Bon Voyage!
ASIA AT RANDOM

WONDER ISLAND BALI with Family

バリ滞在いよいよ最後の日。

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4月1日(日)さようなら、また会おう。

嘘つきが正直者になるとき。

朝から姪が戦々恐々としている。どうしたのかと思ったら「いつもとんでもない嘘つくおじちゃんが、エイプリルフールだったら何言うかわかんない」とのたまう。

なので、「わははは。私にとっては毎日がエイプリルフールなのだ。だから4月1日くらいは本当のことしか言わないことにしよう」となだめた。姪は素直に信じたのだが・・。姪よ。そういう約束を口にした人物は、嘘をものすごく得意としていることを忘れていないかね?

しかし、昨日姪と甥にマッサージしてもらった謝礼として10万ルピアを姪に、1万ルピアを甥に手渡す。こういうことはキッチリしているのだ。

早朝の瞑想。

実は、今朝は5時前に目が覚めて、バスタブに湯を張って黎明と共に入浴していたのだった。そのあと、谷間に少しずつ朝が訪れていくさまをテラスで飽かず眺めていた。熱帯の濃密な空気は、昼にはけだるい湿気だが、朝のそれは生き物に恵みをもたらす甘露に思える。夜の漆黒は濃青へと色を変え、少しずつ本来のスカイ・ブルーへと変貌していく。

この時刻には、すでに多くの人が働きはじめている。世界の歯車がまたゆっくりと回り始める。太陽の光と熱をこんなにダイレクトに感じることが、いままであっただろうか?

まだプールで遊びたいらしい。

というわけで、7時前にはみんな起き出していたのであった。8時にホテル内の朝食に出かける。鶏のおかゆ(ブブル・アヤム)と焼きそば(バーミ・ゴレン)。バリ・コピ。こういう朝食も今日が最後になる。

せっかちな人々がもう荷造りを始めた。チェックアウトは12時、まだ3時間半もある。私はティンクリックのレッスンへと出かけた。姪と甥はまたプールに入りたいらしいのだが、水が流れていないというので、私が出がけにフロントに言ってチェックしてもらうことになった。

旅とは、教育とは?

姉はたぶん、近所のプリ・ルキサン美術館に行くのだろう。そういえば、ウブド最初の日、スコールに降られて帰ったときに雨宿りさせてもらったショップで次の日(つまり昨日)買い物したらしい。さらにホテルからメインロードに出てすぐ向かいの店にも行ったそうだ。そうして自分で小さな冒険を積み重ねて「ガイドされる」旅から「自分で見つける」旅へと変わっていくのだ。

というか、私がガイドをさぼっているから仕方なくそうなっているのだろうか。はて? とにかく、教育というのは自立した人間を育てることだ。

ティンクリックの復習。

約束の10時より15分前にLibraryに着いてしまった。先生のさぶちゃんは私が「母や姉が見学するかもしれない」と言ったので、いつものレッスン場所ではなく、ギャラリーが見やすいところをしつらえてくれていた。結局、別々の予定になって母も姉も来なかったのでちょっとすまなかった。さぶちゃんは「お母さんによろしく伝えてくれ」と念を押す。やはりバリ人にとって親は大事らしい、とくに母親は。

今回はすでに習っている4曲の復習のみ。やっぱり記憶違いが2カ所、微妙にリズムが違うところが1カ所あった。まあ、レヴェルはともかく曲としてはもうできているので、それぞれ2〜3回ほど通すといったん終了。「新しい曲をやるか?」とさぶちゃんは言うのだが、そんな余力はないので、メタルのガムラン(いわゆる普通に公演で演奏されるヤツ)を少し手ほどきしてもらう。

これは右手で打って左手で触ってミュートするのだが、右手が第2音を打つと同時に左手が初音をミュートするタイミング合わせが、きれいな響きを生むために重要なのだ。ということは、左手は右手が打った鍵をずーっと追いかけていくことになる。私の場合、リズムの会得よりも右手と左手の関係を時間・空間のなかで動きとして把握することがネックになってしまった。

しかも悔しいことに、さぶちゃんの甥(たぶん10歳くらい)の方がはるかにうまい。これはこれで心してやらねばなるまい。

怪しいIndonesian tea。

<イバ>までの帰り道、<ティノ>(小さなスーパーみたいなもの)に寄ってコーヒーと変わったお茶を買っていく。コーヒーは母と姉のおみやげ用。変わったお茶は私のおみやげ用。アニスとかミックススパイスとか、限りなく怪しい。

と、なんてことはない<イバ>を目前にして母と姉に行き会った。せっかくなのでホテルの看板をバックに記念写真。

さようなら。

いよいよ荷造り。ほとんど終えたところでシャワーを浴びる。姪と甥はとことんプールで遊び尽くして思い残すことはない、という顔をしている。で、最後まで時間がかかったのは私であった。しかもポニーテールの髪をまとめる髪留めが行方不明になり、結局予備を使った(後日、バッグの奥から発見された)。

とにかく12時にフロントに電話して精算と荷物のピックアップを頼む。なにしろ階段が急なので自分で運ぶのは億劫というより危険なのだ。ほどなくスタッフがやって来てミニバーをチェック。おおむね間違いないのだが、なぜか飲んでいない「スコッチ3本」を課金されるところだった。

ロビーへ。もうマデは来ている。フロントではカードで精算したのだが、ミニバー分だけは現金払い。木彫りの花を4輪もらう。たぶん、この花はフランジパーニ。<イバ>では各部屋に花の名前がついていて、私たちの部屋は「フランジパーニ」だったのだ。

みんなは「さようなら」を練習していて、「スラマッ・ティンガル!」と連呼。私だけが「サンパイ・ジュンパ・ラギ!」(See you again!)。甥にも「サンパイ・ジュンパ・ラギ!」と言わせて「この子はまた来たいそうです」と言っておく。本当にまた来れるのか?

バリでの最後の食事。

昼食はアユン川を見下ろすレストランで、というのがマデとの打ち合わせ。定番は<アマンダリ>だが、あまりに高価なのでマデ推薦の<チェハヤ・デワタ>へ。ホテル内を奥へ奥へと入っていくと、谷川の上にはりだした広いテラスがレストランになっている。その窓側コーナーの八角形テーブルという特等席を確保。あとからやって来た団体が私たちの席まで写真を撮りにやってくるくらいの上席である。といって別に食事はそれほど高価ではない。最初すすめられたビュッフェ・バイキングは法外に高かった(ひとり18万ルピア!)が、それを断ってアラカルトでお願いするとフツーのレストラン価格だった。思うに、あのバイキングは団体向けの設定なのではないのだろうか。


運が良ければラフティングでの川下りを見られるらしい。

そういうわけで270度に広がる絶景をバックにお食事。すっかりくつろいだ私は姪に「デザートのメニューをもらって」「勘定してもらって」と指示して楽をする。プールにつかりすぎた甥は「おなかが冷える」と言いつつ、ミルクシェイクを頼んでいる。私が「わかってるんだろうなあ?」とプレッシャーをかけたが「わっかってるっ!」と言うので許す。これで下痢でもしたら許さんからな。

空港までは夢の中。

2時過ぎ、いよいよ空港へ向かう。私はあまりに眠いので助手席で熟睡してはマデに悪い、と姉と席を替わってもらう。ここから空港までは普通で1時間、道が混んでも1時間半で着く。チェックイン時刻前には間違いなく間に合うという目算で道中休ませてもらったのだが、結局は家族全員が熟睡していた。私は見覚えのある風景が出てきて何となく目が覚めた。明るいときにバリに到着すると、来たときの風景がけっこう記憶に残っているものなのだ。

3時10分前に空港着。フライトの2時間35分前、十分に余裕がある。姉をカートを取りに派遣し、姪と甥には荷物を下ろさせる。区切りがついたところで、マデと一緒に記念写真を撮る。ここで、マデとお別れだ。


母(71)、甥(10)、マデ(36)、姪(16)。


私、マデ、姉(42)

さて、実はここからがちょっとした試練なのだった。みんなには黙っていたが、実はシンガポール航空のリコンファームをしていない(というより私は不要だと判断している)ので、最悪の場合は「席がありません」と言われかねないのだ。そういう事情は覆い隠し、素知らぬ顔でチェックインする。

どーということもなくチェックイン完了。心配するまでもなかった。成田までのボーディングパスが発券され、さらにラウンジで飲めるコーヒー・紅茶無料券までもらった。出国の際にひとり5万ルピアを支払い、5人分のパスポートと出国カードを提出して無事に出発ラウンジへ。タダでコーヒーが飲めるラウンジを探し当てて休憩。セルフサービスだったので姉と姪をカウンターに派遣。さらに姉はラウンジ内での買い物にチャレンジして、なんと安い絵を買ってきた。このあいだ私が買った絵よりも細密さで劣るがサイズは大きい。しかも安い。邦貨に換算して2200円強。なお、印刷ではありません、手描き、というかオリジナルです。

搭乗待ちは退屈だ。

わが老母は「X線チェックでブザーが鳴る場合はどういう場合か」に興味津々らしく、わざわざ席を変わって観察していた。しかし、とくに法則性は発見できなかったようだ。当たり前だ。あれは金属探知器なのだから、外から見てわかるようなら無用だろう。

私たちは「幼い子(enfants)を含むファミリー」なので、一般客に先んじて搭乗できる。だからといって、とくに特典はないのだが。

デンパサール・シンガポール間では日本語サービスはほとんどない。機内で見られる映画もそうだし、飲み物や食事を聞かれるときもほとんど英語だ。ということを、私はいままで2往復もしていて全然気がつかなかったのだが、私以外にとってはけっこうカルチャーショックだったようだ。なにしろ、搭乗ラウンジで待っていても日本語でのアナウンスはない。アナウンスはインドネシア語と英語だけだ。そういうわけで、もう乗っていいのか? という判断は実は全面的に私に委ねられていたのだった。

ゲーム命。

窓側の席はシンガポールまでは姪に譲る。母はデンパサールに着く便でさんざん景色を見ている。窓側から順に姪、姉、母、通路をはさんで私と甥が中央の2席。甥は人形やら飴やらもらって喜んでいたが、彼の本命はテレビゲームなのであった。持参したゲームボーイではなく、シンガポール航空自慢のエンタテインメントシステムのなかの任天堂系ゲームだ。こういうものに関してはこの世代の子どもはマニュアルがなかろうが、あっという間に操作方法を見つけだす。しかし、こいつの勘が悪いのか、ゲームが難しいのか、あっという間に主人公が5回も死んでゲームオーバーになっていた。

「終わるの早いねえ」と皮肉るとむっちゃ悔しがっていた。なにしろ、離陸前からすぐゲームできるようにスタンバっていたのだが(離陸・着陸の際はエンタテインメントシステムは操作不能になる)。

ほぼ正味2時間の飛行でシンガポール着。乗り換えにはあと3時間。HISがアホな手配をしなかったら、次の便に乗ってすぐに乗り換えで帰国できたのだ。その便ならバリで夕方まで遊んで夕焼けを見てから飛行機に乗ればよかったのだ。まあ、グチを言っても詮ないことだが。

シンガポール空港で時間つぶし。

鯉の池わきで作戦を検討。わかりやすいところでスポーツ・アリーナに拠点を置き、かわりばんこで荷物番をして時間をつぶすことに。ここは免税店やレストランはもとより、シャワー、サウナ、映画、スポーツ番組、ニュース、インターネットカフェ、生ピアノ演奏に静粛コーナー(要は居眠りスペース)などなど、待ち時間をつぶすために設計されたような場所である(ちなみに昼間の長時間トランジット客向けには「無料市内観光バス」があり、さらに私たちが行きで泊まったトランジットホテルもある)。

私はセリエAのヴィチェンツァ対フィオレンティーナを見てから、ふらりと一周してみた。それにしてもなんでもある空港だ。

飽きて来た頃に、ようやく搭乗ラウンジへ。日本での検疫チェックのための用紙をもらって記入。前回はここで外国人用の日本への入出国カードをもらったのであった。私はどこの国籍に見られたのだろうか?

10歳の甥のおかげで、ここでも最初に搭乗。今度は窓側を母に譲る。どうやら窓にいちばん固執しているのは母なのだ。夜間飛行だがシンガポールの夜景と日本の朝は見られるだろう。

photography and text by Takashi Kaneyama 2001

4月2日(月)無事帰る。

飛行機の中である。

さすがに眠い。離陸してすぐに時計を日本時間に合わせれば、もう翌日になっている。時差は1時間しかないけど。

成田である。

帰りは追い風に恵まれて速い。朝6時28分には成田に着陸。気温は摂氏2度。こういうこともあろうかと、私は厚めのシャツをアウターに羽織っているのだが、アホな姪はずっと熱帯気分で半袖、しかも着替えは全部飛行機に預けた荷物のなか。

検疫でカードを提出し、入国手続きをすませてバゲージ・クレームへ。コンベアが2本回っているので観察を分担し、ひとりはカートを持ってくる担当にする。首尾よくすべての荷物が出て、税関も問題なく通過して無事帰国である。

私は、まとめて持っていた5通のパスポートを各自に分配して、お役御免。姉たちは横浜までJRのエアポート成田で帰る。私はJRのエアポート成田で東京乗り換えの方が、乗り換え回数が少なくてやや安いのだが、駅での乗り換え距離が長いのと、時間がかかり過ぎるので京成のモーニングライナーを選択する。そういうわけで、ここでお別れである。

ホームで朝日新聞を買う。

東京である。

日暮里および新宿で乗り換えて帰宅。

まだ桜は咲いているのだろうか?

(「3たびバリ島 WONDER ISLAND BALI WITH FAMILY」了)

photography and text by Takashi Kaneyama 2001


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