デンマークの身体文化と日本の体育教育

ー第三回関東集会の清水諭さんの報告に寄せてー

 坂本 卓二(東京都三鷹市)

 

ゲァリウ・イドレット・ホイスコーレ

ゲァリウ・イドレット・ホイスコーレ

 2000年12月3日(日)「身体文化活動・身体表現活動をめぐって」というテーマで第3回関東集会が開催された。清水諭さんの「デンマーク民衆学校における身体文化」のお話しと私の調べたこと、感想を述べる。

 清水さんは、初めに、明治以降日本の学校に体操が入ってきたいきさつと、その中でデンマーク体操が果たした役割を話されました。

 「初期は、軍隊を経由した兵式体操ー正しい姿勢、配列法、亜鈴(アレイ)・棍棒・球などを使用し、上からの号令で一斉に動く規則正しい左右対称の体操、明治維新以来の効率化を求めた横並びの全体に合わせて個人が動くというものであった。『胸を反って体を揃えて、右へ習え』と号令をかける方法の学習指導要領ができて、それが学校文化の中に入ってきた。これに対して、昭和の初めに、ニルス・ブック氏のもとで学んだ人々によってデンマーク体操が紹介され、ニルス・ブック氏自身が昭和6年9月に来日したこともあり、多くの人の関心をもって迎えられた。例えば三橋喜久雄氏などによって普及が試みられたが、学校では、玉川学園、自由学園、東海大学などで採用されたにすぎず、主体はラジオ体操や生命保険会社の体操になっていった」。

 次に、日本とデンマークの違いを指摘された。「日本の体操は、縦横の直角のラインで構成された体育館で、全体に合わせて体をコントロールしていくという考えが支配的であり、また競技スポーツの弊害も出てきた。一方デンマークでは、木、船、水、日、土の要素を取り入れたアーチ型の円形体育館で、丸い曲線の表現を歌を歌い舞台音楽に合わせ、体の原理に従って体操をする。その後で皆で対話をしながら政治や文化を自由に考えていく。すなわち身体とリズムや時間、神話と祝祭、ドラマ、歌、言葉といったものを伴う『身体文化』と、そこで現れる社会的アイデンティティー、形にはならないコミカルなダンスを、民衆が民衆のためにつくってきた。これが一人ひとりはっきり自分の意見を持ち、政治用語化していく民主主義の基礎になっている」と言われた。

 このようなムーブメントは、民衆学校フォルケホイスコーレでなされている。フォルケホイスコーレは、農閑期の9月から6月までの8カ月間18歳以上の男女ならだれでも入学できる。2人部屋の生活寮(寄宿制)、教室、研究所、芝生のグランド、円形体操場などからなる。持ち寄った食事、コーヒー、歌、ダンス、ゲーム、民族文化に由来する伝統的なスポーツ例えばレスリングや物投げなどを通して、体育をし、体を温め、火を囲んでみんなで楽しむのである。(この学校では)試験はなく、資格は取れないが、身体を通したコミュニケーション、競争のない和やかな円形体育館(ギャラリー)でのダンス、火を囲んでドラマを上演することもある。それが民衆の集い、協同組合、風車の地域の会、反原発風車の会などに発展していくとのことであった。

 最後はご自身が1994年から1995年にゲァリウ・イドレット(体育)・ホイスコーレに留学されたときや、その後の2週間のサマースクール「アウトドアとカヤック」のコースで、スウェーデンのフィヨルドを旅された体験もスライドを用いて話された。

 スライドでみるゲァリウ・イドレット・ホイスコーレ「ムーブメント・ハウス」の蝸牛(カタツムリ)の殻をイメージするような円形や卵型の建築の創造力に人間味のある温かさを感じた。コースの前半1週間は、人間と自然の間の哲学、アウトドアの心理学、カヌーの技術のオリエンテーションなどに充てる。1時間くらい体を動かし、ゲームをしながらの準備、集会、ソングブック、地域の話など、心の準備から時間をかけてゆったりとカヤックの準備にしっかり充てるプログラムの周到さに驚かされた。

 後半の2週間は、リーダーを中心に、14〜15名でグループ行動する。リーダーはともに行動するだけで、一切指導はしないらしい。朝と昼の食事はパンとペーストのみ、夜は肉と野菜を煮込んだ簡単なもの。テントは解放し空気を取り入れて自然と一体になる。雨が降らないときは野宿。日本では役割分担を決め、各自がきちんと責任を果たすように仕込まれるが、デンマークでは仕事の分担を決めず、自分のやれることを進んでやっていく。のんびりと話し合いで整備されていく。出発の時刻も決められず、だいたいそろってから出発する。就寝時間も決められていない。最後の夜は、酒を飲みながら朝まで話し合う。すべて皆で対話をしながら何かを整えていくことが発達している成熟化された社会のようだ。デンマーク人が自立していく過程がなんとなく理解できたような気がした。

 まとめとして「体操には三つの極がある」という話があった。

  • 第一は、競争のための近代スポーツ。あらかじめ示された理想的な人間像。メディアの中でもてはやされたもの、商業化されたもの。日本では生産第一主義、効率化に結びつく。結果や記録の生産、オリンピックのメダル争い。公的な祭典。
  • 第二は社会的な規律・訓練による国家的な体操。体位向上・健康増進のためのもの。正しい方法で動くことを命じられ、集団的直線的縦横の列によってもたらされる。
  • 第三は人と人、人と自然の間にある身体文化の中にある伝統的な体育。イヌイットのダンスのようなもの。演者と人々との間に笑いによって媒介される身体的経験、歌、ダンス、遊びを認識していくもの。

 第一の「より速く、より高く、より強く」、第二の「より訓練された」という競争や絶対主義でなく、第三のまったく比較できないユニークな、ひとつの共有されたリズムで、自分たちの体を民衆の中でトータルに考えていくこと、すなわち参加者をつなぐ民族的ダンスにおいて、集団的なトランス状態を起こすスポーツという対話を見いだすことが必要だと結ばれた。二元対立的な関係から、第三の総合知を想像してポストモダンの新しい価値を創造しようという教育実践を進めている私には、説得力のあるお話しであった。また、デンマークは、自分が人生に悩んだときに、自分の判断で学校は選べる夢のような国、ゆったりと豊かな生涯がおくれる民主的な国であることを実感した。