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 ことばをめぐるひとりごと  その14

執筆再開の筒井作品

 マスコミの用語自主規制に抗議して1993年以来筆を断っていた筒井康隆氏が、96年12月19日に「断筆」を解き、年明けに作品を発表しました。ファンにとっては、もう活字では読めないと思っていた筒井作品が帰ってくるわけで、こんなに喜ばしいことはありません。
 発表作品は「RPG試案――夫婦遍歴」(文学界)と「邪眼鳥」(新潮)で、いずれも断筆以前よりいっそう充実した文学的昇華度の高いものになっていると思います。ことばに関して言えば、「安くで買う」などというめずらしい言い回しも相変わらず出てきて、うれしくなります。

もし会社が住まいを世話してくれないのであれば、高価なマンションよりも、古い町屋を一軒安くで買って住むのも風情があっていいぞと夫は言った。(「RPG試案」)

嘉久三は売れない歌手だった筈の入谷精一がどうやって妻川重太郎の別荘を手に入れることができたのか不思議がる。「殺人事件があった別荘だから、安くで手に入れたのかなあ」(「邪眼鳥」)

 ほかの読者は知らず、中学生のころの僕は、何よりも筒井氏の周到な措辞(ことば・文字の用い方)の虜になりました。彼の作品はいわば長大な散文詩ともいえ、ひとつひとつの語・文・表現を何度も読み返しながら玩味することで無上の悦楽が得られます。
 今回の作品でも「じっと」を「昵と」と書いているのが目を引きました。これは夏目漱石や永井荷風らも使っている由緒正しい?宛字です。また、「小径(こみち)」をわざわざ「小徑」とするなど、ワープロを使う作家にしては異常なまでの凝りようといえるでしょう。
 一文字だけでも読み手を「ニヤッ」とさせるのですが、さらに長い部分になると興奮も高まります。たとえば、夫婦が得体の知れぬクイズ番組のスタジオに迷い込む場面。

〔前略〕そしてクイズが始まるのだ。
「似たものを当ててくださいね。『波』『意味』『罪』『蚤』『闇』『炭』『耳』『君』はあい。似たものはどれーっ」
「何もない」
 夫が憮然として呟けば妻は間髪を入れず絶叫する。「何もなしっ。似たものなしーっ」(「RPG試案」)

 これが爆笑せずにいられましょうか。ほとんどナンセンスと思われるこのような表現も、長大な散文詩の一部と考えると、欠くべからざるものといえます。
 詩は翻訳しにくいものですが、次のような奇怪な歌を多く含む「邪眼鳥」をうまく翻訳することができる訳者はいるのでしょうか。

クーロクロクロ黒トンボ黒トンボ
シーロシロシロ白トマト白トマト
始めましょう始めましょう始めましょう
お座敷芸者のクロ芸シロ芸パラシュート
酔って見るほど面白い面白い
三味線ないまま始めましょう
それターコタコタコ蛸ですよ蛸ですよ
イーカイカイカ烏賊ですよ烏賊ですよ
(「邪眼鳥」)

 日本語を読む喜悦を存分に味わわせてくれます。
 ただ、筒井氏本人に言わせると「詩という文学形式にいささか疑問を持っている」(「玄笑地帯」)そうです。しかし、人物は点景として描かれ、ことばそれ自体が前景化されることの多い筒井作品は、凡庸な現代詩よりも高度に詩的であるかもしれません。

(1997年記)


追記 「安くで」という言い方は、『日本国語大辞典』にも載っていません。筒井氏の他の例をもう一つ。

早く言えば、狂牛病騒ぎ以後も、さほど困ってはいない。それに豚肉や鶏肉は家でも食べさせてもらえる。惜しむらくは、高級な牛肉が非常に安くで手に入った期間、最高級のステーキをむさぼり食うという贅沢をする機会がなかったくらいのことであろう。(筒井康隆・狂牛肉の酸鼻歌「文藝春秋」2002.03 p.294)

 筒井語というわけではなさそうで、ほかでも聞いたことがありますが、なかなか例が取れません。(2003.02.11)

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