザンチン帝国の影響下にあったイフリキア(チュニジア)の占領を目指していた。670年にオクバの遠征によってカイラワンが建設され、イスラム帝国のアフリカ拠点としてさらなる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後ハッサン・イブン・アル=ヌマンが率いるアラブ軍が、695年にビザンチン軍を破ってカルタゴを占領し、701年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略した。その時代に、古代ヌミディア王国の跡であるチュニェスは、アラブによるチュニスとして開発された。

●8世紀中頃、アラブではアッバース朝がウマイヤ朝に取ってかわると、イブラヒム・イブン・アル・アグラブが王朝を作り、アッバース朝に認めらて1世紀ほど独立首長国としてチュニジアに君臨した。アグラブ時代は、チュニスに港やジトゥーナモスクが建設され、カイラワンに次ぐ聖地として知られるようになった。
10世紀初頭には、アグラブを滅ぼしたファティマ朝がマハディアを中心にシーア派国家を築き、後に首都をカイロに移している。チュニジアに残ったベルベル人のブルッキン・イブン・ジリは、ジリ王朝を築いて繁栄を見せるが、ファティマ朝を裏切ってスンニ派に転向したため、大軍に攻略されてしまう。混乱に陥ったイフリキアは、一時期キリスト教徒のノルマン人に占領されたが、モロッコのアル・モハッド王朝が援助して、アブド・アル・ワヒド・イブン・アビ・ハフスがハフシ王朝を建てることとなる。

●1228年に、モロッコから独立を宣言したハフシ王朝は、チュニスを首都に定め、数々のモスクやマドラサ(学校)を建設した。また外国からも商人や巡礼者が集まり、大都市として繁栄し始めた。
1574年からオスマントルコの傘下となったが、地方総督であるパシャの権力は次々と代わり、地元のベイが実際には統治していた。17世紀ごろには、イベリア半島でレコンキスタが本格化し、アンダルシアにいたモーロ人がそれを逃れてチュニジアに移り住んだ。元々国際都市のチュニスは、ますます国際色豊かになっていった。

●19世紀になると、オスマントルコの勢力は衰え、ヨーロッパの植民地政策がチュニスにも影響し始めた。1881年、フランスの保護領となったチュニジアは、フランスの貨幣制度が導入され、様々な権力がフランスに与えられることとなった。20世紀に入り、チュニジア内で抵抗運動が盛んになったころ、フランスは世界恐慌で揺らぎ始めていた。フランスがドイツに併合された時代は、チュニジアもドイツ政権下となったが、地下に潜って抵抗運動を続けていたハビブ・ブルギバらは連合国軍側を支持した。1943年に連合国軍によってチュニジアが解放されると、ブルギバはカイロに亡命して、そこから民族運動を展開し、ついに1956年にフランスからの独立を実現した。