シベリウス交響曲第5番原点版


♪シベリウス交響曲第5番原点版とは?
 シベリウス大好きの風間っち@2nd主席に語ってもらいました。


シベリウス第5番初稿板による演奏を聴いて

 オスモ・ヴァンスカ指揮ラハティ交響楽団によるシベ5初稿版を聴いて、思ったことを取りとめめもなく書いてみました。

 同盤は現在聴くことの出来る、唯一の初稿版による演奏。なんでも、それまでしぶっていたシベリウスの遺族からようやく1回限りの許しを得て録音が実現したものだそうです。指揮者もオケも今まで聞いたこともありませんでした。未だによくわかりませんがどうもフィンランドのオケらしいです。演奏は許されたもののスコアは作曲者によって破棄されているそうなので(解説による)、譜面を見ることは出来ませんが、聴いただけでもずいぶん違っているのに驚かされました。

 プログラム解説にも書いたとおり、改訂の意図は構成の簡潔化と無駄な響きの削除にあったようです。全体で5分ほど(特に3楽章が5分近く削られている)、短くなり、不協和音も減らされています。また現行版の1楽章が初稿版では1楽章と2楽章に分かれていて全体で伝統的な4楽章形式をとっています。1楽章冒頭はホルンでなくいきなり木管楽器が主題を呈示します。

 バイオリンで奏されるメロディも微妙に違っていたりします。また楽章の終結はたいへん唐突で不自然です。こういう終わり方は第4交響曲で使われていたものに似ています。改訂のときにはさすがに不自然と思ったのか、「2楽章とつなげっちえ!」ということになったようです。ただそのつながり方が全く異和感がないので、さすがです。初稿版4楽章では現行版にないようなどきっとするような不協和音が大胆に使われています。特にあの印象的なホルンのテーマの間に突如、トランペットが全く無関係な音(短9度だそうです)を吹くようなところがあり、初めて聴いたときは家の外の街道を走る暴走族のクラクションかと思ってしまいました。いまだにそこになると笑ってしまいますが、聞き慣れると逆に現行版を聴いたとき物足りなさを覚えることがあり、恐ろしいです。

 また曲の最後は現行版では・ブッ!・・・・ブッ!・・・・・という切れ切れの音ですが、初稿板では背後に弦楽器のトレモロが鳴っているという伝統的なものでした。こちらの方が自然な気もしますが、あの現行版の終わり方も今じゃあ慣れて、結構気に入ってます。

 とまあ、初稿版と現行版とはまさに”似て非なるもの”という感じで、原形はとどめながらも、かなり手が加えられています。当然のことながら現行版の方が音楽として無駄がなく洗練されているのは明らかです。しかし、この初稿版を聴くと、交響曲作曲家としてのシベリウスの進歩というか、たどった過程が何となく垣間見えるような気がします。ドイツ・ロマン派、ロシア音楽の影響が色濃い1,2番そこから離れ、形式の簡潔化の方向をとった第3番、更に従来の形式からはずれかつ内面的で思索に富んだ4番(初演当時は評判は良くなく「未来派的」と評されたらしい)。明るくはなやかな5番現行版。初稿版はその4番と現行5番の間に位置するものです。自分の誕生祝賀コンサートでの演奏用という付加的要素があったため、3番から4番へと彼がそれまで進んできた方向性を少しは変える必要があった(具体的には、祝典らしいはでさとかききやすさとかを加味しなくてはならないということ)のだとは思いますが、やはり3、4を経てきた先に5番があるのだということが、初稿版を聴くと強く感じられます。
楽章の終止の独特さや不協和音の使用の仕方など。
 しかし5番改訂版では3楽章形式にはなっているもののどちらかというと伝統的で音楽として聴きやすいものになっていて、4番との連続性はむしろ薄くなっているように感じます。もう、祝賀コンサートは終わっているのに、なぜなんでしょう?

 彼はここで少し方向を変えたのではないでしょうか。それは次に来る6番が教会調(ニのドリア調だそうです)を使った古典的な聴きやすい音楽になっていることからもうかがえます。この曲では4番などでみられた難解さはほとんど影を潜めていますし、不協和音も聴かれません。

 ただ最後の7番を見ると構成の簡潔化に関しては彼は最後まで、それを追求していたのがわかります。
結局のところ、彼の交響曲作曲は、ロマン派、ロシア音楽の影響(1,2番)から逃れ、自分自身の作風を模索し構成の簡潔化、斬新な響きを求めていった結果(3,4番,5番初稿)、やはりハーモニーを破壊してまでの斬新な響きを無駄と感じたのか、それまで革新だと思っていたものに疑問を感じたのかはわかりませんが、結局は伝統的な音楽に戻っていき(5番改訂、6番)、最終的には構成の簡潔化のみを果たした(7番)という過程をたどってきたわけで、交響曲第5番というのはまさにその方向性の転換期上にあったのではないかと思うわけです。
 また、こうして考えてみると、彼が最終的に目指したところは構成にしろ響きにしろ「無駄をそぎ落とし、簡潔に」ということだったのかもしれません。
 交響曲だけを聴いて判断は出来ないのはもちろんですし、別に裏付けをとったわけでもないので、当てにはなりませんが、初稿版を聴いてま、こんなことを考えてみたわけです。

 シベリウスの交響曲は、2番だけが突出して演奏頻度も知名度も高いようですが、本当の彼の音楽の良さは3番以降にあると思います。ほとんど演奏されもしない4番や6番なども聴いてみると大変味のある名曲です。イギリスの音楽評論家セシル・グレイは4番をして「ベートーベン以降の最も優れた交響曲の1つ」と評しています。是非とも3番以降の交響曲がもっと世界中で知られ、演奏されるようになることを願ってやみません。


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