「子どもフォーラム」に行ってきました

 98年11月14日は各地でいろんな催しがなされた日でした。協会関係者の取り組みでも、「国際有機コーヒーフォーラム」、「子どもの権利条約フォーラム98」、学校に行かない子どもを支える会・北九州の定例講演会。それに下関での「子どもフォーラム」と盛りだくさんでした。このうち私は国際有機コーヒーフォーラムの実行委員でありながら、肝心のフォーラムに出れず、また子どもの権利条約フォーラムでも分科会で報告をしてくれという依頼にも答えられず、一番先に行く約束をしてしまった下関の「子どもフォーラム」に行ってきましたので、その報告をします。

朝日新聞による「子どもフォーラム」の報道写真

 下関くらいの小さな都市のよさは、こうした活動をする市民グループの横の連帯があり、活動がとにかく顔の見える関係で楽しく人間的なところです。このフォーラムも、小児科医、教員、児童福祉相談所、子どもの本屋さん兼図書館、児童文学者、保育所、幼稚園、フリースクール(オープンスペース)、不登校者の親の会、障害者の共同作業所、デイケア施設、行政関係者などが集まって、「子どもなんでもネットワーク」をつくり、その記念行事として企画されました。こういう大きなネットワークは通例は事務的になりがちですが、下関の場合はもともと各人が知り合い、友人でいっしょに実行委員会形式でいろいろやってきたために、その関係が熟してこうしたネットワークとしてスタートしたという感じです。だから事務的でなく、アットホームで、くつろいだみんなの顔がとてもすてきでした。

 大都市の市民運動は専門的で情報発信量も多く、リーダー的な役割を果たす組織的で有名なものか、小さなグループかの両方にわかれる傾向をもちますが、地方でのこうした異分野の人々がわきあいあいと互いに協力しながら、かつ学びあえる楽しさ一杯の活動ぶりは、これこそがホイスコーレなどと共通する自立したこれからの社会教育(生涯教育)のひとつのあり方ではないかと思います。

 子どもフォーラムは、最初、兵庫高砂の地球学校の児島一裕さんの講演から始まりました。ノーネクタイ、ノーシューズ(冬でも裸足にサンダル)、ノーマネーを自称する児島さんだけに、その通りの格好で、リラックスした話でした。

 彼はアメリカでコック長などしていたのですが、ある日突然自由な学校の構想がひらめいて、それから教育畑(彼にはそういう意識はないようです。基本的に生きるうえで大事なことに気づいたというべきでしょうか)に来た変わり種です。教育に関心がなく全然別のところから来たという点で私と気が合う数少ないフリースクール関係者であり、発想もあい通づるものがあります。一口にいえば彼は非常に柔軟な考えの持ち主で、いわゆるフリースクール関係者以外の人の考えも受け入れる度量があるように思えます

 85年に高砂でフリースクールを開くということが全国紙の新聞に出て、当時はフリースクールとか不登校とかの社会的認知がなかったので、「不良が集まる!」「治安が乱れる!」と住民の反対運動が起き、反対の署名活動、いやがらせの電話など、町中の攻撃を受けたそうです。何よりもいままで支援してくれた両親が、人間をあずかることは失敗が許されない、無限の責任があると反対したことがショックだったそうで、仕方なく中止にしたそうですが、新聞を見て全国各地から若者やスタッフが集まり、結局はフリースクールならぬ教育研究所としてスタートし、集まった子どもたちはスタッフという扱いにしたとか。いわば看板を下げたものの実質的にフリースクールになり、それ以来集まった若者は不良どころか地域に親しみ、今では地域に欠かせないコミュニティの場所として運営され、広く認知されるようになったとのことです。

 その後、スライドを見ながら、地球学校の活動の話しに入りました。ここでは何事もミーティングで決め、スタッフと学生の区別はありません。最初は「人に迷惑をかけない」というきまりだけしかなかったそうですが、実際に運営していくといろいろ困ることも出てきて、その度ごとにミーティングをし、自分たちできまり(たとえば茶わんを使ったら使った人が洗ってもとのところに戻すとか)を決めていったとか。

 活動はスケジュールも決めず、やりたいことがある人が提起して、それでみんながいいとなれば、いっしょに動いていというスタイルです。だから何もしないときもあれば、その後はすごいいろいろな活動が続けてなされることもあり、まるで生き物と一緒ですとの児島さんの弁。年数も決めず、その人がこの場所をでて新しく生きる場所を見つけるときが終わりのときで、みなそうして旅立っていきました。

 自立支援のプログラムもあって、児島さんの人間のネットワークのすごさですが、興味をもった仕事(酒造り、大工、自然農法、ペンション経営、機械工などなど)があれば、そのプロのところに弟子入りして、自分にできるかどうか、ほんとうに思った通りか試すプログラムです。ここで若者は自分の進路を実際に吟味することができるのです。

 とにかくユニークな内容で、聴衆も驚いたり感心したり、また笑いあり、ため息ありの充実した講演でした。児島さんは率直に思ったことを前後の脈絡なく話す人で、講演にありがちな話術のうまさとか、構成のよさとかではなく、純粋に話の内容の面白さでひっぱっていましたね。これもスゴイことです。

 その後は私がデンマークの学校の話を15分。これはもともとこのフォーラムのテーマが「こんな学校があったらな」というものなので、児島さんの型破りの学校(というより生きる場)とデンマークの学校を紹介するという主催者の段取りで、私は場違いな気がしたのですがね。15分ではとても説明できないので、デンマークの身体遊びを一つして、「デンマークをマネするということではなく、言葉・身体・ファンタジーの三つを大切にした教育の重要性は洋の東西を問わない」と力説しておしまい。

 そしてシンポジウムでは「こんな学校があったらな」という待ちの姿勢ではなく自分たちで今ある学校や地域を「こんな学校」にしていけばいいじゃないかなどというしごく当たり前の意見が出たりしました。

 全体にとても熱心でよい雰囲気で楽しかったです。私は夕方から仕事があるので、失礼しましたが、夜は知的障害者のグループホーム兼パン屋さん兼喫茶店で交流会があり、児島さんのアメリカ・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)との交流報告なども予定されていました。実行委員会のメンバーがすてきな人たちであっただけに参加できずとても残念でした。

 児島さんはフリースクール関係者の集まり、教育学者といった小さなサークルではよく話をするそうですが、いわゆる一般相手の大きなあらたまった講演会というのは今回がはじめてだそうです。彼のようなすぐれた実践が知られる場がその筋の人以外には少ないということです。一般の人があまり知らない「型破り」な内容が聞けて(ジーパンにサンダルによれよれのカラフルなシャツといういでたちの人間が仰々しい立派な演台に立つというのは爽快なものがありましたが、観客は少しびっくりした様子でしたね)、いっしょに仕掛けた廣岡さん(日置フォルケホイスコーレ)とともに快哉を叫びたい気分です。(清水 満)