Palmyra
  パルミラ

シリア共和国中央部
ダマスカスよりバスで3時間半

言語・アラビア語
宗教・主にイスラム

パルミラの歴史

●‥‥‥‥‥B.C.18世紀、現在のパルミラあたりにタドゥミルという街が存在した。この街がナツメヤシを意味する"パルミラ"として有名になったのは、B.C.3世紀ごろからである。東にパルティア、西にローマ、南にはペトラと、主要都市の中間地点にあるオアシス都市パルミラには、各地から隊商がやってきた。アジアから絹や胡椒、香料を、フェニキアからは羊毛、ローマからは葡萄酒やガラスが、そして各地の文化が運ばれた。

●‥‥‥‥‥B.C.1世紀ごろからは、ローマとパルティアが戦いを繰り広げるが、パルミラはその中間で、両者をうまく利用して交易の関税によって富を得ていた。A.D.2世紀にはローマの支配下に入ったが、パルミラ王国としての自治は続いていた。226年、ササン朝ペルシャが勃興してからは、パルミラはローマ対ペルシャの戦争に参加することとなった。260年、ローマがペルシャに大敗し、地中海沿岸のアンティオキアまでがペルシャ領となったとき、パルミラのオデナイト王がペルシャ軍を追撃し、ユーフラテス川の東まで退けた。その功績から、パルミラは現在のシリアからヨルダン、レバノン一帯を支配した。

●‥‥‥‥‥オデナイトが暗殺された267年以降、幼少の王子が王座についたが、実権は摂政となった母ゼノビアが握っていた。ゼノビアはローマからの独立を図ろうと企て、破竹の勢いで領地を拡大した。ユーフラテス川からナイル川までの広大な土地を支配したゼノビアは、パルミラ帝国の成立を宣言したが、その期間はわずか2年だった。273年、ローマのアウレリウス軍によって攻撃され、敗北が明らかだったにもかかわらず、ゼノビアは降伏を拒み続けた。クレオパトラの子孫と名乗っていたゼノビアは、「クレオパトラは、どんなに高い地位で生きながらえるよりも、女王として死ぬ道を選んだことを知らないのか・・・」といった書簡をローマに送っている。援軍を求めたゼノビアはユーフラテス沿いで捕らえられ、その後ローマに連れ去られて戦車で引きまわされた、または途中で病死した、あるいはローマで屈辱的に生きながらえたなど様々な説が生まれた。そして悲劇の女王として、現在のシリア紙幣にも肖像を使用されている。

●‥‥‥‥‥ローマ軍によってことごとく破壊されたパルミラは、その後ウマイヤ朝やアッバース朝、オスマントルコと、イスラム勢力が次々と支配したが、都市として復活することはなく、次第に忘れられた存在となっていった。18世紀、ヨーロッパ人によって遺跡の存在が公表されるまで、パルミラは歴史の表舞台には登場しなかった。

 

1記念門

2四面門

3円形劇場

4列柱道路

5ディオクレティアンの城塞

6アラブの砦
    7博物館

8ベル神殿

9エフカの泉

10墓の谷

11オアシス農園