グルントヴィの教育思想
きずなを結び、もつれをほどく
オヴェ・コースゴール
オヴェ・コースゴール
デンマーク教育大学教授、世界教育機構会長)

 グルントヴィの教育思想や理念に関する本や論文のほとんどは、二つのカテゴリーに分けられる。一つは、彼の教育学的な考えについてであり、もう一つはフォルケホイスコーレについてである。二十世紀の後半の数十年間、王立教育研究所教授のK. E. ブッゲとローア・スコウマンは、その二つのそれぞれの権威であった。それゆえ、権威ある書物『新しい光をあてたグルントヴィとグルントヴィ主義』の中では、K. E. ブッゲは「グルントヴィの教育思想」(1)を書き、ローア・スコウマンは「グルントヴィのフォルケホイスコーレ」(2)を書いている。

以下で示したいのは、これらの二つに加える必要のある第三のカテゴリーであり、それを「グルントヴィの啓蒙の思想」と呼びたい。上のような教育学と学校史の研究の帰結として、グルントヴィの啓蒙の考えについての研究があり、それはまだ充分に議論されていないのである。しかし、まずはよく知られた前の二つについて簡単に触れておこう。

(1) K.E.Bugge. "Grundtvigs paedagogiske tanker. " In: Grundtvig og Grundtvigianismen i et nyt lys. Ed. Christian Thodberg and Anders Pontoppidan Thyssen 1983
(2)Roar Skovmand. " Den grundtvigske hojskole." In: Grundtvig og Grundtvigianismen i et nyt lys. Ed. Christian Thodberg and Anders Pontoppidan Thyssen 1983

グルントヴィの教育思想

 K. E. ブッゲによれば、グルントヴィの教育思想のよく知られた原理的な内容は以下のように要約できる。

 1、青年期の重要性ー子ども期への反対として、学校教育の最適期として
 2、口頭教育の重要性、とくに刺激的な「スピリチュアルな」講義から引き出されるインスピレーション
 3、デンマーク的ー北欧的文化伝統の重要性、教育の最良の基礎とみなされるラテン語教育への反対として
 4、これらの諸要素がある意味ではキリスト教的な生への態度と関連づけられことの重要性
 
 しかしながら、K. E. ブッゲは4番目の点については保留を示している。彼は、グルントヴィは直接にキリスト教の信仰を教育の目的の決定的な事項としたというカイ・タニングの著作の主張に批判的なのである。

 K. E. ブッゲ自身は「相互作用」の概念を、グルントヴィの教育に関する思想を理解するための最重要概念と考えている。「相互作用」はグルントヴィの教育思想を普及するにあたっての基礎的な考え方なのである。フォルケホイスコーレは、学生と教師、学生同士、そして過去の時代の人々と現在の人々の生きた相互作用に基づかなければならなかった。教育は、歴史的で同時に詩的でなくてはならず、過去と現在の間に生きた相互作用を創造すべきものとされた。グルントヴィは国民(民衆、人民)を歴史的な実在性とみなし、その生と性格を評価するために、散文だけでなく、詩が必要と考えた。というのも想像力こそが知性に劣らず人を動かすはずだからである。詩をともに歌うことがグルントヴィの経験の頂点であった。歴史的ー詩的なこの方法がとくに、グルントヴィの教育思想に決定的な性格を与えたことは疑いない(3)。

(3)K.E. レグストロップの「グルントヴィ式のホイスコーレは、歴史的-詩的学校であり、それがその学校の本性で、栄えるにせよ滅びるにせよそれとともにある」という考えを参照されたい。K.E. Logstrup" Hojskoles nye fronter" In: Hojskolen til dabat, ed. Johannes Rosendahl.

 グルントヴィ派のフォルケホイスコーレ

 ローア・スコウマンは彼の論文「グルントヴィ派のフォルケホイスコーレ」を1844年のロディン・ホイスコーレの設立から始めている。しかし、ロディンは、創設者のクリスチャン・フロアがグルントヴィに強い影響を受けていたとはいえ、グルントヴィの教育理念の直接の反映ではない。グルントヴィ自身は、ソローのアカデミーにフォルケホイスコーレをある種の「人民大学」としてつくるというより高い希望を持ちつづけていた。この大学に適用されるのは、未来の役人をつくることだけではなく、より広いサークルをつくることであった。それゆえ、1848年に新政府がソローのこの大学構想を廃案にしたのはグルントヴィにとっては大きな失望であった。

 1844年から1864年の間では、グルントヴィの名前がフォルケホイスコーレと不可分に結びついていたというはっきりした証拠はない。1862-63年に存在した14校の「農民のためのフォルケホイスコーレ」の大部分は、実のところは、農家の子弟のための中等学校であった。1864年に対プロシアとオーストリアとの戦争に負けるまでは、フォルケホイスコーレ運動は広まることはなかった。1865年のアスコウ・ホイスコーレの設立はホイスコーレ運動の「黄金の時代」を示している。続く10年間には50ものホイスコーレが設立され、ほとんどがグルントヴィ派のものであった。

 フォルケホイスコーレは、デンマークだけではなく、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドにもある。1900年ごろは、北欧のホイスコーレはそれぞれの国民的な性格をもっていた。「しかし、どんなに違っていても、校長や教員たちはときどき北欧のホイスコーレの会議を開き、そこで彼らの連帯、そしてデンマークとグルントヴィ主義、あるいはグルントヴィそのものからインスピレーションを得ようとしたのである」。

 グルントヴィの教育思想とフォルケホイスコーレの歴史は双方が相まって、同一の事柄の二つの面を形づくった。つまり、フォルケホイスコーレはグルントヴィの教育思想の具体化したものと考えられたのである。

グルントヴィの三つの領域

  グルントヴィは、狭い意味での教育だけにとらわれていたのではないことを自覚するのは大事なことである。彼は独自の教育のシステムを発展させるような教育理論家ではないし、また1856-71年にマリースト・ホイスコーレで一連の講義をもったことがあるとはいえ、教育の実践家でもない。グルントヴィの教育思想は、いうなれば、彼の国民国家的、政治的事柄にかんする仕事の副産物といってもいいのである。

  彼の教育思想は、彼が生涯を通じて関与していた諸問題の複合体であり、その光に照らして初めて理解されることなのである。

1、人間であるということは何を意味するのか?
2、社会において人間であることは何を意味するのか?
3、世界において人間であることは何を意味するのか?

グルントヴィの啓蒙の思想は、彼の一般的歴史的な三位一体「個人」「民衆」「人類」についての思想にもとづいている。別の言葉でいえば「個人」「国民(民衆、人民)」「世界(宇宙)」の関係がグルントヴィの教育思想の基本を形成するのである。

  「民衆的(国民的、folkelig)」という言葉はしばしばグルントヴィのテキストに出てくる。われわれがグルントヴィを理解しなければならないならば、「国民(民衆、Folk)」と「国民的(民衆的、Folkelig)」の訳語によって生じる問題にとりかからなければならない。Folkは国家と国民の両方を意味する。あるいは、国民として理解された国家といった方がいいだろう。真の国民国家は、言葉の主観的な意味でもまた客観的な意味でも、真の国民、Folkからなる。

 グルントヴィによれば、国民・民衆はそれ自身によって存在するのではなく、それが自己を反省できるようになって初めて自己の存在を得る。それゆえ存在と自己反省は同じ事柄の二つの面である。彼らは共通の空間、共通のアイデンティティー、共存の経験を創造する。