神を愛し、人を愛し、土を愛す 2
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沼津時代の平林広人(1886-1986)
(岩渕文人『祖父 平林広人』私家版より)
デンマークといえば、童話のアンデルセンや哲学のキルケゴールが有名であり、グルントヴィの名前は日本ではほとんど知られておりません。内村はデンマークへ行ったことがなく、当然ながら、グルントヴィについて余り知らなかったと思われます。内村が書いたものを見ても、グルントヴィについては、渡瀬寅次郎への追悼の言葉以外には余り見当たらないのです。多分、内村にデンマークにおけるグルントヴィの重要性を教えたのは平林広人だろうと思います。内村が渡瀬に「グルントウツヒの如く」という言葉を贈ったことから、葬儀の際には、既に平林をブレーンとしてデンマーク流の農学校建設が動き始めていたことが窺われます。
明治から大正にかけてのキリスト者には、基督教主義の学校を建設するものが少なくありませんでしたが、内村は、自らそうした野心を露にすることがありませんでした。最初に赴任した北越学館での宣教師たちとの衝突や、教育勅語の末尾にある天皇の署名に対して拝礼をしなかったとして糾弾され、免職となった「第一高等中学校不敬事件」など、学校現場で味わった苦い経験が、彼を学校から遠ざけたのかもしれません。ですから、旧友の遺志に依るものとはいいながらも、内村が基督教主義の学校建設に積極的に関わったということは、特筆すべきことであると思われます。
内村は、デンマーク流の農学校の建設のため、札幌時代の旧友たちと共に行動を起こしますが、実際にデンマークのフォルケホイスコーレに留学経験のある平林のアドバイスに加えて、日本国内にも内村のモデルとなるデンマーク流の学校が存在しておりました。それは、この茨城にあったのです。
内村の日記を見ますと、翌昭和2年(1927年)3月21日に、友人たちと友部にある日本高等国民学校を訪問しており、次のように記されております。
昭和2年(1927年)3月21日
農商務省高等官某氏に伴はれ、友人一団と共に茨城県友部に在る日本高等国民学校を訪れた。校長加藤完治君の親切なる案内に依り構内隈なく視察するを得て大いに教えらるゝ所があった。如何にして最も有効的に我国農家の子弟を教育せん乎と云ふのが問題である。そして加藤校長は確かに多くの満足なる解答を与へつゝあると信ずる。何れにしろ日本国根本的救済を計るための最も有望なる試みであると思ふ。なまじかな神学校を設くるよりも遥かに増しである。自分にも若し年齢と資力とが有るならば行って見たき仕事である。此所にも亦一場の演説を為すべく余儀なくせられ、一時半辞して汽車にて水戸に至り、常盤公園に烈公の遺跡を尋ね、梅花を賞し、夜8時柏木に帰った。久しぶりの短旅行であつて、心身共に善き休みであった。夕暮れに利根川の鉄橋を渡りたれば一首を作った。
梅が香に憂へは失せて身は軽く
利根川渡る春の夕暮れ
(内村全集第35巻(岩波書店 1983年)P166)
内村がモデルとした日本高等国民学校は、現在、日本農業実践学園という専門学校として残っております。校長の加藤完治は、内村の弟子であった藤井武が山形に設立した自治講習所の初代の所長を務めた人物で、平林と同様に、デンマークを訪問してフォルケホイスコーレを自分の目で見ております。加藤は、学生時代は熱烈なクリスチャンでしたが、やがて古神道へと転向し、第二次世界大戦では「満蒙開拓青少年義勇軍」を組織して、二万人以上ともいわれる少年を大陸に送り出して、多くの犠牲を負わせます。
加藤は、この時の内村の訪問について次のように記しております。
植村正久、内村鑑三などというクリスチャンは大したもの、真の日本人で私は尊敬している。この内村先生が建てる学校に北海道の金持ちが金を当時の金で10万円出したいというが、国民高等学校の大事なところを教えてくれと言われたから、金を出す人が出してやったような顔をして教育にくちばしを入れさせる事は絶対いけない。そして国民高等学校の校長は金にも権力にも頭を下げない人間で、ただ生徒のためにのみヤルゾという人間でなくてはならないと答えたら、よく分かったと内村先生は感謝しておられたね。
(加藤完治全集第四巻「加藤先生 人・思想・信仰(上)」口絵25P)
また、内村が行った一場の演説の主題は、「土地は生きている。これを愛さねば枯死する。農村問題は、実にこれ国家興亡の問題。」であったと、加藤は記しています。ここに、「土地を愛する」という言葉が登場しますが、三愛精神にいう「土を愛す」が、内村自身の口から語られたという点に注目したいと思います。
この小旅行を行った3月21日といいますと、偕楽園の観梅の時期に当たります。友部に行くならば、少し足を伸ばして偕楽園の梅を見ようということで、この時期を選んだのではないでしょうか。柏木への帰り道に作った短歌を読めば、モデルとなる学校を自分の目で確かめることによって、学校建設の意義も実際の姿も分かり、運営上のヒントも教えられた内村がほっと安堵したことが伝わってきます。
内村の日記を読みますと、渡瀬が亡くなった前後から、札幌時代の旧友との交流が活発になったことが分かります。新渡戸稲造、宮部金吾、大島正健、伊藤一隆らとの相談、祈祷の機会が増えていきますが、その理由の一つに農学校建設問題があったことは言うまでもありません。内村は、こうした札幌時代の仲間のことを「札幌老人組」と呼んでおりますが、渡瀬の遺志を実現することは、札幌老人組のこの世で為すべき最後の仕事であると考えていたのではないでしょうか。
そして、昭和2年(1927年)4月に、内村、植村澄三郎、伊藤一隆の3人と渡瀬一族によって初会合が開かれ、更に、創立委員として札幌時代の新渡戸稲造、佐藤昌介、宮部金吾、清水由松らが加えられ、
一. 学校は基督教を基礎とし、農業教育を行う。
二. 学校長の選任は内村鑑三に委嘱する。
三. 基本金その他渡瀬家より十萬円支出する。
四. 校名は興農学園とする。
などの点が決定されます。更に、6月には、平林広人が校長に選任され、九州帝大農学部助手であった大谷英一が加わって急速に準備が進み、学校の建設予定地も決定されます。
内村は、学校建設予定地である静岡県沼津市久連を訪問したときのことを日記に次のように記しています。
昭和3年(1928年)9月28日
知人某氏の事業に関する所用あり一日を費やして静岡県田方郡西浦村久連へ行いた。江之浦湾を経て富士山を眺むる風景は世界一品であると思うた。松島などの到底及ぶ所でない。北海道を見た眼で内地の此辺を見て、矢張り日本の最美は内地にあることを肯はざるを得ない。義務は別として秋晴れの好き一日の清遊であった。
(内村全集第35巻(岩波書店 1983年)P368)
大谷英一によれば、この時、内村は「日本一だ、天下一の絶景だ」「こんな縁故のある土地で学校が起されるなんて、渡瀬君は幸福者だよ」「僕もやがて久連で死にたい」等と語ったと言います(「日本村塾日記」関谷書店 昭和10年 P50〜51)。
こうして興農学園は、昭和3年(1928年)10月から動き始め、翌4年(1929年)6月に開校式を行いますが、この頃までには、教場(食堂兼教室)、体操場、図書室、寄宿舎が次々と整備されていきます。昭和8年(1933年)2月には、平林の後を継いだ大谷英一校長のもとで財団法人興農学園久連国民高等学校と名称を変更しますが、内村が設立に奔走した、このデンマーク流の学校は、昭和18年に戦争の荒波の中で十余年の命を終えていきます。