健康体保険と差別概念

1997/9/2 の読売新聞で、 「健康体保険ペガサス / 東邦生命」 という保険の 大きな広告を見つけました。これは、保険加入時に、ある基準 ( 健康であること) をもうけて、それにパスする人だけが加入できる、 というものらしいです。
[Peagsus Ad]
[ 広告より ]
誰でも同じ保険料って、おかしくない?
健康保険ペガサスなら、健康体のあなたの月々の保険料負担が軽くなる。
健康に気をつかっている人も、いない人も、保険料は同じでした。
でも、これからは、違います。日本で、初めての、健康体保険ペガサス登場!
健康体のあなたなら、月々の保険料負担が軽くてすむ。
それは、まったく新しい保険です。
で、その健康体の基準の一部というのが、

  1. 血圧値が、定めた範囲内であること
  2. 体重 ÷ (身長^2) の値が定めた範囲内であること
  3. その他の健康体状態条件に従っていること
  4. 過去3年間に道路交通法違反をしていないこと   
  5. ( …もっとあるらしい… )
だそうです。
これで気になるところは、これは「差別」という概念スレスレではないか、 ということ。

死ぬ確率の低い人だけを何らかの基準で集めて、そのグループ内で 保険料率を設定すれば、保険料が低くなるのは当然です。金儲けしたい 誰かが考えそうなことです。
ただ、その基準は、客観的で皆が納得できるものでなくてはならない筈です。 そうでなくては、基準から外れた人が「不当に不利益を被った」という 被害意識 (つまり差別感) を抱きます。
倫理的な基準の一例として、「本人の努力ではどうにもならないこと で人をおとしめてはいけない」という考え方がありますが、上記は どうでしょうか?

もしも、健康体条件のなかに「黄色人種または白人であること」という ものがあった場合、これはどう受け取られるでしょうか。保険会社が 「人種ごとに死亡率が違うことはデータから明らかだ」と言って資料を 提示すれば、みな納得するのでしょうか?

やはりそのうち 「遺伝子に疾患要素がないこと」 という条件が付くようになるのでしょうか。

人によって感じ方は違うでしょう。特に健康な人とそうでない人で。
善意・倫理感の問題でしょうか。
許される基準の境界はどこにあるのでしょうか。
単に契約者が多ければ保険会社は存続し、少なければ消える、というだけの ことでしょうか。

なにか、もやもやした気分です。


保険って、もともとは多くの人の参加によって、個人のリスクを 薄めるためにあるものなのに ( と思うが )、

参加者を細かく分類して、リスクを持たない人に限定する方向に 向かっているから、なんか変な感じを受けるのだな。 本末転倒というか。
細分化が行きつくところまで行くと、個人判定になっちゃって、

「あなたは1年後に高血圧になる確率96%、 3年後に肝臓ガンになる確率80%です。 来月から毎月4千円づつ振り込んでください。」

という個人アドバイザみたいなものになるのだろうか。


外部リンク → 「健康体保険ペガサス / 東邦生命」


1997/09/04 T.Minewaki
1997/10/04 modified for HTML T.Minewaki
1997/10/08 last modified T.Minewaki

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