「ジャカランダコーヒー物語」はいかが?

矢野 宏和(ウィンドファーム、福岡県水巻町)

Calros and Nakamura

カルロス・フェルナンデス・フランコと中村隆市

 「ジャカランダコーヒー物語」というブックレットを作りました。なんだ、コーヒーの宣伝じゃないかと言われるかもしれません。実を言うと、作成に取り組み始めた当初は、ジャカランダコーヒーを販売するための詳しい資料を作るつもりでした。取材を進めていくなかで、物語として構成できるだけの事実を得て、つい勢いで一冊のブックレットにしてしまいました。

 ジャカランダ農場主カルロスが有機無農薬コーヒーの栽培に辿り着くまでの過程。そのコーヒーが日本の食卓に上がるまでの軌跡。ジャカランダ農場で有機無農薬コーヒーの生産に携わるスタッフたちの生活。「ジャカランダコーヒー物語」はこの3つのテーマから成り立っています。

 実際にジャカランダコーヒーをお飲み頂きながら、このブックレットをお読み頂くとよりいっそう味わいも楽しめ、物語の面白みも増すかと思います。

 やはり最後はコーヒーの宣伝になってしまうのですが、私としては単にそれだけのものではないと思っています。じゃあ何なんだと言われても、うまくお答えできませんので、どうか是非この「ジャカランダコーヒー物語」をご拝読して頂きたく思います。

『ジャカランダコーヒー物語』からの抜粋(詳細はぜひ冊子を購入してお読み下さい)

 

コーヒーの有機栽培へ(p31-32から) 

 「人を大切にしたい」という想いから、ジャカランダ農場での農薬の使用を停止させ、さらに福祉活動にまで深く関わってきたカルロスは、また新たな取り組みを決意する。農薬だけでなく、化学肥料も使わない有機栽培への挑戦が1993年から始まった。

 その決意を固めた背景には、近代農業に対する疑問があった。その疑問、とうより憤りについてカルロスは以下のように語る。「近代農業は多額の投資を強要します。しかし、農業生産者には他の産業のような見返りはありません。農薬、化学肥料、農業機械を販売する商売人と、大量にコーヒー豆を生産する巨大な農場と、それを買い占める商社だけがますます儲けていくシステムのなかで、小さな生産者や生産基盤を持たない農村労働者はますます貧しくなっていきます。近代農業がもたらしたこうした状況に対して私は強い憤りを抱いています。」

 「小さな生産者」に属し、農業者として生きる道を模索するなかで、幼い頃から慣れ親しんだ有機農業と再会したカルロスはさらに言葉を加える。

 「人類の抱えている全ての問題の解決策などあるものではありません。私は、私のできる仕事の範囲のなかで、出来ることから取り組みたいと思っています。そのような理由から私は有機農業に入っていきました。有機農業は自然を痛めません。多くの手間を必要とするため、たくさんの人の仕事を造りだしてくれます。病気の力を弱め、飢餓を追放する食糧の生産が可能です。豊かさを生み、あらゆる階層の人々にそれを分配できます。」

 近代農業において、有機農業の生産者として生きること。カルロスはそれを「戦い」と、表現する。そして、「自然環境の保全にも優れ、また資金運営の面から見ても、農薬、化学肥料、農業機械に資金を費やす必要のない有機栽培により、きっとこの戦いに勝つことを確信しています」と断言するのであった。

 (中略)

無農薬野菜の産直活動 (p42-52)

 卒業後、中村は農村や漁村の子どもたちに映画を見せる活動や、廃品回収業を経て、1980年、24歳のとき、福岡県内の生活協同組合に就職した。危険な農薬を多用する農業についても問題意識を持っていた中村は、無農薬野菜の産直活動に取り組んだ。この中で彼は「生産者と消費者がしっかりしたコミュニケーションを取ることと、ものごとを長い目でみることの大切さを実感しました」と語る。

 当時、農薬を使わずに栽培された野菜は、農業の近代化から取り残された山間僻地の畑でお年寄りが作るぐらいだった。その数少ない野菜を県内の消費者グループが取り合う状態が続いていた。「少量の無農薬野菜を奪い合っていても仕方がない」と考えた中村は、有機栽培で野菜を生産する意志のある農家を探した。自分自身も妻子とともに農村に移りすみ、野菜、米作りを学びながら、一緒に取り組んでいける生産者を増やしていった。

 しかし、無農薬野菜の品質が一定の水準に達するまでには時間がかかる。「こんなレースのカーテンのような虫食い葉っぱまで出荷するなんて」そんなクレームの処理に中村は追われた。また、野菜の収穫量が多いときは、売れ残りが多くなるなど、生産者にとっては厳しい状態が続いた。こうした問題をすべて生産者に押しつけている限り、無農薬野菜の産直は成り立たなかった。

 産直に取り組み始めて三年ほど経った頃から、状況が変わり始める。農薬の危険性を知った消費者の「安全な野菜を広めたい」という気持ちが高まってくるにつれ、生産者と消費者が互いに協力していく姿勢が見えるようになる。

 「無農薬で野菜を作るために、どれだけの労力がかかっているか」それを知るために、消費者が農家を訪れ、実際に畑で草を取り、堆肥の散布作業をするなど、様々な農作業を体験した。その際に農家から野菜の保存方法や伝統的な野菜料理についても学ぶ機会を持った。逆に、農家の方も消費者の学習会に参加し、農薬だけでなく、食品添加物や合成洗剤の問題について勉強した。

 生産者、消費者がともに有機農業の重要性を共有するようになると、価格についてもお互いに負担にならない「ほどほどの価格」を考える人が増えていった。
 この七年間の産直活動から得た経験は、その後の中村にとって大きな財産となった。

 

チェルノブイリの原発事故

 1987年、3月、中村は生協を退職した。その決意を固めた要因の一つには、その一年前の4月26日に起こったチェルノブイリの原発事故が関わっている。チェルノブイリ原発の爆発により放出された放射能は、日本の農作物を汚染した。このとき中村は、長年、無農薬で培ってきた畑を一瞬にして汚染する放射能の恐さをはじめて知る。

 さらにショックだったのが、母乳からも放射能が検出されたことだった。この事実は、最も影響を受けやすい赤ん坊が放射能の危険にさらされていることを意味していた。

 その後、原発問題に対する活動を開始した中村は、さらに様々な環境問題にも取り組み始め、次第に生協の仕事の枠をはみ出す部分が大きくなっていった。

 

独立後、病に倒れて

 生協を退職した中村は、1987年、9月に有機農産物産直センターを設立。独自の産直活動を目指し、無農薬野菜だけでなく、無添加食品や石けんなどの販売をはじめた。

 が、その二か月後、中村は病に倒れる。有機農産物産直センターの経営は軌道に乗らず、精神的な不安と過労は重なり、70キロだった体重は50キロまで激減した。

 それでも中村は無理して働き続け、体調はさらに悪化した。近所に住んでいた顔馴染みのおばあさんに手を引っ張られ病院に連れていかれたときには、「ここ二、三日がヤマ」という危険な状態だったという。生死をさまよいながらも、福岡県有機農業協会の会長でもある安藤孫衞医師の無農薬野菜と玄米をベースとした食事療法などにより、少しずつ回復していく。

 

病床で浮かんだある構想

 入院中、ありあまる時間のなかで中村が思ったことは、「自分にできることは限られている。焦って、自分の力以上のことに手を出すのはやめて、できることを一つずつぼちぼちやっていこう」ということだった。そしてこのとき、彼の頭のなかには、ある構想が浮かんでいた。「南北問題の一つである先進国と途上国との不公平な貿易関係を無農薬コーヒーの産直によって、少しでも変えられないだろうか。野菜の産直活動で取り組んでいた方法をベースにして行えば、時間はかかってもきっと成功するだろう」四か月の入院生活の後、中村は退院した。

 復帰後、1988年から中村は無農薬コーヒーの販売に専念する。まず無農薬栽培のコーヒー生豆を、南北間の公平な貿易に関心を持つ人たちと共同出資で仕入れた。

 また新鮮なコーヒーを消費者に届けるため、中村は自家焙煎によるコーヒーの販売を試みる。焙煎に関しては素人だったが、多くの人の感想を取り入れながら味見を繰り返し、研究を重ねた。この自家焙煎の「無農薬コーヒー」の売上げは順調に伸びていく。

 しかし、この共同仕入のやり方のなかでは、金額の面での公平な取引きは重視されたが、生産者とのコミュニケーションを深めることには、あまり関心が示されなかった。中村の目指す「互いの信頼関係をベースにした産直活動」には程遠いものだった。

 「野菜の産直のときと同じように、まず一緒に取り組んでいける生産者を探さなければならない」と考えた中村は、生産現場へ行くことを決意する。 

 

ブラジル、遠く広く

 1989年、9月、中村はブラジル、サンパウロのグアリューロス空港に一人で降り立った。出迎えに来てくれる予定の日系ブラジル人が、この国における唯一の知り合いだった。知り合いといっても、ブラジルから来日していた彼をある農業雑誌で知り、電話で連絡して五、六分ほど面会しただけに過ぎず、「いつでも訪ねてきてください」というそのときの言葉だけが頼りだった。

 ブラジルの二週間の滞在において、中村は十数ケ所のコーヒー農場を訪ねた。「農薬や化学肥料を使わずに栽培されたコーヒーを日本で販売したいと思っている」と通訳を通して伝える度に、「そんなことできるわけないだろう」という反応が返ってきた。中村はポルトガル語などそれまで聞いたこともなかったが、彼らが話すときのゼスチャーだけでそのことが分かってしまった。

 「農薬を使わずに生産などできない」こうした応えは、日本で無農薬野菜の生産者を探しているときにもよくあったため、それほど気にはならなかった。それよりも、飛行機で二四時間かかるブラジルまでの距離の遠さにうんざりしながら、中村はブラジルを後にする。結局、このときは、無農薬でコーヒーを作っている生産者には一人も会えず、中村は産直活動の構想を語ることすらできなかった。

 二回目、中村がブラジルに行ったのは、1990年12月。今度はブラジリアでコーヒー栽培に取り組む日系人を通して生産者を探した。このときは「高く買ってくれるのなら、無農薬で栽培してもいい」という生産者と出会ったが、あまりにもお金を優先させるその考え方に中村は同調できず、「一緒にやってみよう」という気持ちになれなかった。

 1992年、三度目のブラジルで、初めて中村は、コーヒーの無農薬栽培に取り組む三人の生産者と会うことができた。

 帰国した中村は、この三人の生産者からコーヒー生豆の直輸入を開始する。無農薬でコーヒーを栽培する生産者と出会え、無農薬栽培の認定証も出ている。販売するコーヒーの種類も増え、売上げも順調に伸びた。無農薬コーヒーの産直もようやく実現したようだった。

 しかし、この状態においても、中村は心底満足できていなかった。「モノとカネが流れているだけで、まだ自分の目指す産直にはなっていない。本物の産直を実現するためには、心の通じ合う生産者を探さなければならない」そう考えた中村は、再びブラジルへ向かう。

 

そして、ジャカランダ農場で

 1994年1月5日、四度目のブラジル。中村がジャカランダ農場でカルロスと出会ったのはこのときだった。最初に、カルロスと握手を交わした中村は「表情が優しい人だな」と感じた。

 中村はまずカルロスに案内され、農場を歩いた。これまで見てきた無農薬コーヒーの栽培農場よりも土が柔らかく、スコップを使わなくても手で掘ることができた。それにコーヒー園全体に、様々な昆虫、チョウ、クモなど生き物が多く、小鳥の鳴き声が絶えない。

 農薬と化学肥料を使う一般のコーヒー園では、レイチェル・カーソンの言う「沈黙の春」状態で、虫や鳥の姿も見えなかった。除草剤は、草だけでなく、土中の微生物やミミズまで殺してしまう。さらに、堆肥を入れずに化学肥料に依存しているので、ますます土は硬くなる。生き物が全く見当たらない世界に、コーヒーの樹だけが、殺虫剤や殺菌剤の力を借りて「立派」に育っている。

 ジャカランダ農場を歩いている途中、中村は農場スタッフと出会う。またしばらく歩いていると、遊んでいる子どもたちや農道を散歩するお年寄りを見かける。その度にカルロスは笑顔で彼らに語りかけた。そして「この子たちは、さっき紹介したシルビオの子どもです」「彼は私の子どものときからの遊び仲間で、親友です」というふうに、一人一人を中村に紹介した。 

 

想いを全て伝えて

 中村は無性に嬉しくなってきた。これまでたくさんのコーヒー園を訪問してきたなかで、これほど労働者とその家族を大切にする農場主に会ったのは初めてだった。

 「自分が探し求めていた生産者はこの人だ」と確信した中村は、水俣に始まり、無農薬野菜の産直活動、チェルノブイリの支援活動に至るまで、それまでブラジルで語るに語れなかった想いの全てを語った。

 「19歳のときに、胎児性水俣病の子どもたちを見て、なぜ大人たちはこんな公害病を起こしてしまったのかと考えました。今も、チェルノブイリの子どもたちの支援をしながら同じことを考えています。どちらも大人が子どもに被害を与えています。後の世代のことを考えず、自分たちの目先の利益や快適さだけを追及していることに原因があると思います。」話題はさらに広がり、中村は、フロンガスや農薬によるオゾン層の破壊、原発から作りだされる放射性廃棄物のこと、地球規模で深刻化する自然破壊の問題などについて話した。

 終始、深くうなずきながら中村の話を聞いていたカルロスは、「本当に豊かな生活とは、自然と共にあり、次の世代に希望を残していくことではないでしょうか」と答えた。

 中村はますます嬉しくなり、「私は単なるフェアトレードでなく、ジャカランダ農場と共同で有機コーヒーを育て、広めていく事業をしたい」と語ると、カルロスも嬉しそうにうなずいた。

 この話の後、カルロスは「ちょっと表にでましょう」と中村を誘った。そして、「これを植えて下さい」と言って、ジャカランダの樹の苗木を手渡した。中村が五、六本の苗木を植え終わると、カルロスはこう語った。「これであなたはこの農場に根を降ろしました。末永いお付き合いをお願いします。できれば、私だけでなく、私の次の後継者とも仕事をするつもりで太い絆を築いてほしい」

 それは、これまで何度もブラジルを訪れたなかで、中村が最も感動した言葉だった。

 このとき、ジャカランダ農場には世界の美味しいコーヒーだけを買い集めているイタリアのコーヒー会社が、高値での購入を打診してきていた。にもかかわらず、カルロスは、自分の次の世代も見据えた長期の提携を約束してくれたのである。 

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