秩父の大祭を訪れて、笠鉾・屋台から響く大太鼓の怒濤の迫力に、度肝を抜かれた人も多いことでしょう。
ここでは、屋台町が秩父屋台囃子に使用する大太鼓についてご説明します。
秩父屋台囃子には、演奏者の日頃の努力や能力では遠く及ばない、演奏の善し悪しを決定づける要因があります。それは使用する楽器の一つ、大太鼓の完成度です。その大太鼓が具有する両面太鼓特有の「粘り」「胴鳴り」「うなり」、つまり余韻の長さが演奏を導くことになります。
このような大太鼓と対峙した瞬間、唸りを上げる太鼓に呼応して、思いがけないフレーズが次から次へと浮かぶ。重苦しい苦悩から解放されて無我の境地に入る。それはまた、太鼓職人の技と心意気との共鳴の時でもあります〔写真右:昭和10(1935)年宮本卯之助商店製2尺〕。
そうした大太鼓が練習会場に登場するや、その迫力に雰囲気は一変し、時に、神棚の供物はひっくり返り、電波時計は誤作動を始め、祭り本番の夜には、雪洞の火を消してしまいます。
しかし、そのような大太鼓に遭遇することは極めて希で、対面した時は、まさに至福の瞬間となる。小賢しい空虚な技術論など遠く及ばない、演奏者を次の高みへと引き上げるのです。
大祭当日、笠鉾・屋台の中で炸裂する怒濤の響き。その大太鼓は、一体どこで製造されたものなのでしょうか。
太鼓の製造に長い歴史と技術を積み重ねていたのが東京浅草です。
江戸期から明治期にかけて、浅草亀岡町(江戸期の浅草新町(しんちよう)。現在の台東区今戸)には、太鼓製造業者が集積していました〔写真左〕。浅草新町は古典落語『野ざらし』のサゲになる程、かつては、太鼓製造で知られた地区でした(この事実を知らない客を相手に、演者は予めマクラで解説します。)。
中でも、丸山三右衛門、髙橋又左衛門及び石垣孫市は、「三大太鼓師」と称され、江戸時代は江戸城御用達となっていました。やがて明治も終わる頃になると、3人の名前は人名録等から消え、製作した太鼓も、関東大震災と東京大空襲を経て多くが焼失し現存する太鼓は希少となり、今や、その名を記憶する人は殆どいなくなりました。
浅草の太鼓製造業者と屋台町との関係は古く、今でも、収蔵庫の奥にある古い大太鼓の胴をよく見ると、「御太鼓師 丸山三右衛門」の焼印を確認することが出来ます〔写真右〕。江戸の丸山三右衛門製作の太鼓です。
一方、大宮町(大正5(1916)年秩父町に町名変更)の北に隣接する原谷村大字大野原に「中島佐之吉(中島太鼓)」という太鼓製造業者があり、明治以降、屋台町の多くはこの業者から太鼓を調達していました(明治12(1879)年中村2尺〔写真左〕、明治26(1893)年中町1尺8寸など)。
そうした中、下郷は、明治26(1893)年、当時業界トップの太鼓師である石垣孫市から2尺の長胴太鼓を買い入れたのでした〔写真右〕。
この時代、屋台町が地元秩父の中島太鼓ではなく、浅草亀岡町の石垣孫市から購入するなど極めて異例であり、画期的な出来事でした。
昭和に入ると、屋台町では、浅草亀岡町の「南部屋五郎右衛門(元禄2年創業)」〔写真左下〕や浅草聖天町(現台東区浅草六丁目)の「宮本卯之助商店(文久元年創業)」〔写真右下〕で製造された太鼓を使用するようになります。
昭和20(1945)年3月10日未明の東京大空襲。焼夷弾の炎は、浅草をのみ込み、一帯を焼き尽くしましたが、太鼓の製造は終戦後、すぐに復活を遂げ、この両雄が秩父の大祭で並び立っていました。
やがて、昭和も終わる頃になると、かつて圧倒的なシェアを誇った「南部屋五郎右衛門」も、次第に屋台町との取引はなくなり、代わって埼玉県内の業者が一部で参入するようになりました。
【はみ出しメモ】
石垣孫市とは、丸山三右衛門、髙橋又左衛門と並ぶ江戸の三大太鼓師の一人。
石垣孫市(江戸城御用達。「孫市」は太鼓師の石垣家が世襲していた通称)は、明治10(1877)年の内国勧業博覧会から同15年の第二回、同23年の第三回と3回連続で出品し(第1回は単独。第2回は外に髙橋又左衛門。第3回は外に南部屋石渡五郎右衛門)、第2回で「有功賞牌」、第3回で「三等有功賞」を受賞するなど、業界トップの太鼓師でした(写真右:内国勧業博覧会開場御式の図)。
しかし、明治も終わる頃、石垣孫市の名前は人名録等から消え、石垣孫市製作の太鼓も、関東大震災と東京大空襲を経て多くが焼失し、現存する例は極めて希となりました。
主なものとして、明和7(1770)年製作の土浦城櫓門の長胴太鼓(写真左:土浦市文化財(歴史資料))。天保9(1838)年張替の安中城太鼓楼の長胴太鼓。明治11(1878)年製作の浅草猿若町市村座の長胴太鼓(写真右・台東区有形文化財)が確認出来ます。
しかし、現在、江戸・明治を代表する太鼓師・石垣孫市の名を知る者さえ、殆どいなくなりました。
私たちは、その大太鼓の製造以来、今日至る経緯を胴の裏側に記された「墨書(すみがき)」で知ることが出来ます。
山から切り出された欅の原木は、荒胴に加工された後、長年の自然乾燥を経て、胴に仕上げられます。完成した胴に皮が張られると、大太鼓の完成です。それは、まさに太鼓に命が吹き込まれ、これから百年以上にわたる太鼓の生涯が始まる瞬間でもあります。
新調された大太鼓は、祭りで大事に使用されますが、大太鼓は力の限り叩くためのもの。皮は消耗品で、一定期間使用すれば破れます。破れた大太鼓は、工場の張り場に持ち込まれて、張り替え作業が行われます。そしてまた使用され、皮が破れ、張り替え、使用。その繰り返しです。
新調や張り替え作業の都度、施工の期日、業者名、職人の氏名が胴の裏側に墨書きされます。張り替えで皮を剥がす時に現れる墨書は、私たちに、新調から始まる「太鼓の履歴」を教えてくれるのです〔写真左:大太鼓の墨書〕。
隅田川に架かる言問橋近くの宮本卯之助商店の本社裏手にある「張り場」。職人達が自ら皮づくりの工程を仕上げた皮の中から、さらに、選りすぐった皮を張っていく。
その現場に立ち会っていると、秩父の祭り文化が、実は、江戸の太鼓職人の鍛えられた伝統の技に支えられていることや、聞く者の心を揺さぶり、魅了する重厚な太鼓の響きも、太鼓職人の高い技術と弛まぬ工夫、心意気が造り出していることがわかります。
秩父屋台囃子は、浅草の太鼓職人と秩父の太鼓の叩き手が互いの技を認めながら、強い絆の基に形作られたといっても過言ではありません〔写真右:太鼓職人・宮本卯之助商店
坂本敏夫さん〕。
秩父の祭り文化と浅草の太鼓製造業者。両者の付き合いは、関東大震災や第二次世界大戦の戦禍などの苦難の時を越えて、今日まで途絶えることはありませんでした。
太鼓づくりの技の継承は、太鼓製造業者の確固たる信念と責任で初めて成し遂げられます。経営者にも太鼓職人にも、世代交代の時期は必ずやって来ます。失敗すれば、100年がかりで築き上げた信頼も、失墜するのは一瞬です。一方で、祭りや太鼓を取り巻く情勢の浮き沈みも不可避で、経営の厳しい時期がやって来ることもあるでしょう。
それでも、これまでに培った太鼓づくりの技は、今後も途切れさせることなく次に繋いで欲しい。演奏する側の切なる願いです〔写真左:隅田川〕。
【協力:太鼓館(東京都台東区)】
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