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99.11.14

気が付きづらい

 山田俊雄氏は、近著『ことば散策』(岩波新書)の中で、「読みづらい」「見づらい」という言い方に注意しています(p.149以下)。山田氏自身は「読みにくい」「見にくい」の形を使うようで、「〜づらい」という言い方が「私の耳底を刺戟する」と不快がり、「近来の日本語の微細な変化」であると指摘しています。夏目漱石はおおむね「〜にくい」を使い、「〜づらい」といえば『草枕』に「生きづらからう」とあるぐらいだとのこと。
 これは、僕には意外でしたね。たしかに歴史的には「〜にくい」よりも「〜づらい」のほうがうんと新しいのでしょうが、どちらにも違和感はありませんでした。僕自身は、どちらかというと、「〜にくい」をよく使うかな。でも、どちらの語形も行われていて、それはそれでいいんじゃないの、あまり目くじらを立てるほどのものでもないでしょう、というほどの感想しか持ちませんでした。
 ところが、この話を読んで以来、なんとなく気をつけてみると、「〜づらい」という言い方は、たしかに、非常によく耳にし、また目にもするのですね。とはいえ、「〜にくい」とはやはり意味が違うようにも思われます。

 「もうちょっと練ったほうがよさそうですね」
 と〔企画を〕軽くいなされ、徒労に終わった現実だけをかかえて会社へもどる気持ちというのは、ことばではちょっと表現しづらいものがある。封筒に入っている企画書はいずれも、時間と手間をかけてこしらえた書類だという思いがあるのでよけいにつらい。(金原巴緋朗『日本語道場』五月書房 p.137)

 この例では、自分の徒労感を説明するのが単に「困難だ」というだけでなく、その気持ちを説明するにつけても自分自身が「つらくなる」という意味を響かせているようです。後に「よけいにつらい」とあるのと、何となく附合しています。
 「読みづらい本」という場合、おそらく「読むのが困難だ」という以外に、「読んでいると頭が痛くなってつらい本」という含意があるのでしょう。また、「見づらい絵」も、「ごちゃごちゃしていて、見ていると目が疲れてつらい絵」というニュアンスがあると思います。もしそうならば、「〜にくい」と「〜づらい」とは意味が違い、「〜づらい」の存在理由はあるわけです。
 ところが、「〜づらい」の勢力は、予想以上に広がっているようでもあります。

 Aさんは今年還暦を迎えたおじさんだが、短髪のAさんにとってそれは、白髪と言うのも、ヒゲの剃り残しと言うのもふさわしくないハエモノだ。
 しかも本人では気が付きづらい場所に生えているのだから、ここは私が……。(室井滋「すっぴん魂」「週刊文春」1999.11.18 p.104)

 「気が付きづらい」には、「気が付くのがつらい」という意味はなさそうです。第一、「気が付くのがつらい」では意味不明です。こういうときこそ「〜にくい」でよいと思うのですが、「〜づらい」で済ませてしまっているのです。
 こういった無意志的な動作に「〜づらい」を使うのは、さすがに標準的でない感じを受けます。
 また、受身の行為については、「見つかりにくい場所」とか「理解されにくい人柄」と言うのが一般的だと思いますが、これも「見つかりづらい場所」「理解されづらい人柄」などと言う人もいるかもしれません。
 僕の感じでは、自分の行為にいついては、「〜にくい」以外に「〜づらい」も使えそうです。しかし、無意志的動作や、受身の行為については、もっぱら「〜にくい」を使うと思います。しかし、やがてはどの用法でも「〜づらい」で済まされる時代が来るかもしれません。
 もっとも、「敵に見つかりにくい安全な場所」のようなプラス評価の場合に、「敵に見つかりづらい安全な場所」とは非常に言いにくい(言いづらい)のではないでしょうか。こういう場合には、この先もしばらくは「〜にくい」が重宝されると思います。

追記 無意志的動作である「見える」「手に入る」に、「〜にくい」ではなく「〜づらい」を使った例を追加しておきましょう。

何だか 見えづらい
〔フリップの文字。緑内障の特集〕(NHK「生活ほっとモーニング」2000.02.04 08:35)

 かつては「プラチナペーパー」と言われ手に入りづらかった東京ドームでの巨人戦のチケットが、金券ショップで「たたき売り状態」に陥っている。(朝日新聞 2001.06.03 p.38)

(2001.11.09)

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