橋爪 健郎(鹿児島市)
風車の組立
■ 風車発電普及へ向けて
1)デンマーク風車発電協会の設立
マニアの手作りから始まった風車発電であるが、素人の一般市民が所有できる形態となり本格的な普及が可能になった。デンマーク風車発電協会はユーザーの立場に徹して風車発電の普及に貢献するために結成された。設立されたのは1978年5月4日とされている。日どりが5月4日になった理由はデンマークにとってその日がナチスドイツからの解放記念日であったからである。つまり協会にとって闘い続けこれからも闘うべき相手は巨大で市民にとってしばしばその建前に反して民衆の活動に抑圧的に作用する巨大機構、電力会社や国家であったし、これからもそうであろうことを象徴するからである。
初めは20名の会員からはじまった。 設立の目的は電力会社と政府へ力を合わせて立ち向かうためと、技術的にも未完成で社会の評価もはっきりしてなかった風車発電に関する情報を普及するためであった。 1978年の時点ではデンマーク中で約30名の風車発電の所有者が存在したにすぎなかった。
1974年の第一次石油ショックや1979年の第二次石油ショックのさなか民衆が遠方から運んでくる不安定なエネルギー源より自前のエネルギーを求めて手作りで風車発電製作を始めた者も数多くいたにも関わらず当時国や電力会社は総体としては風車発電に関して極めて消極的であったが、電力会社内部からも風車発電を経済的にも正しく評価しようというものが現れ徐々に状況が変わっていったのである。
2)協会のはたした役割
そうした状況のなかで協会が果たすべき役割はまず第一に風車発電の可能性と限界についての正しい情報の普及。良い点を宣伝する者はいても短所を伝える者は誰もいなかったのである。いい方を変えれば風車発電の普及にとって風車発電協会が重要かつ信頼できる情報を流してくれたことが決定的なことであった。
そして国と電力に対して共同でたたかうということ、その2点が設立以来の協会活動の基本であり、事実それらの活動が風車発電の普及に最も貢献してきた。
3)権力からの自由
歴史的に国家や大企業とたたかうための民衆運動としての生い立ちを持つ協会であるので、国家レベルで進められる原発計画に対して市民としての国家を批判する自由な意見発言行動が可能である。
1979年3月31日スリーマイル島(TMI)原発事故の情報が次々入るなかの協会第一回設立総会で会長のエリック・ダビッドソンの基調報告では「このような事故の起こる前に人々が目を覚まさなかったのは不幸であった」とし、「第一次の石油危機以来石炭石油やウラン貯蔵量は制約があることはあまねく知られているのにそれらに替わりうるエネルギーの役に立つ研究や法制度の改善がなされなかったのは驚くべき事である」と報告した。
当時デンマークでも現在の日本と同じく国のエネルギー政策は石炭や石油をベースにするプランに力を入れ風力や太陽光については言及するにとどまっていた。そしてそれらによる環 境汚染についてはほんのわずかしか言及されていなかった。エリック・ダビッドソンは「このような事故の起こる前に原発の危険性を認識し規制すべきであった」と会員に訴えた。協会は彼の発言により大いに団結心が鼓舞されたという。よくあるように一見多数の賛同者を求め上を見て横を見てあたりさわりのない意見しか述べないというのでは先を見通した発言も行動も困難であろう。一見突出し当座は社会的少数派に甘んじなくてはならないとしても長期的にはより社会的浸透力があるという一例でもあろう。
彼の核に対する見識はその後デンマーク国会や政府のみならず今なお核に固執する日本政府など一部の国を除き世界的な趨勢となったことは明らかである。
4)既成権益とのたたかい
アマチュアである風車発電オーナーにとってたたかうべき相手は既成権益の上にあぐらをかく電力会社や専門家達であった。協会の主な仕事はオーナーが風車発電建設に際して電力会社との系統連携にかかわる費用についてであった。初期には電力会社から法外な費用を求められることもまれではなかった。協会はコンサルタントとともに それらの件を詳しく調査して協会としての適正な価格を提示した。その後無料で認められた例さえ少なからずあったのである。いくつかの電力会社は風車発電に対して追 徴料金を課した。やめるようにとの電力料金委員会の勧告を電力会社は無視しエネルギー大臣が2代にわたって勧告してやっと応じたという。
一般に電気技術士達は風車発電に対して大変好意的であったが一部の電気技術士には 風車発電の運転管理士という肩書きだけでなにもしないで高収入を得ていた者がしばしばいた。協会はオーナーに対してそのような法外な報酬要求には応じないように警告した。一部の電気技術士が法外な支払いを要求したということもあり、協会は1980 年ごろ電力ケーブルやメーター計などの現行価格に関する調査を行った。世間一般の通念にのっとりその仕事量に見合う報酬、現行価格に見合う料金のみを支払うという原則でいくようにさせたのである。さらに運転管理士が風車発電から離れた所に居住していてもかまわないとするように送電線に関する法律を修正するような活動を協会として行ったのであった。
これらの電気事業上の法制度の改変に関しては日本でも家庭用太陽光発電導入の際 、同様な改変があったが恐らくデンマークの例などを参考にしたものと思われる。
風車発電など循環エネルギーの普及にとって法制度が未完性という点では大きな障害であった。だが政治家も概して敵対的で、既成党派を越え左派から中道まで含んだ「グリーン・マジョリティ」に強いられてやっと動くというありさまであった。 公的機関や行政も立法議会でゴーサインが出ればそれに従うという常識が通用しなかったのである。
5)技術の進歩はいかにして達成されるか
ユーザーの立場として風車発電メーカーによりよい品質とサービスと保証を求めて働きかけた。70年代の風車発電の故障率は50%であったが10年後は1%以下となる 。漠然と「技術の進歩が風車発電をより良く安全にした」と言う陰に協会が取り組んだ人知れぬ努力があったのである。50%の故障率という数字の裏には毎度のことであった暴走事故があった。
1970年代には嵐の後どの風車が壊れたかを互いに連絡し合うのは普通のことであった。原因は明確であった。当時のどの風車もスポイラーブレーキがとりつけられていなかったのである。確かに何種類かのブレーキが取り付けられてはいたがどれか一つのブレーキが故障したとき独立に働く別系統のブレーキが働くようには設計されていなかったのであった。メーカーはそれが原因とは考えず別系 統のブレーキシステムの必要性を認めなかった。 協会はスポイラーブレーキなしの 風車を購入しないように会員へ呼びかけることにしたのである。 風車は個人製作と1年以内に姿を消したメーカーを除き全てにスポイラーブレーキを備 えられるに至った。初めの10年間で同様な20件の問題に対処した基準を作ってきたのである。
風車発電に限らず一般に技術の進歩というものはいかにしてもたらされ、なにが阻害するのかという技術的観点でも興味ある歴史である。 それぞれの事実は単純なことみたいであるかもしれないが、こうした決定にいたる過程には協会が問題に対処すべき原則はどのようにあるべきかという長い論議があったのである。協会は特定のメーカーを推薦せず会員へ可能な限り多くの情報を提供してしっかりした土台で判断できるように取りはからう。民主的議論の場が保証されないところでこのような原則にたどり着くことは少ない。初期にのみあり得る普及活動と施工業の一体化から普及の進展に従って両者の適切な緊張を伴った関係へいかに移行できるかが本格的普及への道であろう。
協会の機関誌NATURIG ENERGIに月ごと公表される月間のデンマーク国内の風車発電の発電実績の統計はどのメーカーのどの型の風車が良く発電しどれが良くないかを 明瞭にあらわし、来るべき風車オーナーがベストな風車を選ぶための資料となるのみならず、メーカー側にとっても彼らの仕事に対する良い手本であった。それは風車の実用性についての情報を与えることのほかに、メーカーがサービスと保証責任を誠実に実行する有効な誘因となった。そのようにしないとメーカーにとって悪い宣伝材料として統計結果に反映するし、逆に成績の良い風車はメーカー側の手前ミソの宣伝より客観的で良い宣伝材料となる。
フォルケセンターの公開性に始まり風車発電協会の発電データなどすべて公開するという姿勢があってはじめて民衆との対話が可能になり技術が進歩するということであろう。
70年代末から80年代はじめにかけてRISO国立研究所において様々なメーカーの風車の効率測定が行われるようになった。まだ風車発電の数は少なかったので公的機関による効率測定の結果はは風車発電の選定に決定的な条件となった。RISOはもともとデンマーク政府の原子力開発の中心的機関であったが風車発電の発展を支持する国民 的期待に沿わざるをえなくなったのである。
6)社会の変革をうながす
風車発電の本格的普及にはこの他、税金、控除、補助金、認可、保険等々差し迫った問題 が数多くあり、それら一つ一つに対処する事により道を切り開いていった 。そうした積み重ねがデンマークの全ての体制に徐々に影響を与え循環エネルギーを受け入れやすい社会へ徐々に変革を遂げつつある。
例えば大学の研究テーマとして持続可能なエネルギーを確立するため、都市計画、住居、輸送、食品産業、ライフスタイル等を含めた社会構造はどうあるべきかなどが取り上げられている。
国家レベルでも化石燃料や原子力(デンマークは原発は存在しないがドイツからの輸入電力には含まれる)依存型から循環エネルギー依存型へ軟着陸させるべく政策転換がなされている。1997年12月京都の温暖化防止国際会議(COP3)で明らかになったがEUが日本、米国3極の先進国で環境政策で一番先進的であった理由は小国デンマークのEU内の絶えざるリードぬきにはあり得なかった。
■ あとがき
以上のように小国デンマークですら新しい試みに関して数々の抵抗が存在し克服するのに少なからぬ努力を要したわけである。大国においてはより既成権益も大きいし 、抵抗が大きいわけであろうが、小国でいかにして達成されたかを謙虚に学ぶことにより可能であるといえるのではなかろうか。(了)