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98.09.27

「でも」か「ででも」か

 女と心中しようとした男が、自分だけ助かって、自殺幇助罪で病院から警察へ連れて行かれた。警察の宿直室には年寄りのお巡りがいて、彼は尊大な調子で、こちらにいろいろ尋ねてきます。

彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調べの主任でもあるかのように装い、自分から猥談めいた述懐を引き出そうという魂胆のようでした。(太宰治『人間失格』新潮文庫 p.66)

 さて、この文の「あたかも……主任でもあるかのように」というのはふつうの言い方だろうか、というのが問題です。
 どこもおかしくないとも言える。しかし、「主任ででもあるかのように」のほうがしっくり来はしませんか。
 「でも」というのは副助詞の一つで、なくても文意が通じるものです。たとえば「パンでも食べる?」は「パン食べる?」としても通じる。
 ところが、冒頭の例ですと、「でも」をとると「*あたかも……主任あるかのように」となってしまい、日本語でなくなってしまいます。その点、初めから「主任ででもあるかのように」と書いておけば、「でも」を取れば「主任であるかのように」だから、日本語として通用する。
 小説の文章を収めた『新潮文庫の100冊』というCD-ROMを調べてみますと、こういうときに「ででもあるかのよう」とする例が46例、対して「でもあるかのよう」とする例が14例でした。多くは「ででも」としているわけです。
 では「主任でもあるかのよう」ではいけないんだろうか。「でも」が挟まっていると考えるとおかしいけれど、「も」だけが挟まっていると考えてはどうだろう。それなら、「も」を引いても「主任であるかのよう」となって、立派な日本語です。
 古文では「も」を現代語の「でも」の意味で使うことはありました。

命長くて、思ふ人々におくれなば、尼になりなむ、海の底に入りなむなどぞ思ひける。

〔長生きして親たちに先立たれたら、尼にでもなろう、海の底にでも入ろうと心を決めた。〕(「源氏物語」須磨)

 訳文と比較すれば、「も」が「でも」と同じような使われ方をしているのが分かります。とすると、太宰治の文章もこれでよいのかもしれません。
 いや、ちょっと待った。「ジュースでも飲もうか」という代わりに「*ジュース飲もうか」というと意味が違ってくる。現代語の「でも」と「も」はやっぱり違うようです。古典語といっしょに考えてはいけないのです。
 どうも解決がつかなくなりました。「にぎわわしい」が「にぎわしい」に、「声をあららげる」が「声をあらげる」に、「目をしばたたく」が「目をしばたく」になるのと同じ同音脱落とも考えられます。

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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