グルントヴィの教育思想2
グルントヴィ
グルントヴィの二つの学校制度

グルントヴィの極端に大胆なプランとして、二つのものにもとづいた学校のシステムをつくることがあった。つまり、民衆と人類である。前者はフォルケホイスコーレで担われ、後者は大学がその基礎となる。両者の間には差異と結合があり、それがグルントヴィにとっては、国民と普遍(ユニヴァーサル)の緊密な関係の理由だった。

フォルケホイスコーレと大学という二つの機関、この二つは決して形式的な教育のレベルの違いだけが意味されているのではなく、また理解の異なる地平にもとづいている。すなわち、認識と生が一方はより国民的(民衆的、folkelig)で、他方はより普遍的なのである。

グルントヴィは彼の著書において、設立するのを夢見ていたこの二つのタイプの学校をいろいろな名前で呼んだ。たとえば、デンマーク・フォルケホイスコーレと科学と文学のためのホイスコーレ、ソローのフォルケホイスコーレとイェテボリの大学、「生のための学校」と「快のための学校」というように。

二つの学校の要点のアウトラインは以下の通りである。

ソロー
フォルケホイスコーレ
国民性
民衆の啓蒙
国民
生のための学校

イェテボリ
大学
人類性
科学と学問的啓蒙
普遍性
快のための学校

ここで私はfolkelighed(国民性、民衆性)をfolke-lighedとなぜ表現したのかについて注意をしなければならない。ここにはデンマーク語の翻訳不可能な言葉の遊びがある。つまりデンマーク語で平等は lighed であり、そうするとfolke-lighedは人々の間での平等、menneske-lighed は個人、あるいは人類の間での平等ということになる。

フォルケホイスコーレと大学のそれぞれの宣言としては1832年からの『北欧神話』と1839年からの『北欧のアカデミー協会について』を挙げるのが通例である。しかし、グルントヴィの啓蒙のプログラムの重要な部分はすでに「デネヴィルケ(Dannevirke)」時代の1816-19年に展開されていた。そしてこれらの発行物の背景を抜きにすると、彼の後年の科学と学問的啓蒙についての考えはほとんど理解できないようになる。

特徴的なのは、グルントヴィのパンフレットの一つ、『世界における人間について』(4)と呼ばれるものである。タイトルが示すように、ここでグルントヴィはとくに「世界における人間」、すなわち、個人と普遍の関係に没頭した。これやその他の「デネヴィルケ」からのパンフレットの中で、グルントヴィは、のちに大学についての彼の考えを形成する科学、人類、啓蒙に関する彼の見解を発展させた。それゆえ、「デネヴィルケ」時代の彼の展望は、彼の生の普遍的な哲学においては、のちのグルントヴィの著作よりもはるかに専門的なものになっている。1832年からはとくに「社会における人間」の考察に専念した。すなわち個人と人々との関係である。

(4) Danne-Virke II 1817:118-206 Optryk i : Ove Korsgaard(ed). En orm - en Gud, 1997

グルントヴィの教育思想は、しばしば二つの領域、個人と国民だけを扱うことに制限されてきたが、そのような把握は彼の啓蒙のプログラムの理解を見誤らせることになる。なぜなら、1832年以降、この三つの領域が彼の啓蒙のプログラムには残り続けたからである。とはいえ、ユニヴァーサルな観点はときどき失われたりはしたが。

グルントヴィの教育と学校についての完全な考えはとくに1834年の「国家の啓蒙」という草稿に表明された。これは1983年に、K. E. ブッゲとヴィルヘルム・ニールセンが編集して公刊するまでは公表されていなかった。これは学校の完ぺきなプログラムであり、そこでの二つの中心的な制度が、フォルケホイスコーレと大学であった。ヴィルヘルム・ニールセンが述べているように、この草稿は、後の教育と学校に関する著作にかんしていえば、「フォルケホイスコーレについての著作物の中で出てきているたくさんのトピックが、ここにある以上に鮮明にはっきりといわれたことはなかった」(5)ということである。

(5) Grundtvig Stasmoessig Oplysning 1983:79

この草稿の中で、重大な問題が、個人、国家(民衆)、人類の関係である。グルントヴィは「個人の時代」という表現を、新しい時代の叙述との関連で使用している。彼は1843年以降の世界史において、新しい時代の始まりをコロンブスとルネサンスに結びつけた。古代と中世と比べると、個人は歴史の舞台にきわめて違った仕方で新しく登場し、かつてよりも大きな位置づけをもっている。グルントヴィは個人化の過程を重要なものと見なしたが、同時に世界史の発展においては危険な局面を表すとも見た。1789年のフランス革命はその危険性をよく示している。革命の間、個人の自由への衝動と国家の共通善の運営の関係が破壊的な結果によって壊されてしまったからである。

個人の時代の自己信頼の登場の結果、社会の創造の条件は変わってしまった。グルントヴィによれば、絶対的な個人主義の考えは社会性の考えと両立はできない。社会の一員であることは、共同の生活の責任の一端を負うことを意味するからである。いかなる社会でも個人と国家との間にある絆に依存している。社会を形成することはつねに共通善についての一定の協定を結ぶことである。「なぜなら、そのような基本的な調和が見て取れないところでは、市民社会ができたためしはないからである。そこにあるのは二つの階級、支配者と奴隷のコントラストでしかない。これらはみな国家とよばれるかもしれないが、それは決して真実ではない。そのような社会では基本的な法が最上の権力であることが否定されているのだから」(6)。

(6) Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:59

もし共通善の確かな協定がなければ、個人と国家の関係は解決困難な結び目、いわゆるゴルディアスの結び目(訳注:古代フリジア(Phrygia)のGordius王によって結ばれた結び目を解く者はアジアを支配するという予言がなされたが、これをなしえた者はいなかった。ところが、アレキサンダー大王は剣で両断するという方法でこの難問を解決した)になるしかないだろう。だからグルントヴィにとって、そのような結び目を避けることができるかどうかは主要な課題であったのである(7)。そしてもし現実に結び目ができてしまったとしたら、剣あるいは武力以外の手段でそれをたち切ることができるだろうか?

ここで学校が新しい重要な手段として登場する。グルントヴィによれば、学校の歴史的な使命は、剣以外の手段でこのゴルディアスの結び目を切ることだったのである。

「これが人類の発展におけるゴルディアスの結び目だ。今まではそれはいつもアレキサンダーの剣で切られてきた。しかし、われわれが国家を救いたいのなら、寛大で忍耐強くなければならない。人の真の啓蒙は生の終わりの日まで続く」(8)。

これらの個人と国家との間の問題を解決するためには、国家的啓蒙が剣にとってかわらねばならなかった。のちにグルントヴィは「国家的啓蒙」よりも「民衆の啓蒙」「人民(国民)」という言葉を好むようになる。だが、そこには大きな意味の違いはない。国家と民衆は普遍的な歴史的三位一体の中で同じ領域にあるものである。グルントヴィが国家的啓蒙あるいは民衆の啓蒙のいずれについて語るにせよ、この啓蒙は「結び目をほどく」という卓越した目的に奉仕し、個人と国家・人民をつなぐ結び目を失うことなく、問題を解決することを意味したのである。

(7)グルントヴィは、結び目をしばしば個人的関係および相互関係の比喩として使った。個人が問題になっているときは彼は切ることを勧め、相互関係が問題になっているときは、忍耐と寛容を勧めた。cf."Om Kirke, stat og Skole" I: Danne-Virke IV 1819:319
(8) Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:31

啓蒙とは何か?

 1784年にカントは有名な問いを出した。「啓蒙とは何か?」である。グルントヴィも同じ問いを「国家の啓蒙」の中で提示した。彼はそこで、啓蒙とは唯一の種類しかないのか、それとも多様な啓蒙があるのかを問うている。啓蒙は単数か、それとも複数か?多様な啓蒙があるならば、真の啓蒙について語るのは可能なのか?

 グルントヴィは、啓蒙を定義することが困難なことを否定しなかった。「啓蒙について論議するのはなかなかむずかしいことだ」。君が啓蒙の言葉について考え出すとかんたんに「啓蒙には人の頭の数だけいろいろある」(9)という結論になるだろう。別の言い方をすれば、人の数だけ啓蒙の種類があることになる。実際、すべての個人は自分自身の考えをもつのである。

 しかし、このことはまったく意味をなさないのか?ある意味ではそうであるとグルントヴィはいう。「というのも、私が際限のない数の啓蒙に失望するや否や、突然思いつくのは、私自身もまた目をもった頭の一つをもつことだ。それゆえ、私が民衆の啓蒙について語るとき、私自身が何をいうかよく知っていることになる。私は彼ら自身の啓蒙について何よりもまず第一に私が考えるということを知っているわけだ」(10)。民衆の啓蒙とは最初から終わりまで自分自身の啓蒙のことなのである(11)。現代の言葉でいえば、啓蒙は自己啓蒙、個人化で始まるといえるだろう。

 グルントヴィにとっては、啓蒙と個人化は深い関係があった。啓蒙の真の花は個人化なのである。しかしこれは啓蒙を両刃の剣とすることでもある。「なぜなら、啓蒙がいつも個人化の勃興という結果になるときに、個人と友愛・共同の間の必要な絆をいかにして確かなものにできるのだろうか、という問いが残るからである。それゆえ啓蒙とははなはだ多義的な言葉である」(12)と彼は語っている。啓蒙はヤヌスの頭であり、国家は「啓蒙によって破壊される」(13)こともありうる。

 グルントヴィによれば、このことは、実は二つの啓蒙、真の啓蒙とまちがった啓蒙の二つがあるという事実によっている。まちがった啓蒙とは、「個人の利害に応じてたえず動く」(14)啓蒙である。啓蒙のこの形式は市民社会にとって、いつでもどこでも危険である。なぜならあらゆる社会は個人よりもより高い正義への確たる畏敬にもとづいているからである。啓蒙が人々の間の共同の絆、友愛の感覚を掘り崩すならば、社会の基礎が脅かされることになる。

 反対に、真の啓蒙は、われわれが個人として共同・友愛の美徳によってのみ存在するという条件に基礎づけられている。それは「あらゆる人間の生に広がり、個人と国民(民衆、人民)、そして人類の生活の間での深い結合を示すような啓蒙、社会のあらゆる条件に対し望まれるような考え方を発展させる啓蒙」(15)なのである。

 それゆえ、グルントヴィの教育思想は啓蒙の形式の考えを含み、それは個人、国民(民衆、人民)、人類の普遍的歴史的三位一体を描くことを可能にしている。

(9)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983: 67f.
(10)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983: 68
(11)グルントヴィの「自身の啓蒙」への信頼は、すべての者は、言葉を通して生の啓蒙に至るという彼の言葉の思想にもとづいている。あらゆる者は「小さな」言葉のうちに「大きな」言葉のロゴスの部分をわかちもつ。グルントヴィのもっとも重要な言葉の神学のテキストは「聖ヨハネへの序曲」であり、彼の啓蒙概念のすべては明晰にこの賛美歌につけられた序文中で語られている。
(12)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:26
(13)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:31
(14)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:28
(15)Grundtvig Statsmaessig Oplysning 1983:31