G.Mahlerに関する50のTips


♪マーラーのTips(知っておくと便利な事)です。マーラーって一体どんな人だったのでしょうか?断片的な情報を並べることで、その人物像を浮かびあがらせてみたいと思います。一体どうなることやら・・・


  1. マーラーはオーストリアの作曲家・指揮者で、ボヘミア生まれ。
  2. 1860年7月7日生まれの蟹座。
  3. お父さんの職業は、酒類製造業。
  4. 小さい頃、オーストリア軍の軍楽隊の行進曲や、民謡やボヘミア舞曲を好んだ。
  5. 音楽のレッスンは五歳の時から。
  6. 15歳のときに、辺境のイーグラウから国際都市ウィーンに上京し、ウィーン音楽院に入学。
  7. 「欠席ばかりしているのに、やらせればなんでもできた」(和声学の先生・談)
  8. 「シューベルトの再来」(クラスメイト・談)
  9. 入学一年目にして、ピアノと作曲の一等賞を取る。
  10. マーラーの最初の出版物は、ブルックナーの交響曲第三番のピアノ用編曲譜。
  11. 36歳年上のブルックナーと、結構良い友達付き合いをしていた。
  12. ワーグナーが大好きだった。ワーグナーに影響されて、菜食主義者になったりも。
  13. 最初の交響曲は28才の時に完成(交響曲第一番「タイタン」)。
  14. 交響曲第1番の初演は不評。
  15. 明るいかと思うと、いきなり暗くなったりして、気分がころころ変わった。
  16. 少年時代からの読書家。
  17. 朝型で早起き。
  18. 35歳の時に、新鋭ソプラノ歌手とスキャンダルを起こす。
  19. マーラーは指揮者として、特にオペラ指揮者として確固たる地位を築いた。
  20. ウィーン歌劇場で、それまで習慣となっていた「さくら」を廃止。
  21. ウィーン・フィルでマーラーが目指したのは、古典の現代的解釈と、同時代の作品の紹介。
  22. 古典の現代的解釈の一つの方法として、シューベルト作曲の「死と乙女」を弦楽合奏に編曲したが、伝統的なウィーンの聴衆から激しく抗議された(ベートーベンの「第9」の編曲版も同様な運命)。
  23. 本人は編曲に対する批判を、一切受け付けなかった。
  24. ウィーン・フィルを辞任したのは、ユダヤ人であることに加えて、過酷なリハーサルと不寛容な態度を取り続け、楽員との関係が悪化し、嫌気が差したため)。
  25. 1902年(42歳)、アルマ・シントラー(21歳の美女)と結婚。
  26. 初めて出会ってから、1カ月半で婚約、4カ月で結婚。
  27. 作曲家を志していたアルマは、結婚後はマーラーの希望により、作曲家への道を断念。交響曲スコアの写譜をするなど、彼の良き理解者であり、批判者となる。
  28. 同年、アルマの協力もあり、【交響曲第五番】完成!
  29. 作曲家マーラーのライバルはR.シュトラウス。互いの音楽の良き理解者同士であった。
  30. ポリフォニー(polyphony:多声音楽)が大好き。
  31. マーラーの音楽的ポリフォニーとは、
    「諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてそれらの主題は、リズムの性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーの唯一の相違点は、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて一つの調和に満ちた全体を作り上げること」
  32. 超・大規模交響曲「交響曲第8番(千人の交響曲)」は、1906年(46歳)に完成。
  33. 当時理解されていなかった、若かりしころのシェーンベルグを援護。「私には彼の音楽はわからない。しかし彼は若い。彼の方が正しいのかもしれない。私は老いぼれで、彼の音楽にはついていけないのだろう」(G.Mahler)
  34. 1907年(47歳)ウィーンの反ユダヤ主義勢力の犠牲者となり、ニューヨークに渡る。
  35. ニューヨークでのマーラーは作曲家としても、指揮者としても、聴衆に好意を持って迎えられた。
  36. 昔からの心臓の障害が気になるので、万歩計を持って散歩に出かけてた。
  37. 50歳の頃、アルマ(まだ30前半)が不倫。
  38. ショックを受けたマーラーはフロイトに相談したり・・・一時的に関係は回復するが・・・
  39. ベートーベン、ブルックナーetc...マーラーは交響曲を9曲作ると、あの世に行ってしまうと思っていた。
  40. 9番目の交響曲は「交響曲第9番」とせずに、「大地の歌」と名づけて難を逃れようとした。
  41. 1910年(50歳)「交響曲第9番」を完成。実際には10番目の交響曲なので、これで難を逃れたと思っていたが・・・
  42. 「交響曲第9番」を最後に、1911年(51)死去。
  43. 最後の言葉は「モーツアルト!」
  44. 「私の墓を訪ねてくる人なら、私が何者であったか知ってるはずだ。そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない。」(G.Mahler)。彼の墓には名前だけが刻まれている。
  45. 「やがて私の時代が来る」(G.Mahler ?年)
  46. マーラーの死後、彼の作品に最初に正面から取り組んだのは、一番弟子のブルーノ・ワルター。「大地の歌」「交響曲第9番」の初演を行い、楽譜を出版。
  47. 日本での初演は1930年代。
  48. 1933年のナチス政権の樹立により、マーラーの音楽は全面的に禁止。オーストリア、オランダでは全く聴くことが出来なくなる。
  49. 第2次世界大戦終了後、1955年「国際マーラー協会」設立。ブルーノ・ワルターは名誉会長に就任。
  50. マーラーの作品がしばしば取り上げられるようになるのは、1960年代後半から、1980年代にかけて。1980年以降、マーラー・ブーム到来。



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