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 ことばをめぐるひとりごと  その26

お気をつけに

 目下、小林信彦氏の絶版作品を、ことばに気をつけながら読んでいるところです。今回はその一つを取り上げてみましょう。『裏表忠臣蔵』(新潮文庫、1992年発行)にこうあります。

「では、吉良様の身辺も、いろいろお気をつけにならないと……」
 治右衛門が小声で言うと、色部は重々しくうなずいた。(p.57)

 「お気をつけになる」。これは、まあ一般には〈正しい〉言い方とされていると思います。一方、「お気をつける」はダメとされているらしい。ややこしいね。
 1995年6月、文化庁が敬語の「乱れ」について調査をしたところ、「足元にお気をつけてください」という言い方に、80.5%の人が違和感をもたないと答えたということでした(1995.6.24「朝日新聞」)。しかし記事によればこれは間違いで、「お気をつけになってください」がいいとしています。
 しかし、僕は疑問を持ちます。同じように「お口をききになって……」「お目をそらしになって……」といったとすれば、これは変じゃないか。
 「お(ご)〜になる」という形は、動詞(的名詞)を挟んで使われるのが本来です。たとえば、「(お)口をおききになる」「(お)目をおそらしになる」のように。これはもともと、

殿がご出立になる。
殿がご下知になる。

と言った具合に、「出立」「下治」などという名詞に「お(ご)〜になる」が付いたのが始まりでしょうから、「お(ご)〜になる」をはずした形でも一まとまりの語としてひとり立ちできなければおかしいわけです。「お気をつけになる」の「お〜になる」をはずすと「気をつけ」で、たしかに「キヲツケ」という直立不動の姿勢はあるけれど、意味は別で、「気をつけ」自体が一まとまりの語だとはいえないでしょう。
 とすれば、「気をつけて」の敬語形は「お気をおつけになって」がもっとも〈いい〉と思われます。「つけ」を「お〜になる」で挟んだ形にするのです。
 実際はどうなのかと思い、いろいろ調べてみましたが、古いほうでは夏目漱石の「坊っちゃん」に出てきました。

「然し今時の女子は、昔と違ふて油断が出来んけれ、御気を御付けたがえゝぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらへて居ますかい」(『漱石全集 第二巻』七)

 これは松山の方言が混じっていますが、「お気をおつけになって」と発想は同じだと考えていいと思います。「お気をおつけ……」は、最近では田辺聖子『新源氏物語』にも出てきます。

「りっぱな方が女御として上られるのですから、お気をおつけになって、お会いなさいませ」

こんどのことはもう取り返しがつきませんが、今よりのちは、お気をおつけ下さいませ

 ただ、田辺さんは他では「お気をつけ下さいまし」などとも使っていて、一定していません。それに、他の作家を見ると、島崎藤村も志賀直哉も井伏鱒二も、「お気をつけ……」派なのです。

「難有うぞんじます――そんなら御気をつけなすって(島崎藤村「破戒」)

どうぞ十分御からだ御気をつけ遊ばされ升す様、御風邪召しません様、少しでもお神経痛の方おわるかったら函根に御養生に御出遊ばします様願上升。(志賀直哉「痴情」)

「いえ、そんなことありません、親父の中気は軽くてすんだそうですから。じゃ、御病人にお気をつけて下さい」「先生、何だか呆気ないような気がします」(井伏鱒二「黒い雨」)

 井伏鱒二の例など、まさに文化庁が「いかん」と言っている形です。きっと、「お気をおつけ……」では、冗長な感じがするのでしょうね。伝統的な語法に則っているといっても、文章には使いにくいのかもしれません。

(1997年記)

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