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04.05.16

人を「届ける」は失礼か

 古い話ですが、ロッキード事件の公判で、田中角栄元首相の秘書官だった人の前夫人が元首相の5億円受け取りを証言したことがあります。いわゆる「ハチの一刺し」証言です。1981年のことでした。

 そのとき、「朝日新聞」1981.10.31にこんな4コマ漫画が載りました。

1 〔彼女の運転する車で、彼女と夫秘書官が会話している場面。彼女の証言を引用して――〕夫が「どうしよう?」ときいたので「何もなかったことにすることですよ」といいました……。
2 (万年課長)「カシコイ女性だねえ」
 (フジ三太郎)「ええ でもちょっと」
3 〔彼女が田中邸前で夫を降ろして去って行く場面〕……そして田中邸に届けました
4 (フジ三太郎)「送りましたでしょ?」
 〔配達人が荷物を持っている絵が添えられ、下に「届ける」の文字〕
 (サトウサンペイ『フジ三太郎名場面9』朝日新聞社 p.193)

 証言の中で夫を田中邸に「届けた」と表現したのは、夫を荷物扱いしているのではないか、かしこい女性を通り越して傲慢なのではないか、という心でしょう。作者は彼女をチクリと一刺ししたわけです。

 じっさい、「届ける」を人に使う例は多くありません。ふつうは、荷物や手紙、お金などについて用いています。辞書、たとえば『集英社国語辞典』を見ると、「届ける」について「物が相手に着くようにする」とあって、あきらかに「物」と限定してあります。『新選国語辞典』では「物などを先方におくる」とあり、「など」とややぼかして書いてあるものの、この「など」に「人」が入るかどうかは不明です。

 とはいえ、人を「届ける」は、人を「配達する」に比べれば、まだしも許容されるのではないでしょうか。上の前夫人の例ばかりでなく、新聞の投書で次のような例もありました。少女のころ、家族と旧満洲から引き揚げてくる時、トラックから振り落とされたという人の回想です。

 幸い、後続の車の運転手が見ていて拾い上げて、トラックが一時停止した時に両親の元へ届けてくれたそうで、無事一緒に日本に帰って来ることが出来たのだと、よく聞かされていた。(「朝日新聞」1997.10.05 p.5)

 投書者は当時4歳。小さな子どもであってまだ一人前ではなく、しかも自分のことなので、「届ける」という言い方を使ったのでしょうか。

 人についていう場合、より適当なことばがあります。それは「送り届ける」です。先ほどの『集英社国語辞典』では、「届ける」は単に「物」に使うとの説明がありましたが、「送り届ける」については「人や物を送って先方に着くようにする」と、「人」が第1に書いてあります。『三省堂国語辞典』ではさらに徹底して、「目的地へ着くまで、人に付きそって行く」と、「人」に限定しています。調べてみると、なるほど、「送り届ける」の用例は人に用いているものが多いのです。

 ところが、語感というのは人によってさまざまです。ある人がメールでこんな経験を教えてくださいました。要約すると、

「以前、ある女性が自分を空港まで送ってくれた。その時、彼女は「(あなたの)お父さんに『無事に送り届けます』って言っておいたから」と言った。自分はカチンと来て、「『送り届ける』って? おれは荷物じゃねえんだよ!」と少し強く言ってしまった」

 というのです。そのあと、少し言い争いになり、険悪な雰囲気になったのだそうです。

 用例から、「届ける」は荷物に、「送り届ける」は人に使うことが一般的であるらしいことは、すでに述べました。つまり、この言い争いはもともと必要がなかったのです。ただ、「送り届ける」を人に使うことが失礼だと感じる向きもあることが、この話から分かります。

 字面のよく似た「届ける」と「送り届ける」にこのような用法の差があることは不思議です。どういう過程でそうなったのか、考えてみる価値はあります。また、それぞれの語感は必ずしも固定していないようです。「届ける」を人に使ってもよいことばだと考える人(秘書官の前夫人、旧満洲から引き揚げた女性)もいれば、「送り届ける」を人には使えないと考える人(女性と言い争いをした人)もいます。それぞれの語から受ける印象にも動揺があるようです。

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