秩父屋台囃子は、埼玉県秩父地方に広く分布し、それぞれの地区で伝承され、その祭礼で演奏される祭り囃子です。 周囲の山々に雪の残る春まだ浅い山里の春祭りに始まり、降り注ぐ蝉時雨の中、地区の人々が力を合わせて笠鉾の曳行に汗を流す夏祭り (写真右:栃谷の祇園)。 色づき始めた木々の向こうに抜けるような青空が広がる秋祭り。 どの祭りでも秩父屋台囃子は、あくまで力強く、祭りがそこに住む人々の心を支え、心を結ぶ絆となっています。かすかに聞こえていた秩父屋台囃子が徐々に近付き、ようやく姿を見せた笠鉾・屋台が地区の人々に曳かれて来る。かけがえの秩父の情景です。 そして迎える冬祭り。秩父神社例大祭は、「秩父夜祭」として知られ、その当日、2台の笠鉾と4台の屋台の曳行中に演奏される秩父屋台囃子(以下「屋台囃子」といいます。)は、その巡行を盛り上げ、周囲を圧倒する重厚な響きが聞く者の心を揺さぶります(写真:左)。 例大祭の期間は、毎年12月1日から6日までですが、6台の笠鉾・屋台がそろって祭りに登場するのは、12月3日です。この日は、朝8時頃から翌日未明の3時過ぎまで、笠鉾と屋台が秩父市の中心市街地を曳行され、毎年20万人前後の見物客で賑わいます。 笠鉾・屋台1台当たりの曳行に携わる人員は、およそ100人から150人。屋台囃子は笠鉾・屋台が曳行される間、途切れることなく演奏され、曳き手の士気を鼓舞し、気持ちを一つにします。 ここからは、例大祭の当日、巡行する笠鉾・屋台の中で演奏される秩父屋台囃子について、ご説明して参ります。 秩父屋台囃子の演奏は、笠鉾では腰幕や腰支輪に囲まれた土台の中で、屋台では舞台後方の襖と後幕で囲まれた楽屋の中で行われます。屋台囃子を演奏する様子は、笠鉾・屋台とも、外部から見ることはできません。 屋台囃子に使用する楽器の編成は、大太鼓(長胴太鼓 直径2尺)1、小太鼓(附締太鼓 2丁掛け又は3丁掛け)4又は3、鉦(摺鉦)1、笛(篠笛 7穴2本調子又は3本調子)1です。 楽器の配置は、笠鉾の場合、土台内部前方の登り勾欄下の空間に大太鼓が縄で吊り込まれ、その後方に4つの小太鼓が縦1列に水平に並べて設置されます。一方、屋台では、舞台後方の楽屋内に、大太鼓が進行方向の後ろを向いて設置され、その横に3つの小太鼓が1列に並べて設置されます。 屋台囃子は、単なる大太鼓の独奏ではなく、大太鼓・小太鼓・笛・鉦の楽器同士の掛け合いと協調の中で初めて成り立ちます。だから、笛と鉦の演奏は、例大祭の笠鉾・屋台では、常に太鼓と同じ場所で行います。 特に、屋台囃子の演奏を成立させるのに、笛の役割は極めて重要です。 笛の名人にかかれば、大太鼓は騙され、煽て上げられ、曲想を操られ、夢見心地で太鼓と対峙する。逆に、稚拙な笛にかかれば、屋台囃子は台無しになります。掛け合いと協調が演奏を成立させる。だから、笛が笠鉾・屋台の外で歩いて演奏することはないのです。 屋台囃子の演奏のために笠鉾・屋台に一度に乗り込む人数は、笠鉾・屋台ともに15人から20人前後です。狭い空間での演奏と言われますが、叩き手が思い切り撥(ばち)を振り下ろすのに十分なスペースがあります。このほかに、交代要員が曳行される笠鉾・屋台の外で控えています。 秩父屋台囃子の曲目は、笠鉾・屋台が前進するとき、大太鼓によって演奏される「屋台囃子」(通常「大太鼓」という。)と、笠鉾・屋台の方向転換 (「ギリ廻し」という方法を用いる。)の時に、小太鼓のうち、一番大太鼓に近い太鼓で演奏される「玉入れ」の2種類です。 屋台囃子の演奏は、小太鼓が「テレテッケ・テレテッケ」という4打のリズムを刻み、これが他の楽器の基本リズムとなります。演奏のリ−ドは終始大太鼓が行って、これに合わせて笛と鉦が演奏されます。 演奏のリ−ドは終始大太鼓が行って、これに合わせて笛と鉦が演奏されます。大太鼓は1人で行い、体力の限界となる2、3分で次々と交替。小太鼓は、4人又は3人が同時に同じリズムを叩き、適宜交代します 玉入れの演奏は、方向転換の作業が続く間、1人で行いますが、作業時間が長引く場合は、例外的に2人以上で行うこともあります。 大太鼓の構成は、大まかに@「ぶっつけ」、A「大波」、B「小波」、C「ドコン・ドコン」、D「打ち込み」、E「ぶっきり」からなります。 屋台囃子の演奏は、町会ごと、叩き手ごとに違いがありますが、特に大太鼓のD「打ち込み」の部分に大きく特徴が現れます。 秩父屋台囃子は、特に、大太鼓は、演奏者の独奏的な要素が強く、叩き手がその瞬間の空気を感じて、構成する節 (「フレーズ」)を即興で組み立てて、自らの屋台囃子を演奏しなければならなりません。 そこは一瞬の迷いも後戻りも許されない一発勝負。これこそが秩父屋台囃子であり、叩き手が培った技の表現そのものとなります。 瞬時に豊富なフレーズを如何に組み立てるか。屋台囃子の演奏は、叩き手の伎倆が周囲で聞く者に試される、緊張の時でもあるのです。 【はみ出しメモ】 昭和40(1965)年頃制作された秩父屋台囃子のレコードがあります。 土産品のため、録音状況は悪く、短時間に収めるため速度も速くなっています。それでも、再生すれば半世紀以上が過ぎた今日も、秩父屋台囃子が変わることなく継承されていることがわかります。 屋台町では、先輩や親の世代から習った屋台囃子を変えることなく次に繋ぎます。世代が代わっても、しっかりと次に受け継いでいる証(あかし)です。 昭和30年代の秩父盆地や秩父夜祭、そして、秩父屋台囃子演奏の風景とともにお楽しみください。→ 動画 【発売元】秩父市観光土産品協同組合 【形式】LP 33 1/3 ソノシート 【演奏】若葉会 【奏者】大太鼓:柴岡陟展(中近) → 玉入れ:中村政二(中近) → 大太鼓:高橋利雄(上町) 屋台囃子の中では、特に大太鼓の演奏者の独奏的な要素が強く、叩き手はその瞬間の空気を感じて、自らの屋台囃子を即興で組み立てて、個性豊かな演奏を行います。 それは、大太鼓・小太鼓・笛・鉦それぞれのぶつかり合いでもあり、祭りの場面場面で共有する瞬間の連続の中で、互いに感じ合った偶然の所産です。まさに「ぶっつけ本番」。これこそが屋台囃子の神髄であり、決まった型に嵌め込めば、屋台囃子が屋台囃子でなくなります。 「太鼓とは自己表現そのものではないだろうかと考えるようになった。(中略)太鼓をたたくときには余計なことは一切考える必要も余裕もない。自分の技術というものは意識しなくとも腕や体が覚えているが、特に大太鼓では自分の音・たたき方・間・思いと向き合う機会なのであり、つまりは自己と真正面から向き合う嘘のつけない世界だといえる。 太鼓・鉦・笛などの音が自己の精神と一致する時(満足する時)は研ぎ澄まされ、淘汰された自己と出会うことができる。しかしこれはまれなことで、たたく度にそのような状態になることは難しいからこそ奥深く魅力ある世界なのであろう。」(神木律子「秩父屋台囃子から見る秩父の文化と人間形成」(『埼玉民俗第30号』所収)) 大太鼓に対峙する叩き手の苦悩と喜びが見事に見抜かれています。 この苦悩と喜びこそ、屋台囃子の伝承者を上達へと導く原動力です。 自分で満足のいく太鼓に遭遇することなど、年に1度の祭りの1日に1度あるかないか。それでも、叩き手は、年齢・経験年数に関係なく、一人悩み苦しむからこそ、さらなる高みへと引き上げられる。このことを自覚するか否かが、その叩き手がこれからも上達していくか、それとも、幾つになっても下手なままで終わるかを決定する分岐点になるのです。 【はみ出しメモ】 「秩父夜祭が守られてきたのは、個人を突出させずにみんなで、と考えた先人の知恵のためでもある」と曳山研究家の作美陽一さん (平成22(2010)年11月30日付朝日新聞)。 確かに、笠鉾・屋台の曳行一つを見ても、100人を超す曳き手、下方に上方、消防団、町会の行事や役員など、様々な役割を担った人々によって運行され、さらに、それらを支える屋台町の構成世帯があります。 これらの一人一人が力を合わせて毎年繰り返しながら、次の世代に引き継いできたのであって、突出した特定の個人によって屋台行事が行われているのではありません。 また、「山車の囃し手は生涯一度限り」という決まり事や、山車や飾りに個人名がないこと」が例に挙げられています。 屋台行事の構成要素の一つである屋台囃子。「家元」や「無形文化財」を名乗る者が現れても、屋台行事を守る人々から顧みられることはない。その理由はこんなところにあります。 12月3日の大祭当日、6台の笠鉾・屋台の中で秩父屋台囃子を演奏し、「秩父祭 の屋台行事」の一つとして、その屋台町における屋台囃子を今日まで継承してきたのが、中近(なかちか)、下郷(したごう)、宮地(みやじ)、上町(かみまち)、中町(なかまち)、本町(もとまち)の六町会の太鼓連です(「〇〇屋台ばやし保存会」(〇〇に町会名)の名称は、昭和52年3月29日の埼玉県指定無形民俗文化財に指定の際、「保護団体」として初めて使用されましたが、その後、定着していません。) 。 それぞれの太鼓連の、屋台町における地位や人数、年齢構成などは、その町会の歴史的経緯や人口規模等により大幅に異なっていますが、構成メンバーは、基本的に屋台町会を構成する世帯の男子であり、多くは小学校低学年の頃から参加します。 かつて、一部の町会では、特定の狭い区域の特定の世帯から親子、兄弟が太鼓連に参加していましたが、今は、こうした閉鎖的な家系的集団の性格はなくなり、町会のすべての構成員に開かれた伝承団体になっています。 そもそも、屋台囃子の伝承に世襲などなく、親子での参加はあっても、むしろ希です。 屋台町会には、その町会の屋台囃子の責任者として、「太鼓長」という役職が置かれています。「太鼓長」の主な役割は、「ならし」と呼ばれる祭り前の屋台囃子の練習会の統括、祭礼当日の笠鉾・屋台における屋台囃子の指揮をはじめ、日頃の太鼓連の運営の取りまとめなど、当該屋台町の祭礼行事の役職として重要な役割を果たします。 大祭当日、笠鉾・屋台の中で演奏される屋台囃子は、六つの屋台町それぞれの太鼓連において、古くから個々に伝承されたものであり、屋台町ごとの屋台囃子の伝統が今日に受け継がれています。 中近は→こちら 【はみ出しメモ】 昭和26(1951)年から秩父商工会議所により、「秩父商工祭」が例大祭の期間中に行われるようになり、その催し物の一つとして、「秩父郡下秩父屋台囃子コンクール」が同年12月6日午後1時から秩父神社神楽殿で、国神村(現皆野町)金崎連中ほか10組が参加して開催されました。 なお、結果は次のとおりでした。 1位中近連中、2位下郷連中、3位宮地連中、4位本町連中、5位荒川連中 これ以後、「秩父屋台囃子コンクール」、「秩父屋台囃子大会」として、昭和58(1983)年まで毎年開催されていました。 「写真は、昭和26(1951)年12月6日開催の『秩父郡下秩父屋台囃子コンクール』の模様を伝える12月7日付の埼玉新聞です。」 屋台囃子が今日まで伝承されてきたのは、笠鉾・屋台の曳行をはじめとする屋台行事が屋台町の年中行事として途絶えることなく行われてきたからです。 屋台囃子の伝承にとって重要なのは、屋台行事の毎年の積み重ねであり、屋台囃子の世代を越た継承は、屋台町の人々の屋台行事に対する熱意に支えられています。 祭りは世代を繋ぐ絆です。屋台町には、町内の先輩や親の世代から習った屋台囃子を変えることなく、次につなごうと懸命に努める人たちがいます。 その世代も、いずれ高齢になれば屋台囃子から離れ、やがてはこの世から去る日も来るでしょう。だからといって、その町会の屋台囃子が途切れる心配はない。次の世代がしっかりと受け継いでいるからです。 先輩や親の世代から受け継いだ屋台囃子を自らの務めとして、後輩や子供たちに伝える。それこそが世話になった町内の大人や先輩に対する唯一の恩返しです。 屋台町における屋台囃子は、屋台町以外の団体によって維持されているものでも、特定の者に指導されたり統括されているものではありません。 みんなで力を合わせて、町内の先輩や親の世代から受け継いだ屋台囃子が手を加えられることなく町内の後輩や子供たちに伝えられています。 秩父祭の屋台行事として、守り続けられてきた屋台囃子を後世に引き継ぐことは、屋台町の責務でもあります。 なお、屋台囃子は、屋台町から成る「秩父祭屋台保存委員会」を保護団体として、他の屋台行事(笠鉾・屋台の曳行、屋台芝居、曳き踊り)と秩父神社神楽とともに、昭和54(1979)年2月3日、「秩父祭の屋台行事と神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。 【はみ出しメモ】 新型コロナウイルスの感染拡大により、令和2(2020)年の秩父神社例大祭は、笠鉾・屋台の曳行などの屋台行事が中止になりました。 これに伴い、大祭前の秩父屋台囃子練習会である「ならし」もなければ、屋台囃子の習得にとって重要な時間である笠鉾・屋台の中での演奏がない。絶好の伝習の機会がなくなって、屋台囃子の継承は大丈夫なのでしょうか。 心配はご無用です。 屋台町は、徳川幕府の禁止令(寛政の改革(寛政11(1799)年〜文化5(1808)年)、天保の改革(天保13(1842)年〜弘化2(1845)年))や戦争による中断(昭和18(1943)年から同20(1945)年)など、江戸時代から現在まで、度重なる苦難を乗り越えて来ました。 祭りの中止は非常に残念ですが、町内の担い手となるべき若者が秩父から出て行くことに比べれば、祭りが1度位なくても、屋台囃子の継承にとってどうということはない。これまでがそうであったように、祭りはまたやって来るからです。 秩父屋台囃子の伝習は、どのように行われているのでしょうか。 屋台町における主な伝習の場は、「ならし」と呼ばれ、大祭前の11月20日から30日までの、少ない町会で2日間。多い町会では6日間、各町会の公会堂などを会場に練習会が行われます。 「ならし」とは、太鼓を鳴らすと同時に、太鼓の皮を馴らす、叩き手の腕を慣らすものと言われています。 「ならし」では、子ども達は小太鼓を叩きながら大人の演奏を聞き、自分も大太鼓を実際に叩きながら屋台囃子を体得します。 さらに、他の演奏者から自分の気に入ったところを取り入れて、徐々に自分自身の屋台囃子を組み立てていきます。手本や定型はなく、楽譜は勿論のこと、邦楽で用いられる口唱歌(くしょうが)なども使われず、実際の演奏に接して習得していきます。指導者による指導もほとんどありません。 ところで、町内の大人や先輩からどれだけ世話になって屋台囃子を習っても、それらの人たちにお返しはしません。教える側からすれば、お礼は受け取らないというのが屋台囃子の伝承の基本です。 ではどうするのか。自分がしてもらったように、今度は町内の後輩や子どもたちに教えることで恩を返していくのです。 このような継承の方法を「閉鎖的だ」とする見方もあるかもしれませんが、屋台町の伝承者は疑問を持ちません。 なぜなら、その一線を越える時、つまり、伝習に「受講料」などの金品を受け取ったり、屋台囃子を営利の目的にしたりすれば、自分が受け継いだ屋台囃子の伝承を崩壊させてしまうからです。 さらに、これら一線を越えた行為に「伝承」という文言を用いたり、過去の伝承者からの「正統性」を唱えたりすれば、強い反感を買うことになります。それは、屋台町の伝承者であれば当然に身に付く、生理的な嫌悪感や違和感に起因しています。 一方、子供たちは大人や先輩たちに混じって屋台囃子を習うことを通じて、町内の一員として、また、人として必要な礼儀作法やしきたり、決まり事などを身に付けていきます。さらに、祭礼行事に参加することで、自分の町内に対する誇りや、さらに郷土を愛する心が育まれていきます。屋台町が持ち続けてきた「地域の教育力」です。 ところで、屋台囃子の伝習で、伝承者に求められる資質とは、一体何でしょうか。それは、一年を通じて礼儀正しく地道な生活を送る社会性と、そうして迎えるハレの祭りの日を伝承の一員として共に喜ぶことが出来る協調性です。こうした資質を欠く者が自らの技術や正統性を声高に唱えても、屋台町の伝承者から認められることはありません。 屋台町では、このようにして屋台囃子が次の世代へと引き継がれていきます。 【はみ出しメモ】 「ならし」の期間中、伝承者は、祭りの日に笠鉾や屋台の中にいる自分を想像し、至福を感じながら演奏に没頭する。そして、ならしの最終日、選ばれた者に町会の袢纏が手渡される(写真左)。 それは大祭の当日、屋台囃子に携わる者の証。袢纏が貰えずに泣きながら一人夜道を帰ったこと。初めて貰った日の夜、嬉しくて枕元に置いて寝たこと。大人になってもみんな忘れません。 そして迎える大祭の朝。この日は、朝8時頃に笠鉾・屋台が町内の収蔵庫から曳き出されてから、翌日の未明2時過ぎに収蔵庫に帰るまで、笠鉾・屋台が巡行する間、屋台囃子の演奏が続きます。子ども達は、体に直に伝わる笠鉾・屋台の振動や柱の軋む音、彫刻を通して差し込む外の光や揺れ動くろうそくの炎、車輪に注がれる油や熱を帯びた太鼓の皮の匂い、演奏者の連帯感といった独特の雰囲気に包まれ、その一員として一日を過ごします(写真右)。 この日があるから、屋台町の子ども達は、飛躍的に上達するのです。 秩父屋台囃子の伝習には、楽譜を使用しません。 屋台囃子の大太鼓は、演奏者の独奏的な要素が強く、叩き手がその瞬間の空気を感じて、構成する節(「フレーズ」)を即興で組み立てて、自らの屋台囃子を演奏します。如何に豊富なフレーズを瞬時に組み立てるか。それは一瞬の迷いも後戻りも許されない一発勝負であり、叩き手がその日までに培った技の表現そのものとなります。さらに、大太鼓の両面太鼓特有の「ねばり」(余韻の長さ)は、演奏者を導いて、思いがけないフレーズを次々と浮かび上がらせます。 しかし、自分の叩く太鼓が自己の思いと一致することは希で難しいからこそ、悔しさの中でより高い所を目指すから上達があるのです。 では、屋台囃子の楽譜はないかと言えば、実は存在しています。 平成2(1990)年と3(1991)年、高度な音楽の知識を有する民俗芸能研究者グループにより屋台囃子の採譜が実施されました。完成した膨大な楽譜から、屋台囃子の多様な演奏内容が音楽的に分析・解明されたのでした(写真:「秩父地方における民俗芸能実態調査」平成3年12月31日埼玉民俗音楽調査会・代表者:大島 久)。 しかし、この時作成された楽譜そのものの公表は、見送られました。 それは、それ以前の譜面として通用しないものと異なり、奏者ごとの技や個性までを把握するなど、その楽譜が完璧であるだけに一人歩きする。つまり、屋台囃子の伝習において受講料などを受け取るなど、屋台囃子を営利の目的にする者に「教則本」として悪用されるとの判断からでした。 楽譜を使って安易な普及を図ろうとする動きは、今後も後を絶たないでしょう。しかし、特定の奏法を強要することは、屋台囃子の抹殺に他ならず、屋台町の伝承者がこれを拒絶する限り、屋台囃子は継承されていきます。 (なお、60年前の言説を持ち出し、「技術習得の補助」として楽譜の有用性を説くものとして、小野寺節子「埼玉県内のお囃子」(『埼玉の文化財』第58号(平成30年3月30日))。 秩父屋台囃子のうち、屋台町に伝えられている秩父屋台囃子は、下の表のとおり、これまで法改正に伴う指定換えを含めて、国と県から4度にわたって文化財の指定を受けてきました。
このうち、昭和30年11月1日の埼玉県指定無形文化財の指定では、やったり踊、閏戸の式三番などの他の民俗芸能と同様、秩父屋台囃子も保持者のうち1名が「保持者代表」として告示されました。 昭和54年2月3日、秩父屋台囃子は、国の重要無形民俗文化財となり、「秩父祭屋台保存委員会」が「保護団体」となりました。 なお、これらの指定及び指定解除については、それぞれの告示日に発行された、県指定であれば「埼玉県報」で、国の指定であれば「官報」で確認することができます。 【はみ出しメモ】 昭和30年11月1日の秩父屋台囃子に対する埼玉県指定無形文化財の指定について、秩父市教育委員会は、文化財指定の趣旨を理解せず、埼玉県教育委員会とは全く異なる見解を示しました。 埼玉県教育委員会は、「盆地一円に行われるはやしの中で、特に、秩父市大宮のはやし連が有名で、県無形文化財の指定を受けた。これは12月3日の秩父夜祭りに、けんらん豪華な屋台をひくためのはやしである。」と説明しています(「埼玉の文化財」昭和33年12月20日埼玉県教育委員会発行)。 一方、秩父市教育委員会は、「高野右吉氏は昭和30年11月1日無形文化財秩父屋台ばやしの保持者として県から認定せられた。」とし、「技能保持者たる高野氏が加わって演奏される囃子のみが指定無形文化財秩父屋台ばやしということになる。」と、埼玉県教育委員会とは全く違った説明をしています (「秩父屋台ばやし」昭和33年2月1日秩父市教育委員会・秩父市文化財保護委員会発行)。 この時の秩父市教育委員会の見解は、昭和52年3月29日に埼玉県教育委員会が無形文化財を指定解除した事実さえ未だに明らかにされないまま、今日に至るまで一人歩きしています。 屋台囃子の起源について、ここではまず、古いリーフレット(「秩父屋台ばやし」昭和33年2月1日秩父市教育委員会・秩父市文化財保護委員会発行)から2つの説を紹介しましょう。 はじめに、「秩父夜祭の創始発展に伴うもの」とするものがあります。 12月3日の夜に行われる神幸祭の始まりとともに、屋台囃子も初めは素朴な祭囃子として夜祭とともに芽生え、次第に育ったいうものです。 これは、祭囃子の成立を秩父という一つの地域の、一つの神事祭礼の中だけで捉ようとするものであり、秩父以外の地域の芸能との関連や影響、近世都市を相互に結ぶ物質的・精神的な交流などを見ない点で、民俗芸能の「説」としては通用するものではありません。 次に、「この囃子は太閤秀吉が大阪城築城の砌(みぎり)、石曳きのために使ったのが起源だ。」というものがあります。 しかし、一見古くから伝えられていると思われるこの説も、実際はそれほど古くからあるものではありません。 昭和26年12月6日、「秩父郡下秩父屋台囃子コンクール」が秩父神社神楽殿で開催され、団体の部で優勝した中近チームの太鼓長が「屋台囃子も昔はきっと大阪城の石垣のような大きな石を曳く時に使ったのかもしれない。」という趣旨の話を観衆を前に語っています。 これを聞いていた別の人物によって、この話は後に誇張されて様々な機会に語られ、「口伝」の外観を呈したというのが真相です。 さて、屋台囃子の起源を考えるためには、各地で伝承されている様々な民俗芸能からの影響はもとより、近世の巨大都市、江戸における多様な芸能との関連を把握しなければなりません。 例示した二つの説に見られるように、これまでの屋台囃子の起源に関する説は、秩父という限られた範囲の中で物事全てを完結させようとする、この地域の人々独特の発想によるものであり、こうした視点を欠いていました。 そのような前提のもとで、リズムパターンの組み立て方など、その演奏内容や楽器の構成などから、屋台囃子の起源ではないかと思われる囃子が江戸の伝統芸能の中にあります。 この囃子は、18世紀半ばに江戸から秩父に持ち込まれています。これを原型として、やがて祭り囃子として独立して演奏されるようになります。 さらに、明治初期から中期にかけて、物理的条件及び精神的な条件が重なって、今日の秩父屋台囃子が成立していったと考えられます。 【はみ出しメモ】 屋台囃子の成立に関して、近年、「秩父鉄道の建設に伴い、大正の初めころから屋台、笠鉾はだんご坂を登るようになった。これにより、それまでの流暢なお囃子から大太鼓をメインとする勇壮なお囃子へと変わっていった」と語られるようになりました(『秩父夜祭』平成17年12月(株)さきたま出版会)。 大正6(1917)年9月27日の秩父鉄道御花畑駅の開業に伴い、笠鉾・屋台の順路は、団子坂を経由するようになりました。 しかし、大正期に生まれ、幼少時から中近笠鉾で屋台囃子に従事してきた2名の伝承者(大正10年と大正14年生まれ)からの聞き取り調査によれば、「大太鼓の叩き方は、自分達が子供の頃、(明治生まれの)大人達が叩いていたのと変わっていない。 当時の大人はみんな腕っ節が強く、鳴らす者が多かった。」と言います。また、死亡事故が起こった昭和40年まで、団子坂の曳き上げは、踏切を渡ると同時に駆け足であり、坂を上るのに1分とかかりませんでした。 伝承の実体験から考えても、祭りの長い1日から見ればほんの一瞬のために、僅か10年程度の間に屋台囃子の奏法が大幅に変化することはありません。今日の屋台囃子成立の重要な契機は、明治初期に訪れ、それを実証する物的史料が実在しています。 にもかかわらず、活字文化の怖さで、満足な調査や考証を欠いた貧しい想像がこのように活字となったことで「定説」として一人歩きを始めました。 明治13(1880)年に完成した中近笠鉾の土台の中です(写真左)。 登勾欄の裏側に吊られているのは、その前年、明治12(1879)年に新調した大太鼓(秩父郡原谷村大字大野原の中島佐之吉製作)です。大太鼓の両脇と笠鉾本体の隙間は、指1本入る程しかありません。それまでの1尺7寸の大太鼓に替わって、新しい笠鉾の勾欄の裏側に合わせて作られた大太鼓の大きさが2尺だったのです。 また、先代笠鉾と比較すると演奏場所である土台の中は格段に広くなり、一度に大勢の太鼓の奏者が乗ることが可能になりました。 一方、明治26(1893)年11月、下郷が2尺の長胴太鼓を新たに買い入れます(写真右)。購入先は、当時太鼓業界のトップに君臨していた東京の太鼓師、浅草亀岡町の石垣孫市でした。 この時代、地元原谷村の中島佐之吉ではなく、石垣孫市から購入するなど、屋台町としては極めて異例で画期的な出来事でした。この時、下郷の先人が石垣孫市を選び、代金も24円42銭と当時としては破格の長胴太鼓を買い入れた事実には、驚嘆するしかありません(同年、中町が大野原の中島佐之吉から一尺八寸の太鼓を代金13円で新調していますが、これが当時の秩父の標準でした)。 そして3年後の明治29(1896)年、3代目下郷笠鉾が完成。 より広い土台に大勢の太鼓の奏者が乗り込むことが可能になったのでした(写真左)。 この時下郷で導入された石垣孫市の長胴太鼓は、中近が昭和10(1935)年に宮本卯之助商店で新調する2尺の長胴太鼓と共に、秩父屋台囃子をリードする存在となったのでした。 中近と下郷における大型笠鉾の完成と2尺の大太鼓の導入が今日の秩父屋台囃子成立の一つの契機となりました。 そしてもう一つ、このような物理的な条件と併せて、秩父屋台囃子の成立を考える上で欠くことの出来ない要因を挙げなければなりません。それは、祭りを行う人々の内面、つまり、精神的な条件です。 下郷笠鉾保存会の淺見佳久会長が説くように、幕藩体制の崩壊により様々な封建的な束縛から人々が解放された。その精神的発現として、叩き手は力の限り太鼓を叩き、祭りに携わる者もそれを求めた。時代のうねり、まさしく怒濤の大波だったことでしょう。 こうして、その後、長い期間にわたって中近・下郷の両町会がライバルとして切磋琢磨しながら、「豪快」、「勇壮」と言われる今日の秩父屋台囃子が形作られたものと考えられます(写真右は『秩父屋台囃子コンクール』での中近・下郷による模範演技(大太鼓:井上喜一郎【中近】、一番太鼓:高野右吉【下郷】、二番太鼓:中村政二【中近】、三番太鼓:坂本勇【下郷】〔敬称略〕昭和41(1966)年12月5日)。 【はみ出しメモ】 明治26(1893)年11月28日夜、「ならし」の際に大太鼓が破損。下郷一同は集議の上買入を決定し、その夜、総代として4名が出発しました。 向かった先は、東京市浅草亀岡町(現台東区今戸:写真左)の石垣孫市です。開削されて間もない秩父新道を夜通し本庄まで歩き、本庄駅から上野駅、そして浅草に向かったものと思われます。間近に迫った大祭に新しい太鼓を間に合わせようという先人の意気込みが伝わります。【下郷祭禮諸事控】 全国各地の祭りで、様々な祭り囃子がその地方の祭り文化として大切に育まれ、伝承されています。ここでは、秩父から遠く離れた地方に伝わる祭り囃子について、ご紹介します。 滋賀県蒲生郡日野町。毎年5月2日、3日に「日野祭」馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)の春の例大祭が行われ、16台の曳山が曳行されます(写真左)。 この曳山を曳行する際に演奏される祭り囃子は、「日野祭囃子」と呼ばれ、「バカバヤシ」、「ヤタイ」、「オオマ」などの曲名や関西地方のもとは思えない躍動感とノリの良さなどから、関東の祭り囃子との関連を窺わせます。 日野祭囃子の中に秩父屋台囃子と部分的によく似た音律の曲目があることについて、日野町教育委員会の文書に次のような説明があります。 「江戸時代初期から日野の若者達は商人となって関東各地で活躍した。江戸時代中期から後期にかけて日野商人の全盛期を迎え、数において適確な人数はわからないが450人を越す男達が、日野と関東各地の出店地を往復していたことにより、関東における祭囃子やその他の曲を会得し、故郷の祭りを楽しむためにこれらを採り入れたのではないだろうかと推測できるのである。 現に埼玉県秩父市における秩父祭の囃子の音律が、日野祭のそれと部分部分においてよく似ており、秩父市周辺にも数多くの商人達が出向いているところから 、こうしたものを採り入れつつ完成していった曲目であろうと考えられる」。 日野商人の主な商い場は北関東であり、江戸期から戦前にかけて、埼玉・群馬・栃木で400店余りの出店を経営していました。 秩父市の上町の枡屋(現矢尾百貨店)や中町の和泉屋は、元々、日野商人の出店。昭和30年代まで男性の店員は滋賀県出身者で、店内では、関西弁が飛び交っていました。 そして、日野祭で今一つ興味深いのが曳山の方向転換です(写真左上)。ここでは、秩父神社例大祭の笠鉾・屋台の方向転換(写真右)と同様に、ギリ廻し(日野祭では「ギンギリ廻し」)が行われています。 関東の祭り文化が日野商人を通じて、遠く離れた滋賀県の日野地方に伝えられ、今も大切に守られています。 【日野祭の写真及び資料提供:祭礼研究家・宮本卯之助氏】 秩父屋台囃子は、秩父夜祭の屋台町だけでなく、広く秩父地方全域に分布し、それぞれの地区で独自に伝承され、その祭礼で演奏されてきました。 小さな集落にも祭りがあり、季節が巡れば祭りは来る。それが当たり前のことでなくなってきました。 「白久の天狗祭り」は、毎年晩秋の11月半ば、大勢の子ども達による火祭りでした。平成23年を最後に、翌年は担い手の男子が3人になったこと休止に追い込まれました。埼玉県指定無形民俗文化財の指定が昭和63年2月26日ですから、指定から24年後のことでした。 平成27年4月、三峯神社例大祭などで、長年奉納されてきた「三峯神代神楽」が同神社神楽殿で最後の奉納を行い、126年間受け継がれた歴史に幕を閉じました。神楽保存会の会員も徐々に減少し、高齢化の進行や後継者不足を背景に継続困難となり、その前年の5月に解散を決めたのでした。 祭りの継続が困難な状況は、秩父市の市街地周辺部から、中心市街地の行事に迫っています。昭和54年に「秩父祭の屋台行事と神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定を受けた「秩父神社神楽」でさえ、メンバーは現在13名。高齢化が著しく、今後の継承が難しい時期を迎えています。 笠鉾や屋台の巡行する姿は、どの祭りでも勇ましく、さながら、地域の衰退に抗うようであり、例え見物客がいなくても、地区の人々が自分たちの祭りに誇りを持ち、皆で力を合わせて曳行します。山々に轟く秩父屋台囃子は、あくまで力強く、祭りが住む人々の心を支え、心を結ぶ絆となっています。 文化財の指定の有無にかかわらず、秩父の祭り文化は大切な珠玉の営みです。それが例えどんなに小さな祭りであっても、そこに暮らす人々にとっては、年に一度の大切な年中行事であることに変わりありません。 祭りに訪れた先で秩父屋台囃子が聞こえ、笠鉾・屋台が大勢の地区の人々に曳かれて近付いてくる。 こんな感動の情景がいつまでも続いて欲しいと願うとともに、祭りが受け継がれてきたことに、これからも敬意を持って見守っていきたいものです。 【参考文献】 ●中村知夫「祭り囃子の継承とその今日的課題」
|