HOME主人敬白応接間ことばイラスト秘密部屋記帳所

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ三省堂国語辞典
email:
99.11.17

流涕こがれて泣く

 「御伽草子」とは、室町から江戸時代初めにかけてさかんに作られた物語です。特に、江戸中期に大坂のある本屋が集大成したものを指すことが多いようです。
 この「御伽草子」では、「嬋娟(せんげん)たる両鬢(びん)」とか、「流涕(りゅうてい)こがれて泣く」といったような慣用句がいろいろ出てきます。
 「嬋娟たる両鬢」は「たおやかで美しい両鬢」ということで、もとは和漢朗詠集の白居易の詩にあるらしい。岩波文庫の『御伽草子』を読みながら僕なりに数えてみると、上下巻で3カ所ほどに出てきました。また、「流涕こがれて泣く」は、9カ所ほどに使われていました。こちらはかなり多用されているといっていいでしょう(『明解古語辞典』にも「御伽(おとぎ)草子・浄瑠璃などの類型的な表現」とある)。
 流涕は、涙を流すこと。また「流涕こがれる」というのは、『日本国語大辞典』によれば「涙を流し泣きこがれる。激しく泣き悲しむ」とあります。しかし、分からないのは「こがれる」の部分だ。「泣きこがれる」とはどういう状態なんだろう?
 そこでさらに『日本国語大辞典』で引くと、「恋い慕う思いで胸が熱くなり、焦げるばかりになる。泣いて思いこがれる」とあります。すると「流涕こがれる」は、「涙を流し、恋い慕う思いで胸が焦げるばかりになる」ということになる。
 ところが、「御伽草子」の用例を見てみると、必ずしも「恋い慕って」涙を流す場面に使われているわけではありません。

唐糸〔女房の名〕の籠者のよし〔禁錮になったことが〕、信濃の国へ風の便りに聞えければ、〔その娘は〕「そもこれは何事ぞ」とて、天に仰ぎ地に伏して、流涕こがれて泣きにける。(唐糸さうし 『御伽草子(上)』 p.137)

という例では、娘が母を恋い慕っているといえます。大部分は、このように親や子などを慕う例です。でも、次の例は違う。
 法然上人が、捨て子の母を捜してやろうと大勢の会衆の前で尋ね人のアナウンスをする。そこに実の母らしい美しい女房がやってきます。

容顔美麗の女房も、流涕こがれ給ひけり。上人も椅子よりころびおち、流涕こがれ給ひけり。 (小敦盛 『御伽草子(下)』 p.39)

 女房は、子を慕っているのですが、上人はもらい泣きをしたのであって、だれかを恋いこがれて泣いているわけではありません。
 中世末期に出た『日葡辞書』にも「流涕こがるる」は載ってます。岩波書店版の日本語訳では「涙が涸れる.」とあり、これだと分かりやすい。「焦がれる」と「涸れる」とが、両方とも水分がなくなるという点で、重なり合うようです。ちなみに「泣き焦がるる」は「非常な悲しみのために泣く.」とあり、恋い慕うという意味は書いてありません。
 ただ「流涕こがれて泣きにける」は、「涙が涸れて泣いた」ということになり、おかしいのではないかとも言えます。しかし、これは「泣いて涙も涸れるほどだった」と訳すのが正しいでしょう。「笑って腹もよじれるほどだ」の意味で「腹をよじっ笑う」と言い、「日照りのため土さえ裂ける」の意味で「土さえ裂け照る日」というのと同じ「て」の使い方です。これを江戸時代の学者富士谷成章は「しるしの『て』」と言いました。

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。
email:

Copyright(C) Yeemar 1999. All rights reserved.