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03.02.11

役割をしかもたない

 「そのような役割をしかもたなかった」というふうな文章を書いたところ、後輩のさる人から「『をしか』という言い方はないでしょう」と指摘されました。
 「そういう場合には、『役割しかもたなかった』でいいんじゃないですか?」
 そうかなあ、「をしか」は、べつに変ではないでしょう。「を」を入れたほうが、何をもつのかという対象がはっきりすると思います。
 日本語学の研究書にも、次のように出てきます。

調査の結果“いと”が直接形容詞、形容動詞の直前に用いられ、それらのみをしか修飾していないと理解すべき諸例がおびただしい数にのぼることから、(井上博嗣『古代語における程度副詞』清文堂、p.71)

 何も研究書でなくても、「をしか」は文学作品に多く出てきます。たとえば、三島由紀夫「金閣寺」には「私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である」とあります。もっとも、「をしか」が古風な言い方だということは認めなければならないかもしれません。

 「に」「を」などの格助詞と、「すら」「さえ」「しか」のような副助詞は、うまく続く場合と、続けるのが無理な場合とがあります。両者の続き方は時代によっても違うし、その人の語感によって、続くかどうか意見が分かれる場合もあるようです。
 ある学生が、下の文の「にさえ」というのは正しくないのでは?と疑問を呈しました。

こんな時にさえ乾いているこの目玉をつかんで、あのビーカーのなかへ放り込んだら、どんなにか気が楽だろう。(茅野泉『教室』集英社文庫コバルトシリーズ p.36)

 「にさえ」というのは、僕の感覚ではまったくおかしくないし、ごくふつうに目にする続け方ですが、当人には違和感があったのでしょうか。若い人は使わないのかな? 「こんな時でさえ」と格助詞を「で」にすれば違和感はより低くなるかもしれません。
 格助詞「を」に「しも」を続ける言い方もあります。

男たちは縁側で将棋に興じている。街路樹のプラタナスの葉ずれ。ああいうのをしも、人間の文化といわずして、何というのだろう。(田辺聖子『古川柳おちぼひろい』講談社文庫 p.165)

 『集英社国語辞典』によれば、「しも」は現代語では「必ずしも」「まだしも」のように、副詞性の語に接続するということですから、上の田辺聖子さんの例はめずらしい使い方といえそうです。しかし、「万葉集」以来、古典にはよく出てくる言い方です。
 「万葉集」といえば、次の例も、ちょっと万葉ふうかもしれません。

なにしろ、警視庁みずから一般人の犯歴データを流していたことが問題になったばかりなのに、公の裁判所の正式決定すらをはねつけたんですからね。(岡留安則・明日はどっちだ!065「AERA」2000.11.06 p.62)

 現代語では、「正式決定をすら」というように、格助詞「を」のあとに接続助詞「すら」を続けるのが一般的ではないかと思います。人によっては「正式決定すら」しか言えないかもしれません。
 しかし、「万葉集」のころは「嬬の命の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 剣刀 身に副へ寐ねば」(194番)のように「すらを」と言っていたのです。「をすら」もありましたが、それは後世のほうが多いようです。
 副助詞のあとに格助詞「が」が来る例は、なおさら少数派です。

地元の人間でさえが、幽閉に甘んじなければならないとすると、この砂の壁のけわしさはただ事でないものになる。(安部公房『砂の女』新潮文庫 p.83-84)

公人と私人を使い分けるのは一見筋が通っていそうで実は無意味だと証明したあざやかな手口に送る拍手に対する妬{ねた}みもが言わせている文句だ。(やまだ紫・「毎日新聞」夕刊 1995.08.30 p.14)

 このような「さえが」「もが」は、あまり聞きません。「もが」は、「だれもが」という熟した形では使われますが。
 「地元の人間でさえが」は、「地元の人間でさえもが」のように「さえ」と「が」の間に「も」というクッションを置けば、より一般的になるでしょう。一方、「妬みもが言わせている文句」は、これはちょっと言い換えようがなさそうです。筆者苦心の表現といえるかもしれません。

関連文章=「人をばかり

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