デンマークの身体文化と日本の体育教育2

ー成城学園とデンマーク体操ー

初期のデンマーク体操

初期のデンマーク体操(Ryホイスコーレ)

 清水諭さんのお話の中で、三橋喜久雄氏の名が出てきました。私が勤務していた成城学園に三橋喜久雄氏は大正14年から昭和7年まで教授をしておられ、昭和6年ニルス・ブック氏が来園、大運動場で実演したときは共に行動したということです。また今も学園の隣地には、三橋体育研究所があります。

 成城学園時報21号(昭和6年9月21日号)「ニルス・ブック氏一行26名(男14名女12名)を迎えて。ブック氏の体操の主眼は人類の対角改造にあり、そのなる所、実に軽快なリズム」という記事に続いて、三橋喜久雄氏の「ブック氏に就て」があり、「オレロップ国民高等学校の校長。当年52歳。ブック氏の体操の三つの重要なこととして、

  1. 自分が自分の思うように自由でなくてはならない。まず体を柔らか。
  2. 強くする。何事をもはねのけて進む協力者が必要だ。
  3. 体操は人間のものであらねばならぬ。魂のこもったものでなくてはならぬ。

 を挙げ、スポーツの悪弊に中毒した現代の日本に警告を与えるもの」と紹介されております。なお三橋氏は大正10年から4年間デンマークに留学され、兵式体操や普通体操から脱皮した飛び箱や鉄棒のスウェーデン式デンマーク体操の普及に力を注がれ、前日の三橋体育研究所を昭和2年に開設されました。同じく成城学園教諭の斎藤由理男氏は、昭和2年には訪米最新遊戯の紹介(1)(2)(3)を、昭和3年の「日本体育界の現状と批判」では来るべき日に、ニルス・ブック氏を呼ぼうと書いています。

 昭和5年、斎藤氏はデンマークに留学、「師事している人は、ニルス・ブック氏で、コペンハーゲンから汽車で5時間くらいの島ヒューンという田舎である。ここに来てみると、その体操の優れていること。魂の立派な体操であること。動いている教師、学生の真剣であること。すべて、その中に包含されてしまった私は、只一種の異なった天国にでも踏みいった気持ちで、その日を過ごしています。(昭和5年)9月16日ごろオレロップにて」と報告しています。

 成城学園、玉川学園の小原國芳先生は、昭和6年の外遊の途中、ブック体操を見学するためにフュン島のオレロップ国民体操学校に3月12日より24日まで滞在し、素晴らしい体操に魅了され、日本に招聘しようと決心されたようです。「昭和6年3月12日(木)12時10分コ市発、5時ごろ着。ブック氏は、ワザワザ室を二室が出て私共夫婦を待っておられた。が一行は、文部省の森くんに、沖本教授まで4人つれなので近くのヤドに泊まることにした。夕食に呼ばれ、一族と先生方そろっての大歓迎。8時から体操を見せてもらう。さすがに脅威!9時コーヒー。寝る前に生徒たちは先生の室に集まって、夕べの歌うたって『おやすみ』を行って、その日を終える。玉川塾を思い出す。まったく家庭的」。

 しかし、ニルス・ブック氏の招聘は、順調に進んだわけではなかった。教育週報330号(昭和6年9月12日号)に、次のような記事がありました。「大正15年学校体操教授要目を改正したばかり、可児徳以来大石武一派と三橋喜久雄派に分かれて、かなりの確執があった。小原國芳氏の恩師小西重直(注:京都大学教授労作教育)が文部省に出向いて交渉した結果、文部省体育科が示した条件は、次の3つであった。

  1. 学校教育としてではなく、社会教育としてならよい。
  2. 文部省には、全日本体操連盟があり、それとの連絡の下にならよい
  3. 招聘する経費が確立しているならよい。

 4万2千円のうち、満鉄1万円、小原國芳氏1万円、残りを各地実演、文化の夕べの入場券各種の寄付による」。(注:実際には満州事変が起こり、緊縮方針で満鉄からは3千円だけとなり、後は小原氏が工面したという)。ニルス・ブック氏一行は、シベリア・奉天経由で昭和6年9月9日東京駅に到着し、大きなデンマーク国旗を先頭に歩武整々に進んだ。10日映画撮影、11日ラジオ放送、12日日比谷、13日玉川学園、14日成城学園を皮切りに、秋田、富山、福岡、神戸、大阪、岡山、米子、名古屋、静岡、横浜など全国各地を回り、10月12日の自由学園での実演を最後に、10月15日カナダへ出港した。

 成城学園教諭畑東一郎氏は、教育問題研究全人64号(昭和6年10月)で「ブック体操に接して」を寄せ、次のような感想が述べられております。「関節の可動性を増す事、筋肉の弾力性すなわち力を養う事、身体の高地性を向上せしめる事を(倒立転回運動)、神経系統の訓練などを通して、

  1. 合理的に組織されている、
  2. 運動の力学的研究を十分にしている、
  3. 体操を構成する前に、その根底に人間の身体を有機的な統一体として強く認識している、運動の表れが非常にリズミカルであり、表現運動・リズミカルな運動の連続が同時にこれを行う一団の協調性を非常に高めている。

 特に女子のデモンストレーションにおいて、歌を口ずさみつつ、運動のリズムに合わせて行っていたことは、体操が非常に生活化されている。ブック氏のタクトに合わせて唱うあのコーラスを聞いて、全く人間としての教養の深さに驚かされるのである」と。

 ニルス・ブック『基本体操』、ニルス・ブック『体操アルバム』が斎藤由理男氏の解説つきで、玉川学園から刊行され、美と品性とを即ち人間の身体及び精神の美の統一を目的とするニルス・ブック氏氏の体操の一端を知ることができます。当時多くの人に感動を与えたブック体操であったが、文部省の干渉により、玉川学園・成城学園・自由学園・東京文化学園・東海大学など一部を除いて学校体育への影響を与えなかったことは残念なことでした。