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荘子の部屋】ChuangtseWorld
[荘子内篇第二 斉物論篇]もの皆すべて平等(その1)

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もの皆すべて平等[荘子内篇第二 斉物論篇](その1)

 南郭子□(しき)は低い机(テーブル)に寄りかかって座っていた。空の方を見上げて,溜息をつくその姿は,呆然として己をすっかり忘れたかのようである。

 その近くにひかえていた顔成子游はおどろいたような大声を挙げた,「どうなさったんですか,お体はまるで枯木のようですし,燃え尽きた灰くずのような様子をなさって。いま机に寄りかかっておいでのお姿はさっきまでのお姿とはすっかりちがって見えますが」

 「やあ君か」と子□(しき)は応じた,「君が言うのはもっともなことだよ。今日私は,すっかり自分を無くしたみたいでね‥‥,わかるかね? この気持ち。多分君には人が演奏する楽の音は聞こえるだろうが,大地が奏でる調べは聞こえていまい。いや,その大地の音色が聞こえたとしても,天空が奏でる楽の音は聞こえまいな」

 子游は請うた,「どうか,教えてください」

 
 「天地が吐く息,それが風だ」と子□(しき)は続けた,「時に静かだが,いったん吹き起こると,裂け目という裂け目はいっせいに鳴り響く。君は耳をつんざくあの地響きの音を聞いたことがないかね(聞いたことがあるだろうよ)」

 洞穴や丘のくぼみや森,幹の胴回りが巨大な幹にうがたれた大きな穴,‥‥それらは鼻の穴のようであり,開けた口のようであり,あるいは耳穴,ろうそく差し,脚つき杯,臼,はては水たまり,どぶ池,そういった様々な物に似ているが‥‥ね。風がそれらを強く吹き抜けていくとき,渦巻く急流のような,うなり飛ぶ矢のような,轟き,酔いどれのわめき,ぶるぶる声,むせび泣きわめき,がなりたてる怒号,どさりと落ちる響き,強い口笛,‥‥そうした轟音が,前と言わず後ろと言わず吹き抜けていき,いまさわやかな涼風,それがいきなり金切り声のつむじ風,やがてようやく,嵐の後の沈黙の世界。

 君も木という木,物という物,それらが打ち震え,おののき,身をよじらせて回り狂うのを見たことだろうよ」

 「ええ,確かに」と子游は尋ねた,「地の音楽は窪みや隙間が奏で,管や笛で人は音楽を奏でますが,では天はどんな楽器で曲を奏でようというのでしょうか」

 「こうしたさまざまな裂け目による風の出す音は,けっして一様ではないし」と子□(しき)は答える,「紡ぎ出すさまざまな音は,一つ一つちがった物のありように基づいている。では,だれがそうしたもろもろの物の胸心を揺すぶっていると思うかね。

 
 「大知は悠々としておおらかであり,小知はこせこせとして小さなところ(重箱の隅を)をほじくるものだ。偉大な言葉は情熱を内に秘め,区々たる言葉はとげとげしく論争的(揚げ足取り)だ。

 「寝ているとき,人の心は閉ざされているが,動いているときは目覚めている,そしてみんなは,まわりの日々の現実と戦っている。ある者はのんびりゆったりと日を過ごし,ある者はずるがしこく人と接し,さらにある者は隠密に事を運ぶ。おや,ちょっとしたことでびっくり仰天する者,大異変におろおろと気落ちしてしまう者,さまざまだ。引きしぼった弓から放たれた矢のように先へと急ぐ者,それは急いて善悪を裁定する者のようだ。あるいは一度立てた誓いを守ろうとする者は,手に入れた物を逃がすまいとするかのようだ。さてまた,秋や冬の荒涼とした中にあって,さらに冬枯れは深まって,自分が関わったことに抜き差しならずかかずらわって,破滅へ急ぐばかりである。

 結局は,身も心もすり減り閉ざされ果て,古い配水管のように汚物で塞がり,しぼみゆく心はふたたび明かりを見ることはない(魂の揺れ動き──天の音色──は,森のざわめき──地の音色──に比肩される)。

 「喜びと怒り,悲しみと喜び,心配と後悔,逡巡と恐れ,さまざまな様相で立ち現れてくる,その現れ方は,風に鳴る窪みの響きのように,あるいは湿地に生え出る茸になぞらえよう。それらは昼となく夜となくやってくるのに,我々はなぜそのように立ち現れるのか告げることはできない。ああ,なんということだ! それなのに,いったい俺たちは,いかなる原因でそうしたことが生起するのかを,瞬時も指し示すことはできないのだ。

 「こうしたもろもろの情感が無いとすれば,人は生きておれまい。この己が無いとしたら,何も感ぜなくてすむというのに。生きゆく我々ではあるが,何ものの指図で生きゆくのであろうか。霊なるもの,あるいは真の主宰者,その存在への手掛かりはないのか。その働きはたしかにあるのに,我々はその姿を見ることはできない。おそらくそれ(真の主宰者)は,外界には形がなく,内なる世界での存在物なのであろう。

 「人の体についてみると,百の骨,九つの穴と六つの臓器,それらがちゃんと備わっているとしよう。そのどれを一番愛するというのか。おしなべてどれかを大切にしないなら,どれを大事にしようというのか。どの器官がほかの器官に奉仕しているというのか。それれらが自分を統治できないとすれば,器官ごとに統治したりされたりということになるのか。そんなことはない。確かなことは,ある霊的なものがそれらすべての器官を制御しているということなのだ。

 「この霊的なものの真の姿をつきとめられない以上,問題は霊的なもの自体にあるのではない。そこでこれら現実の物に立ち返ると,それが尽き果てるまで役割を担う。命をさんざんすり減らされるまでに痛めつけられ,己の生き様をうまく制御することがままならないままに駆り立てられる‥‥,こんなことは実に惨めではないか。生きている間は働かされ続き,そしてさらに,生きて実りの喜びも与えられないままに,労働に疲れ果て,行く先も知らずに歩み続ける,‥‥こうして生きる悲しみはいや増していくのだ」

 「人々が,まだ死んではいないよ,と言ったとしても,‥‥何の益することがあろうか。肉体は朽ち果てていき,心もまた滅んでいく。これこそが悲しみの源泉であろうよ。世間はこの事実を見ない(見ないふりをする)ほどに愚かなものであろうか。あるいは私のみが愚かで,他の人はそうではないとでも言うのだろうか」

 もし我々の気持ちが(自分の中に育った)偏見に覆われているとしたら,導師(教師)なしでおられようか。他人の正邪を比較するのに何が必要であろうか。さらに,人が自分の偏見のままに己自身の判断をしてしまうなら,そんなことはどんな愚者だってやっていることだ。

 しかし,自分の心に最初に宿った考えではなく正邪の判断を下すなどという言い方は,「私はきょう越の国に旅立って,そこに昨日着いたよ」と言うようなもの(でありえないこと)だ。あるいは,存在しないものを存在すると言い立てるとでも言おうか。
 ありもしないものをあると思いこんでしまうこと(幻想)は,神のような禹王(うおう)ですら理解不能なことで,私ごときものに手に負えることではない。

 いったいことばというものは,単なる息の吹き出しではない。ことばは何かを言うことを意図している。ただ何かを言ったとしても,言いたいことが決まらないでしゃべっているのは,実際,何かを言っていることになるのか,ならないのか。そんなおしゃべりは若い小鳥(ひな鳥)たちのさえずりと,区別できるのかできないのか(わかったものではないぞ)。

  

 道(タオ)は,真と偽の区別がつかないほどに,いかに隠されている(顕わにされていない)のか。ことばは,善と悪の区別がつかないほどに,いかにあいまいにされているのか。いずこに行き,タオなどありもしないとするのか(道(タオ)は至るところにある)。いずこに行き,ことばには中身がないとでも証明するのか(中身があってこそのことばなのだ)。すなわち,タオは我々の理解が不十分なために隠れてしまうのだし,真実のことばは飾り立てた言い回しの中に消えてしまう。

 ここにおいて,孔子と墨子の流派(儒家と墨家)の肯定と否定のしかたは,他者が是とする(肯定する)ものを否定し,他者が否とする(否定する)ものを肯定する。このような,他者と異なる否定と肯定のしかたが,世の中の言説を混乱させる原因なのだ。

 “これ”でないものはないし,“あれ”でないものもない。私自身によって知覚されるものは,離れている他人によっては見られない。だから,“これ”は“あれ”から発生し,“あれ”は“これ”に由来する。このことが,“これ”と“あれ”との相互依存性の原則(基準の相対性)だ。

 それにもかかわらず,生は死から生じ,また逆も言える。可能は不可能から生じ,またその逆も言える。肯定は否定の上に成り立ち,そのまた逆も言える。

 こうした事柄において,真の聖人は,すべての対立を否定し,その立場を天すなわち自然に置く。したがって,人は“それ”を“これ”に基づかせ,やはり“これ”を“あれ”に,“あれ”をまた“これ”に基づかせる。“これ”にまたその‘正と邪’があり,“あれ”にもまたその‘正と邪’がある。このようだから,“これ”と“あれ”の差異は実際に存在するのかどうか。

 “これ”(主格・主語)と“あれ”(目的格・目的語)の両者は,共に相互関係はなく存立する──このことがまさに「道(タオ)の中軸(核心)」である。そして,その「中軸」があらゆる無限なるものが収れんする中心を通り抜けるとき,肯定も否定も共に無限なる一者(神・創造主)に帰一(融合)する。そこで,およそ(肯定と否定,善と悪の区別は消えて)“光”(真の明知)を用いるのに勝るものはない,と言われるのだ。



■[荘子内篇第二 斉物論篇]もの皆すべて平等(その2)