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 ことばをめぐるひとりごと  その25

不自然な「舞姫」

 なおも「作家の不自然なことば遣い」シリーズです。今回は森鴎外。
 高校の3年生になると、多くの学校では森鴎外の「舞姫」を習うことになっています。これがまったく難解な文章で、多くの生徒は理解できずに脱落してしまうようです。
 「舞姫」は、いちおう文語体で書かれています。これが理解できないということは、古文の読解力がないのだと、先生も生徒も思うに違いありません。
 ところが、この作品をよく読んでみると、森鴎外はかなり不自然な文語文を書いているようです。そのため、古典文法には合わないような表現が全編いたるところにあるのです。
 たとえば、助動詞の使い方。現在の「〜た」にあたる助動詞は、文語文では「」「けり」「」「」「たり」「」などがあるのですが、どうも鴎外は使い分けができてない。下に一例を挙げましょう。

余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ

 「包み隠しぬれど」は「包み隠しつれど」と、「つ」を使うほうがいいでしょうね。古典では、「〜を○○する」というときには、「ぬ」よりも「つ」を使うのが一般的なようです。たとえば「源氏物語」の例を見よ。

あながちなりし心の引く方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし。(須磨巻)

ほどもなく紛らはして隠し。されどほのかなる光、艶なる事のつまにもしつべく見ゆ。(蛍巻)

 また、「云ひぬ」は、まず出てこない形で、単に「云ふ」とするか、せいぜい「云へり」「云ひき」とすべきでしょう。
 どうも、鴎外は、近代以降の日本語の「〜た」を、気分によって「ぬ」やら「つ」やらに置き換えていたようです。今でいう「〜た」の用法と、鴎外が使っている「き・けり・つ・ぬ・たり・り」の用法が、ぴったり一致するということについては論文もあります(石尾眞理子「『舞姫』の一考察――時の助動詞を中心に」香川大学国文研究 15)。鴎外は「舞姫」を書くにあたって、まずドイツ語で考えていたのではないかという人もいるけれど、それは褒めすぎでしょう。
 また、擬古文にはよくあることですが、各時代のことばがごっちゃに使われているのも目に立ちます。「額(ぬか)」「日にけに」「懇(ねもこ)ろ」「つばらに」など奈良時代のことばがあるかと思えば、「右手(めて)」「左手(ゆんで)」「涙(なんだ)」「かはゆき」など中世に現れたことば、さらには、「捗(はかど)り」「酷(むご)く」「いぢらしき」など江戸時代ごろに現れたらしいことばもあります。近代のことばも当然多く混じっています。
 これらは、読解の上でそれほど支障にならないともいえますが、文章を不自然にして読みにくくしているのは間違いありません。
 もっとはっきり困るのは、普通の古典と同じように読むと意味が違ってしまったり、意味が不明になるような場合です。

我生涯にて尤も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、

 この文は、「二通の手紙はほとんど同時に(先方が)出したものだが」というのですが、「いだしし」の「し」、つまり助動詞の「き」は自分のことに使う助動詞なので、自分が手紙を出したことになってしまいます。「相手から寄こされた」といいたいのですから、「同時におこせたるものなれど」などとすべきでしょう。
 もう一例。

彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。

 これは主人公の愛人が妊娠したことを言っているのですが、「常ならぬ身」とは「無常の身」、つまりやがては命終わってしまう人間という意味です。妊娠の場合は「例ならぬ」と言うべきです。
 こういう表現が、1ページに何カ所も目につくのが「舞姫」の文章です。読解に苦しむのは、あながち生徒の勉強不足だけのせいではありません。鴎外作品の文学性については僕も大いに認めていますが、「読めないのは自分が悪いからだ」と生徒が思うとしたら、ちょっと可哀相ではあります。
 もっとも、どんな文章にせよ、悪文にせよ、書き手の言わんとするところを正確に理解・洞察できる力が、ほんとうの国語力なのですがね。

(1997年記)

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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