グルントヴィの教育思想3
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ヴァートフ教会のグルントヴィ像
ここには保育園もあり、子どもたちは いつもグルントヴィと遊んでいる |
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フォルケーリヘズ(国民(民衆、人民)の平等)
グルントヴィのフォルケホイスコーレの考えは国民(民衆、人民)の概念にもとづいている。グルントヴィにとって国民(民衆、人民)とは、文化的国民、自分たちが共通の言葉、共通の歴史、伝統、慣習の価値によってともにあるという内的な意識をもった国民(民衆、人民)のグループのことである。彼の国民(民衆、人民)の概念を構成するもっとも重要な二つの要素は言葉と歴史である。 グルントヴィは言葉と国民(民衆、人民)の間にアイデンティティーは存在するというヘルダーの画期的な考えに深く影響されていた。ヘルダーもグルントヴィも、言語こそが国民(民衆、人民)と国家を決定すると考えた。言語の境界が国民と国家の境界である。それぞれの国民は考えの仕方を話し、話し方を考える。言語は国民の精神と魂を凝縮したものである。言語は、人が自分自身を意識することを可能にするメディアであり、同時に自分を取り囲んでいる環境を理解する鍵となるものである。したがって言語は、以前の世代の考え方や感情、偏見などによって表されることで人を過去と結びつける。過去は人の意識の奥深くに根づいており、同時に言語によって助けられて、過去と現在を未来へと運ぶ。こうしたやり方で言語は歴史において生きた成長を表現し、その母語と歴史を通して人は過去の文化遺産を受け継ぐのである。 グルントヴィは社会的な現実性は本質的には象徴的なものだと見なしていた。歴史的な伝統、言語的な伝統を共通にもつ者はみな一つの国民、民族を形成する。これと同じだけの政治的な重要性をもつ思想はほとんどなかった。 たいてい人々は定義によって特殊なユニット、排外的な党派をつくる。自己のアイデンティティーを確立することができるためには、他者を必然的に排除しなければならないからである。国民とは基本的に意味の民族的、政治的な次元を表現している。国民とはつねに、エスニックであり、宗教的、ナショナル、言語的、歴史的、地理的そして政治的に規定されてきた。こういう仕方で国民を表現すれば、それはつねに生物的な決定と政治的決定の間のある尺度に位置づけられるものである。 グルントヴィにとっては、フォルケホイスコーレの任務とは、共同体の象徴的、言語的意味を豊かにすることであった。その意味は、まず何よりも人々の記憶、彼らが神話や詩、ことわざなどに残した国民(民衆、人民)の記憶を求めることであった。すなわち、言葉の活性化である。 オレ・ヴィントは彼の博士論文『グルントヴィの歴史哲学』で、グルントヴィは人民と国家の概念の理解を古代的な見解から見いだしたという説をはっきりと展開した。彼はグルントヴィのナショナリズムは聖書のナショナリズムだといっている。グルントヴィはいつも彼の見解の基礎を旧約聖書の創世記の民族の歴史(10:11)においていたからだというのである(16)。 しかし、グルントヴィが人民の概念を古代的なものに見いだしたということは、彼の個人と普遍をつなぐものとしての人民(国民)の考えもまた古いということを意味しない。人民はその解釈の仕方が古いからといって、社会を発展するとき構成的な部分であることをやめはしない。個人とすべての人類の間の関係を確立する能力は依然として社会の、大なり小なりいずれのことがらであれ、あらゆる創造の基礎を形づくるのである。 (16)グルントヴィが最初に創世記にもとづいた見解を出したのは『世界年代記』(1814)であった。 メネスケーリヘズ(個々人、人間同士の平等) 上で述べたように、グルントヴィの教育思想は国民(民衆、人民)と人間の生の区別に基本的にもとづいている。フォルケホイスコーレが国民(民衆、人民)、国家、政治、民主主義にもとづくならば、大学は普遍性に基礎をおく。「ユニバースというその名前と目的に適合する大学、ユニバーシティは普遍的な考えを含み、育成し、応じなければならない。しかるに国家は部分的で時間的に限られたものにしばられている」。大学、「快のための学校」はそれゆえ部分的には「面白さのための学校」であり、時間だけが、いかなる世界のまちがったおかしな考えや想像がのちのちまで続くかどうかを示すであろう。あなたが100年早くあるいは遅く正しい物事をとらえるかどうかは決定的なことではない。なぜなら「快のための学校はたくさんの時間をもち、世界の終わりまで続くからである」(17)。 グルントヴィは、国家の特殊な利害を超えて教育が進む場である大学を、国家が支えるということは想像できるかどうかを自身に問うた。国家はこの「快のための学校」を余分で不必要なもの、あるいはむしろ危険で害悪を与えるものと考えただろうか。われわれはそれを知らないが、しかし、グルントヴィは「世界における人間」の研究に専念する施設を支えることは国家にとっても有益であると信じていた。結局、ドイツや北欧の政府が何年もの間大学の「哲学部(文学部)」を支えたことからすると、伝統は引き続いたのである。哲学部などどこから見ても実用的実利的でないからである。 1830年代と1840年代にグルントヴィが教育的な著作をものしたとき、彼はとくにフォルケホイスコーレに没頭し、国民(民衆、人民)の生活が彼の理解の地平を構成したが、このとき、大学と人間の生は彼のビジョンから完ぺきに消えるということはなかった。彼の著作『北欧フォルケホイスコーレにかんして北欧の人間たちに』では、彼は問いを出している。人々の一般教養と文化は「深遠な学問と科学の精神」といかにして相互に作用するか?と。フォルケホイスコーレは両者を同時に扱うことはできない。結局は新しい大学が設立されねばならない。北欧諸国がそれぞれ自分たちの国民的なフォルケホイスコーレを得るや否や、これはすぐに「大きな科学的学問的な大学」の設立を結果するはずであった。それは「人間の生の解明と発展に益し、あらゆる不可思議な奥深さとすばらしい多様性において、ひとことでいえばユニバーシティにおいてあるもの」(18)であった。人間の神秘を解明するにはフォルケホイスコーレのような国民的な記述のレベルにとどまっていては不可能である。この解明のためには、人々が機知と好奇心をもって、もっとも深い普遍と歴史的な主題に従事するような場所、施設が必要なのである。これがグルントヴィの堅い確信であった。 グルントヴィの最後の学校に関する著作、1847年の『デンマークへの祝福』では、彼は国民(民衆、人民)と人類の関係を取り扱っている。そこで彼が表明しているのは、「デンマーク人は自分らのことだけにかまけているのではない」という強い確信であった。デンマーク人は「すべての国民的なものがその対象と説明を見いだすような共通の人間性を見落とさないように、いわゆる自分らには疎遠なものや親しめないものでも正当に評価している」(19)と彼はいう。 グルントヴィは『北欧のアカデミー連盟について』(1839年)で、彼の大学のアイディアを真剣に発展させている。そこでは彼はイェテボリに大きな北欧諸国共通の大学を一つつくることを提案している。300人もの科学者、学者が集い、彼らはみな30歳以上、ただ「人類の名誉、利益、喜びのため」(20)にのみそこで働く。 イェテボリの大学は「スピリチュアルなワークショップ」であるとされ、そこでは人々は彼らの結びつけられた努力で、すべてのものを包み、共通であるもののため、つまり普遍性のために働くとされた。グルントヴィにとっては普遍性は世界史と同義であるが、しかし宗教的な救済史の意味はない。普遍史が確証するのは次のことでなくてはならない。すなわち、人々が普遍的ー歴史的な地平を維持し、その結果、生は決して各個人、あるいは国民の特徴的な経験を通してその神秘を管理することはできず、「聖霊と塵が相互にいかに浸透し、共通の神的な意識においていかに説明されるかを示しながら、つねにただ神の実験として、数千年の世代を通して」神秘が維持されるということを決して忘れないということである。「これが、目的が地上におけるスピリチュアルな科学的学問的性格であるとき、理解されねばならない仕方である」(21)。 別のいい方をすれば、大学の任務は、個人と国民の限定された実在性を、その特殊な性格を超えて、結合された全体のうちにおくことである。科学と学問的啓蒙は個人、国民(民衆、人民)そして全人類の深い共存に光を当てなければならない。これが、グルントヴィの北欧大学の目的の背景であった。 (17)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:66 グルントヴィの教育プログラム しかしながら、グルントヴィの教育プログラムは、ただ限定され減少された段階でしか実行されなかった。われわれがもてたのは国民、国民(民衆、人民)に基礎を置くフォルケホイスコーレだけで、イェテボリの大きな共同の北欧大学、科学と人文主義にもとづくはずの大学は設立されなかった。グルントヴィがこの共同の北欧大学を彼の教育的業績の頂点とみなしていたことは疑いないのだが。 グルントヴィの教育プログラムが半分しか実現しなかったのには大きな歴史的理由がある。フォルケホイスコーレは19世紀の国民(民衆、人民)的、愛国的風潮によって支えられた。とくに1864年の戦争の敗北以後に現れた強い波が大きかった。この敗北によってデンマークは国から国民国家へと変貌したのであり、それ以来われわれが誇りにしているものである。そして同時にグルントヴィのフォルケホイスコーレをユニークな学校にしたのもこの敗北であり、同じく誇りに思っているのである。 しかし、21世紀の始まりにあたっては世界は非常に異なってしまった。この数十年来のヨーロッパあるいはグローバルな動きは伝統的なグルントヴィ主義者の自己理解にはなはだ大きな緊張を強いている。増大する個人化とグローバリズムから来る共通の問題は、伝統的なグルントヴィの生の考え方の枠内では解決するのがますますむずかしくなっている。 他方で、この同じときに、世界の多くの場所で、ナショナルなアイデンティティーの意義は、一世代前に想像した以上により強くまだ生きていることが明らかに証明された。共同の普遍のビジョンは、人間の明らかに避けられない必要性、すなわちある特殊な地域で歴史的に彩られた社会に帰属するものとしての自分自身の意味をもつことの必要性に直面しているのである。この観点からすればグルントヴィの個人、国民、人類の考え方は決して時代遅れではない。 国際社会の発展を普遍的、歴史的に理解することの必要性はかつてよりも大きくなっている。しかし、グルントヴィの教育理念への教育学的あるいは学校の歴史的アプローチの結果としては、普遍的な次元は充分には検討されてこなかった。それゆえ。グルントヴィの教育プログラム、すなわち個人、人民、普遍の普遍的歴史的三位一体の一般的な観点に関心をもつ充分な理由があるのである。グルントヴィ自身の言葉でいえば、「個人、国民(民衆、人民)、人間性全体の深い共存を示す」(22)ことができる啓蒙を推進することこそが望まれることなのである。(了) (22)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:31 Allchin, A.M. N.F.S. Grundtvig. An introduction to his Life and Work, Aarhus University Press, 1997. |
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