分散型エネルギー社会をめざしての闘い
ウルリヒ・ヨヒムセン
橋爪健郎責任編集
酪農学園大学
ウルリヒ・ヨヒムセン(右)と橋爪さん(左)
 ウルリヒ・ヨヒムセン(ドイツ分散型エネルギーネットワーク執行理事)は1988年以来4度(1992年、1998年、2005年)にわたり来日して各地で講演などを行いました。これまでの三回の来日の際の彼の講演の抜粋集をここに紹介します。なお編集は橋爪健郎さんによるものです。

挨拶
 皆様の前で原発の犯罪性、特に脱原発へいかに向かうかについてお話しできる機会が持てて大変うれしく思います。今ごらんになっているイラストは原子力平和利用と言うことの本質をついた図です。一番の根本問題は死の灰(放射性廃棄物をどう処理したらよいか、いかなる策もないし今後もないと言う問題です。死の灰はいずれ食物連鎖と濃縮によって人間に到達します。後で触れますが私はかつてドイツのカールスルーエ核物理研究所に勤務していました。当時の上司はジュネーブのヨーロッパ最大の原子核研究所所長になりました。私がそこに勤務した6年半の経歴は私にとって原発は非常に危険であるとの確信を深めさせるものでした。


1 チェルノブイリ原発事故で起きたこと
 「全く影響はない」!
 まずチェルノブイリ原発事故当時の私の個人的な経験からお話をしたいと思います。事故が起きたとき私はオーストリアの国境近くにいました。オーストリアのラジオ放送で事故の発生を知ったのです。その放送では事故はちょっとした軽い事故であまり深刻に捉えることはないというものでした。最初の報道ではチェルノブイリ原発はプルトニウム製造用だと伝えられました。プルトニウム製造用ということは軍事用と言うことですが、このことはその後二度と報じられませんでした。西ドイツ(当時)の公式発表によるとチェルノブイリ原発は1500kmも離れているので全く影響はないというものでした。連邦政府は気象庁にたいして、どうのような放射能がどれくらい降ってくるかを発表するのを禁止したのです。民衆の利益に反することを政府はしたのです。
 これは言論の自由が保障されている西側世界で起こったことです。

 スウェーデンでは
 実はチェルノブイリ原発事故による死の灰がドイツに来たとき実はドイツでも原発事故が起こり放射能漏れが発生しました。しかるに原発を運転していた電力会社は、それはチェルノブイリ原発の放射能であって、自分が放出したものではない、と知らないふりを決め込んだのです。
 もし、民主的スカンジナビア半島の国々が無かったら私たちはチェルノブイリ原発事故のことを知らなかったと思います。放射能雲はまずスウェーデンに流れ広大な牧草地を汚染しました。しかし、彼らは最初何が起きたか分からなかったのです。最初に放射能の存在を知ったのは原発関係の人たちでした。初め、自国の原発に何か事故が起こったに違いないと思いこみ自国の原発を全てストップしました。しかし、どうも様子がおかしい。原発内部で測った放射線レベルより敷地外のレベルの方が高い。どうやら外部からのものらしいことが判明したわけです。
これはドイツの反応とは全く違う反応でした。ドイツ側の反応は自分たちには間違いがあるわけがない、何かのミスがあったはずがないという反応でした。スウェーデンとは対照的です。

 原発を持つ国の現実
 こうした政府の対応は人々は非常に大きな混乱を招き、政府に対し不信感といらだちをいだかせる結果となりました。ある地域では行政から子供達に「外で遊ばないように」と勧告され、ほんの川向かいの行政境界を越えた地域では「全く安全です」と言われたりしました。ある州では「ミルクは絶対飲むな」と言われある州では「絶対大丈夫」と言われ、様々な情報が入り乱れていました。ある地域では全ての野菜が廃棄され、ちょっと離れた所では売ることが出来ました。どれだけ汚染されているかと言うことを知る測定手段が無かったのです。測定装置もなかったのです。政府は企業などの経済的損失を最小限に食い止めるため食品汚染の安全基準値を高くゆるやかにしました。さらに、誰でも勝手に放射能測定することを許さない法律まで作りました。政府機関だけが測定できる事になったのです。ですから、もう人々は個人的もしくは団体で測定装置を持つことは不可能になったのです。
 特にフランスは原発を特にたくさん抱えた国ですがフランス政府はいつも「全く問題ない安全だ」と繰り返すのみでした。ヨーロッパで一番問題はフランスで次に事故が起こるとすればヨーロッパではフランスだろうと言われてています。日本かもしれませんが・。これが原発を持った国、ドイツなどの現実です。多かれ少なかれ日本の状況も国の対応も似た様なものでなかったろうかと私は推察します。

 初めて閉鎖された原発
 チェルノブイリ原発事故と同じ時に事故を起こしたドイツの原発(ハムイントロップ原発)は私の兄(当時ノルドライン−ウェストファリア州の経済大臣)の管轄下にありました。私は兄に、この原発は閉鎖させるべきだと助言し、事故原因を究明するように依頼しました。推進派の政治家は反対しましたが結局閉鎖しなければならない状況に追い込まれました。これがチェルノブイリ原発事故以降、初めてドイツで閉鎖された原発となりました。私の兄は州の行政官であって行政官というのはどうしても保守的になって原発推進の立場にあるわけですが、私は彼に原発の危険性を必死に説得し、彼の意志で閉鎖するようにもっていったのです。このことはとりもなおさず私の兄にとって政治家として非常な大きな決断であったと思います。このようなことが出来たのは、私のような経済力はないけれど道義的には優れた市民的立場で考え行動する者と、兄のように非常に経済力はあり強力な組織を動かせる立場の者と個人的な接触があったからこそ出来たことだと思います。

 原発のタタキ売り
 アメリカは日本にとって何と言っても原発先進国だし、いろんな意味で重要な国です。そのアメリカでこの10年来どういう事が起こっているのかふれてみたいと思います。ここに表がありますがこれはアメリカで中止になった原発のリストです。これらには半分まで完成して取りやめになった原発もあります。滑稽だけど笑えない話をご紹介しましょう。私がハノーバーの博覧会を見学に行ったときのことです。毎年開かれているのですが、私が行ったのは3年前のことでした。
 TVAというアメリカ最大の電力会社が「青年と未来」というテーマで展示場を開いてました。その一角で「、80%ディスカウント」という表示があるのを見て私はどういう事かと尋ねました。すると「大安売りをするから原発を買わないか」というのです。「もし買うつもりがあれば8割まける」そうです。「今のところ130万kw原発が100基残っております」とのことでした。それはきっと技術的に問題があるから安いのではないか、と私は質問しましたところ、TVAの人は「いや、これはアメリカのエネルギー省の基準に合格したものです」というのです。私はさらに、「では何故、売り場を「青年とその未来」という展示場でなく、ドイツの原発プラントの展示場の横にでもちゃんとした展示場をつくらないのか」と問いましたら、「そんなことをしたら殺されてしまう」との答えでした。
 何故アメリカは原発をタタキ売りしなければならなくなったのでしょうか。1978年アメリカのカーター大統領が成立させた PURPA法(公益事業規制法)は「国民の健康と安全を尊重しなければならない」と謳っております。と言うことをもっと具体的に申しますと、例えば誰か自分の庭に風車を立てて電気をつくるとしますと、その人が正当な利益を上げられるような価格が保証されなければならない、と決められているのです。

 PURPA法
 日本でもそうだと言うことですが、発電施設はすべて電力会社のものばかりではなく、例えば日本では農業協同組合などが所有する小規模の水力発電所などがあります。その電力はその地域の電力会社によって買い取られます。しかしその価格は極めて低くされます。電力会社からすれば、「おまえの所の発電設備はとうに減価償却しているので安いコストで発電できるだろう」というような一方的な理由です。では、もっと高く買い取ってくれる電力会社を探そうとしても日本の制度ではそれができません。でも、電力会社が農協以外の所から買うとしたらもっと高いものになるはずです。    PURPA法は電力会社が足下をみて買いたたくことを許さず、当然かかるはずのその高い方の値段で農協から買いなさいという法律です。
 その価格はコストが同じように決められればあえて危険な原発を選ぶ者はいません。これが、アメリカで多くの原発がキャンセルになった理由です。資本主義社会は市場原理それで、さきほどのTVAの話に戻りますが「あんなにまけたのに一基も売れなかった」そうです。まあ、日本の電力会社に「安い原発が買えますよ」と教えてあげることも出来たのですけども・・・・。(爆笑)
  デンマークで風車が普及した背景にはPURPA法の成立によってカルフォルニア州で風車ブームが起こり、デンマークから大量の風車が輸出されました。その結果、技術的にも改良が進み経済的にも安くて良い風車ができるようになったという経緯があります。


2 私の反骨精神のルーツ
 ドイツ語で日本のことを最初に報告した人はユルゲン・アナーソンです。彼はシュレスウィッヒ州のトナーン出身で1646年にオランダ船で長崎を訪れたのでしたのでした。およそ300年後の1935年6月28日私は彼の出身と同じ地域で生まれました。ペリー提督の艦隊が日本に開国を迫ったとき、かつてからデンマーク王国であった私の故郷はプロシャの中央集権主義者とオーストリア帝国主義者から侵略されました。私にはスカンジナビア人の魂と中央集権的なカトリック教会への反感が深く宿っているのです。
 私は人を知るにはその人の育った社会や家庭環境を理解することも大事だと思います。私が今住んでいるのはデンマークとドイツとの国境の町フレンツブルグです。父は高校の校長でして2人の兄と妹が一人います。長兄のハンノはハンブルグ市の全公立図書館長、先に触れましたように次兄のライムートは経済学教授でノルドライン・ウェストファリア州経済大臣をつとめていました。妹のグンナは医師でした。ドイツではインテリの家庭環境だったかもしれません。娘のゼーネは70年代から80年代にかけたデンマーク風車開発史上、中心的な人物として知られるデンマーク人のクラウス・ニブロと結婚してます。

 私はドイツで大学教育を受けました。ヨーロッパでは大学卒業後一人で海外を「武者修行」する事になっています。私は1955から58年まで主にドイツ製のフォルクスワーゲンをアメリカへ輸送するドイツの貨物船で無線技師として世界中をまわりました。私の乗っていた船はかつてのドイツ潜水艦Uボートのエンジンを積んだずいぶん老朽化した船でして、ある日エンジンが故障し危うく難破しそうになりSOSを発信したこともありました。1959から60年にかけ交換留学生としてカナダ留学し、電気電子通信工学を学びました。電気電子技術者としての試験を1962年にパスした後、原子力研究ではドイツ最大のカールスルーエ原子力研究所に6年半勤務し、その後1966年にカラーテレビ番組製作スタジオ用の設備をつくるビデオデジタルテクニック社を設立しました。ヨーロッパや海外の大手のテレビ局が私の顧客でした。
 このように私は人生のスタートからエネルギーと通信情報とを結びつけて考える技術者として始まりました。

 政府委員と大論争
 69年から70年にかけて通信技術に関するヘッセン州のコンサルタントになり、74年には通信技術とシステム研究所が設立され私が所長になりました。そしてヘッセン州の首相から「2000年に向けた未来の通信システム」というドイツ連邦政府委員会への代表として唯一私が選ばれたわけです。 その連邦政府委員会で私は極めて権力的に物事を一元的に支配することを望む面々とはげしい論争になりました。多くの政府委員の言うような中央集権的かつ帝国主義的な発想を基につくられたデータ通信技術が進めば個人の権利は著しく狭められ危険にさらされると私は考えたからです。
あげくのはて私の作った会社はつぶされてしまいました。

 何故反原発か
 日本の憲法に相当する1949年に定められたドイツの「基本法」は政府が個人の権利を守るべく定められています。特に中央集権的帝国主義的なベースで組み立てられたデータ通信テクノロジーは個人の権利を著しく狭めます。得体の知れぬテクノロジーは私たちの文化、社会生活や社会遺産を攻撃し、破壊し続けております。世間の多くの人はこの危険性に気づいていません。もともと私は通信技術者ですが、こうした体験を通じて中央集権的で人々の手に届かない得体の知れない実体に支配されることの危険を身にしみて分かりました。技術=テクノロジーというものは中立的でもなく、無色透明なものではなく、支配者の意向と深く結びついた極めてイデオロギー的なものです。


 個人からはじまる
 70年代の最大の問題であった環境エネルギー問題でも同様な事態が進行していました。空間的、時間的に無限大とも言うべき危険性を持つ原発建設がドイツでも進んでいたからでした。申しましたように私はもともと原子力研究所に働いておりました。
 エネルギーの問題でも通信技術の世界と全く同じことが言えます。原発の危険性ということと同時に、私には原発のように民衆の力で全くコントロールできない中央集権的なエネルギーは要らない、自分たちの必要なエネルギーは自分たちでつくるべきだ。それは可能であると考えました。私の反原発運動はその危険性だけで終始するものではありませんでした。私は彼らと闘うため1982年分散型エネルギー研究所を立ち上げ、個人がエネルギーを自給するためのエネルギー・ボックスを提唱しました。
 ドイツは寒い国なので暖房のために多量の石油やガスを消費してます。それらの燃料を直接ボイラーで燃やすのでなくて小型の発電装置の燃料として使って、その廃熱を暖房などに使えば良いと言う考えです。それは車の暖房と同じ仕組みです。車はいったんエンジンを動かすためにガソリンを使い、エンジンを冷却する時生じる温水で車内を暖房します。各家庭でそれぞれが電気や熱などのエネルギーを供給する「ボックス」があれば巨大な発電所などは不要であるという考えです。 それが普及すれば国全体としては大きなエネルギー節約になると考えたわけです。(デンマークでは既に一般化)

 コジェネレーション・システム
 技術的には日本でも大型店舗やホテルなどの事業体で普及し始めている熱電併給システム、コジェネレーション・システム(コジェネ)の家庭版と言えます。ドイツでもコジェネ装置は数十年前から各所に設置されています。例えばあるヘルスセンターでは2000kwのコジェネが稼働して温水と電気を供給しています。芝を植えた庭園の地下に設置されていますので景観を壊すこともありません。温水を暖房用だけでなく温水プールの熱源として使った例もあります。排気ガスで空気を汚染するのではないかという心配もありますが、もともと空気が良いところにあったヘルスセンターが悪くなったということはないそうです。温水はものを暖めるだけでなく、ものを冷やすのにも使えますので人工スケートリンクとしても使われています。しかし、これらは大型発電所に比べたら小型ですが、私の考えているような家庭用としては大きすぎます。

 エネルギーボックス
 私がコジェネレーションでなくエネルギーボックスというのは権力から自立する闘いはまず個人から全てが始まるという私のテクノロジー(考えを持った技術)に基づいています。今、テーブルの上にあるカセットレコーダーは数十年前はずいぶん大きな機械でした。それが今ポケットの中にはいるようなものになりました。現代の技術をもってすれば家庭用の、せいぜい冷蔵庫ぐらいの大きさのエネルギーボックスは製作可能だと思います。げんに私の考えたようなエネルギーボックスは12年前にフォルクスワーゲン社によって試作されています。これを大量生産して産業化すれば多大の雇用を生み出す事ができるはずですが、何故かフォルクスワーゲン社は生産に踏み切っていません。
 ドイツの家庭の地下室にはセントラルヒーティング装置があるのでその代わりにエネルギーボックスを置くことができます。冬季の暖房にこのエネルギーボックスを使えばドイツの電力の7割をそれによって供給することができます。原発などは必要なくなります。

 法律がないからダメ
 私はヘッセン州の首相にこの考えを提案しました。するとヘッセン州の首相は直ちに私の考えに関心を持ってくれてこれが実行可能かどうか研究してくれと私に勧めてくれたのです。しかし、研究してくれと言ったけれども文書による公式依頼ではありませんでした。なぜ、公式依頼ができないのか、ヘッセン州の経済大臣や関係者などと話し合う場を持ちました。その日一日で様々な人間と話し合い、エネルギーボックスがエネルギーの面からもコストの面からもいかに有利なものであるかということを説明したのですが討論が終わって彼らが言ったことは、そういうことは法律で決まっていないから正式に書面で依頼できないと言うことでした。そういうわけでヘッセン州の首相は私に個人的に調査研究を依頼してきました。これはおかしなことですね。本来、そういう分野の問題は経済大臣が一番責任があるはずなのに州の首相が私に個人的に依頼してきたわけです。
 その一方で彼らは実はフランクフルトその他のところで日本で言えば三菱のような大財閥が参加している原発をつくる許可を与えていたのです。エネルギーボックスに関しては法律がないと言うだけの理由で私の提案をキャンセルにしたのでした。

 チェルノブイリ原発事故研究を許さなかった連邦政府
 チェルノブイリ原発事故の後初めて原発を閉鎖させた私の実兄のライムートも同じような問題に直面しています。兄の州は3分の1が原発によってまかなわれています。ここでは既に高速増殖炉が完成していて企業の方は早く運転を始めたがっているのですが未解決の問題が2000もあり安全性に問題があるとして兄の州ではまだ運転を許可していません。
 事故後、州当局は原子力というものの真実を知るために大学や研究者たちにチェルノブイリが何を意味しているのか研究するよう要請しました。 ところがドイツの連邦政府ですね、州大臣がチェルノブイリを研究しろということを大学や研究所に命ずることを許さないというのです。「危険」であるという理由で許可してないそうです。何か政府を後ろから動かしている勢力がある、そう考えざるを得ない。と私は思いました。それからどういう勢力が政府に圧力をかけることができるのかということについて。それはエネルギーボックスの考えに嫌悪したものと同じ所からでてました。

 こんなのむちゃくちゃだ!
  権力者のみ支配できる巨大集中型エネルギーでなく市民の手による小型分散型エネルギーシステムを、という考えが当時、いかに権力者にとって、いわば生理的嫌悪感を与えたかということは次のような私の経験をお話すればお分かりでしょう。
 1978年の末、私はシーメンス(日本日立、東芝にあたる巨大電機産業)の10億マルクもの汚職事件に関するテレビ番組の制作に関わり、その番組は放映30分前に放映中止になったといういきさつがありました。 私はWDR(ドイツ国営放送)の責任者に抗議し、その代償として、1981年に「いのち と原発」という2時間の生放送に出演させてもらえることを約束させました。放映時間は2月3日と決まりました。ところが予定日の5週間前に、突如、WDRのディレクターは私を降ろし、替わりに実兄のライムート(ノルドライン・ウェストファーレン州経済大臣)を招待したのです。

 パネラーの多数は原発推進派でした。その内の一人が「ドイツの高速増殖炉の父」とまで称されたヘッフェル氏で、私がカールスルーエ原子力研究所に勤務していたと同じ頃の1960年代の同僚でした。私は映像資料として、「エネルギーボックス」に関する約5分の短いフイルムをずっと以前から用意していました。本番放映に先だってそのフィルムの試写が始まりました。上映が始まるやいなや、ヘッフェル氏はひどく顔をしかめて、「これはなんだ! こんなのむちゃくちゃだ!」とひどく感情的で高ぶった調子で叫んだということです。彼のあまりに感情的な発言にさすがの兄もいささかびっくりしたそうです。ディレクターはそのフィルムの本番での使用を取りやめただけでなく、はてはフィルムの行方すら永久に不明となりました。この企画にはかなりの原発推進側のカネが入っていたそうです。
 この逸話は 原発推進派にとって、「エネルギーボックス」とその思想はいかに危険なものであるかを如実に顕わし、逆に 「エネルギーボックス」の大きな可能性を示しているのだと私は思いました。


3 デンマークで風車発電が普及したわけ

 デンマークは政府レベルで脱原発を決定した最初の国です。1957年デンマークは自国を非核地域に指定し核兵器を持ち込む事を拒否しました。 1979年、NATOに対して核ミサイル開発費の負担拒否を通告しました。1895年チェルノブイリ原発事故に先立つ1年前、国会で脱原発を決議しました。 デンマークの脱原発運動がヨーロッパのよその国の運動と違うところは風車発電の建設運動と共に進められたということです。 自国だけではなく、カルフォルニア、ハワイ、インド、中国など世界各国に輸出しています。私はデンマークの脱原発運動の成功は日本に於いても参考になる話ではないかと思います。 デンマークが脱原発に向かえたのは社会に民主主義があったからともいえます。核のある社会は有能な官僚、優秀な秘密警察を必要とし、民主的な政治家や公開討論の場は必要としません。 核技術は時間的にほぼ無限大で、影響する広がりは地球的です。ですから核施設は完全無欠な人間を必要とします。 完全無欠な人間など会ったことはないし、もしそうした人がいたとしても、正直申しまして私はあまり好きになれないでしょう。
 私たち不完全な人間が犯す誤りを許してくれ、少なくとも私達の生きている時間と空間の範囲内で責任の取れる技術に親しみたいものです。

 技術の蓄積
 その民主的な伝統に従いデンマーク政府は行政としても風車発電に対して援助政策をとり続けていたのでデンマークにはかなりの技術の蓄積がありました。1973年のエネルギー危機から15年に第3世代のハイテク風車発電が完成しました。55kwから300kwの出力で条件さえ良ければ10万〜60万kwh発電します。完全にコンピュータ制御で電話線を通じて日本からさえもコントロールしたり、出力データを出力させたり出来ます。この風車発電システムは原発よりずっとシンプルで安価にできるのです。 風車発電は廃棄物や環境汚染をもたらさないのはいうまでもありません。

民主主義の蓄積
 歴史的に見ればデンマークはヴァイキング時代以来1500年の民主主義の伝統があるといえます。 デンマークはヨーロッパでもっとも島の多い国で、ドイツとも間にたった60kmの国境線しかないのです。それ故、ドイツの国のしくみや帝国主義的軍隊はデンマークにとって歴史的に常に現実的な安全上の問題でした。デンマークはそのアイデンティティをその古い歴史的ルーツにさかのぼることが出来ます。
 日本は戦後、憲法で平和、民主、個人の権利を保障されましたが、戦前の政治構造はドイツ帝国に基礎を置いています。日本の民主的市民運動はデンマークから多く学ぶことが出来るのです。 技術の選択は社会の選択だと思います。私たちが安心して暮らせる社会を望むならそういう社会にふさわしい技術を選択しなければなりません。逆に原発のような技術を選択する社会は人々は誤りが許されず、ストレスと不安から逃れることは出来ません。私はこれらのことについて議論するために日本にやってきました。

 中央になびかない人々
 デンマークは日本と同じように長い間地域で平和に暮らしていました。デンマークの民衆にとって王は存在しても皇帝はずっと遠い存在でした。特にドイツでプロイセンのような中央集権的な勢力が隆盛してくると中国の万里の長城みたいに大規模なものではありませんがプロイセンとの間に防塁をつくって侵入を防いでいたのです。日本でもペリーの黒船以来、外国勢力の侵入への対抗上、中央集権的システムを取り入れましたが、デンマークも1864年、プロイセンとの戦争に負けてから中央集権的システムを取り入れることになりましたが、それに従わないデンマーク人も多くいました。特に島が多かったので中央集権体制に従わないデンマーク人も数多く残ったのです。

 風車はふるさとを守る
 そのデンマークでは非常な勢いで風車発電が伸びてますが、そのきっかけについてお話しましょう。さきほどフェリーの港に風車が多数設置されている写真をお見せしましたね。その近くに住んでいたトニー・モラーというジャーナリストが石油危機の3年後に自分の家の敷地に風車を建てたのです。そして彼は毎月自分の風車がどれくらい発電したかを新聞の小さなコラムに発表し続けたのです。それを見た人全てが、なるほどこれだけ発電したということはこれだけ儲かることだなと実感できたわけです。これは風車の普及にとって非常に大きなきっかけだったと思います。電力会社はこんなことは好まないことはおわかりと思います。デンマークでも同じです。でも、人々は風車発電を買って立てることは経済的に豊かになり、自らのふるさとを守ることにもつながるということに気がついたのです。

 草の根情報公開運動
 本当の民主国家においては政治権力という意味のパワーと電力という意味のパワーは個人が自由にできるものでなくてはならないと思います。近代国家においては電力は軍事力と並んで重要なものです。ですから、電力を民衆の手に取り戻すことができれば政府は民衆の意志に反して戦争を起こしたりすることができなくなると思います。そういう意味で反原発運動は戦争反対の運動に深くつながる大変重要なものです。言うまでもなく、戦争は最悪の環境破壊をもたらします。
 かのジャーナリスト、トニー・モラーの発表開始以来1976年頃から風車発電は急激に増え始めました。1986年現在、896台の風車発電が一千万kwhの電力を生み出しています。これはデンマークの年間消費量の1%になります。
 トニー・モラーはその後、風車発電所有者協会をつくり、デンマーク中の人が誰でも分かるように、既に立てられている風車発電の実績をもとに、デンマークの地域を碁盤の目のように区切り、それぞれの地域で新しく風車発電を立てたら毎月どれだけ発電できるかという地図を協会誌で公表しています。こうした民衆による草の根情報公開運動によって毎月2万世帯の人々が風車発電に加わりつつあるのが現状です。

 売電システム
 風車発電一台がそれぞれ50から200kwの発電能力を持っています。一台で20から50世帯の電力をまかなうことが出来ます。私はこれらの風車は非常に景観にマッチしていると思います。デンマークはパンケーキに例えられるくらい平坦な国で風の通りが良く風車に適した所が非常に多いです。日本は起伏に富んだ地形ですのでどこでも風車に適していると言うわけではないかもしれませんが、山の上など風車の適地は多いと思います。風車の所有者は風車から半径10km以内の住民に制限されています。(現在は その制約はなくなった )ご存じのように風車は風がなければ発電できません。でも、そのためにバッテリーは要りません。風がないときには今までのように電力会社から電気を買うのです。風が吹いて電気が余ったら電気を電力会社に売ります。基本的に必要なのはどれだけ買ってどれだけ売ったかを測るメーター計だけです。(太陽光発電のシステムと同じ)このようなシステムは戦後すぐヨハネス・ユールというもともと電力会社の技術者だった人が開発したものです。

 何故売電可能か
 日本では自分でつくった電気を電力会社に売ることができないのに、何故デンマークで可能なのか良く訊かれます。それは法律で決まったからではなく、それまで大規模ではないにしてもユール以来事実上慣習的に行われ社会的理解を得ていたからです。デンマークがいくら民主的な国でも政府が決めてくれるのを待っていたら200年くらいかかることをデンマーク人はよく分かっているのです。民主主義の社会における理解というものはすべて平等な個人から発するもので、法律はその帰結にすぎません。ですから、法律という名目で既にある社会的理解を規制することはできないという考えです。形として存在する法律より個人から発する社会的理解の方が上位にあるわけです。

 皆が持てる風車
デンマークには大電力会社というのはなく、大きく二つの系列に分けられるローカルな電力会社がたくさんあります。それらは独占への傾向が強くありますが民衆の様々な運動がそれを阻止しているのです。
 電気を売ることにより単純計算では一年間で建設費の2割を取り戻すことが出来ます。(つまり5年で元が取れ、寿命とされる20年間まで利益を上げることが出来る。ただ、その資金をローンで賄えば利率により償却期間は長くなる)一台の風車を共同で所有すれば必ずしも裕福な人だけでなくとも風車の所有者になれ利益に与れます。風車一台を立てるにはお金もさることながら土地も要りますので比較的大規模な農家でしか難しいのですが、共同所有なら土地は要らず費用も少額ですみ、もちろん電気代の心配は無くなります。 風車の建設工程は非常に簡単です。一週間で基礎工事がすみ、一日でタワーとローターが取り付けられます。


 近代ハイテク風車の誕生
 個人の庭先から始まった風車ですが、風あたりの良い地域にまとめて何台も立てるウィンドファームも建設されています。これは町営のウィンドファームでヨーロッパで最大のものです。(当時)これら一つ一つが150kw発電できます。風車が地域の経済を活性化させるのです。子供達も風車に良くなじんでいます。高度で特殊な知識や技術は必要なく、地元で車の修理の出来る人なら一定の訓練さえ受ければ風車の管理もできます。昔のオランダ式の風車は風向きが変わると人が動かして風車の向きを変えてましたが、近代的な風車ではコンピュータにより自動的に風向きにかわるようになっています。嵐などが来て風が強すぎる時にもやはり、コンピュータにより停止します。


カルフォルニアのウィンドミル・ラッシュ
 デンマークでこれだけ風車が作れるようになった理由の一つはアメリカ、カルフォルニア州で1980年代はじめに始まったゴールドラッシュならぬウィンドミルラッシュにあります。それまで細々とした家内工業的だった風車産業が一気に量生産体制になったからです。カルフォルニア州でウィンドミルラッシュが起きた背景にはカルフォルニア州の人々が海岸線10kmごとに原発を建設するという当時の計画を望んでいなかったということにあります。もっと安全な発電の方法を探していたのです。カルフォルニア州は一大活断層地帯で地震が多く原発建設は大変危険な所です。これは日本でも同じです。


4 フォルケセンター

 ただの大工さんが
そうしたデンマークの風車発電は大企業でもなく、国の機関でもないただの民間研究機関にすぎないフォルケセンターにより設計され、地域の小中規模の企業により生産されているという事実は大変注目すべき事で重要なことです。
 戦後まもなくの1956年デンマーク最初の200kw風車発電・ゲッサー風車がつくられ、実用化をめざした各種の試験が行われますたが、その後、原発のほうが良さそうだとの国の意向で試験は打ち切られました。1970年初め、世界的な環境意識の高まりでデンマークの民衆は自分たちの国の風車発電の歴史に目覚めました。それを復活したのはクリスチャン・リセアーという大工さんでした。200kwという巨大なものでなく、個人の家の電気を賄うのに十分な大きさである20kwの風車を自分の裏庭に立てました。風車の規模は小さいですが、今までのデンマークが築いてきた風車発電の知識と技術は風車発電の専門家でもなく、電気技術者でもなく一介の大工にすぎない彼の風車に受け継がれていたのです。それまでの経験、高価で管理の難しいバッテリーをつかって蓄電するという方式では実用性がないこと、ありふれたモーターを発電機にして送電網と連結するだけで十分なことを彼は知っていました。

 最近行われたある調査では農業国デンマーク国民の科学的知識の水準は世界一だとありました。ちなみに技術立国日本はかなり下の方だったような気がします。新しい時代にふさわしい技術が生まれるとき、それに必要な知識が一部の専門家だけでなく、民衆のものとしてあることは大変大事な事ではないかと思います。
 リセアーの風車の評判を聞いた人々が彼から風車を購入しました。トニー・モラーもその一人でした。リセアーと彼の風車は風車発電開発の初期に大変大きな役割を演じたのですが、それだけで風車発電がデンマークで発達したわけではありません。皆が皆、彼のように一人で風車発電を手作り出来るわけではありません。本格的普及までには改良すべき点もたくさんありました。

 町工場が協力
 当時、実用出来る風車発電をめざし創意工夫を重ねている多くの人々がいました。フォルケセンターはそういう意欲のある民衆どうしの交流センターとしてありました。一般に大企業は多くの下請け工場から部品を安く調達して大量生産で一気につくってしまう方式をとります。フォルケセンターはあくまで民衆による手作りの延長として、従業員数人規模の地域の町工場がいくつか互いに協同してつくりあげる風車発電を目指しました。その結果、それぞれの地域と工場が風車づくりで潤えるようになることを。それは18世紀末、フォルケホイスコーレ教師として風車発電実用化に取り組み、デンマーク風車発電の元祖と言われるポール・ラクール以来の伝統にそうものでした。風車発電に取り組みたいと願う町工場はフォルケセンターに行けばそこで作られた風車発電の設計図を約2万円で購入できます。それをもとに風車発電をつくることが出来るのです。いわゆる特許料というのは無いのです。特許制度の善し悪しについていろいろな議論がありますが、民衆にとって本当に必要なものに関して特許制度はなじむのだろうかとの疑問があります。(エイズ患者が数百万いる南アメリカ連邦で使われるエイズ薬に関する特許料など)単に利益を度外視したと言うより、人類の生き残りに必要な技術に関して特許制度はなじまないという考えだと思います。

 完全に開かれたフォルケセンター
 フォルケセンターはいつでも誰にでも完全に開かれています。 誰にも開かれているというのは自然と人類の生存を考える極めてユニークな所だからです。ですからフォルケセンターはローカルかつグローバルな精神とアイディアに満ちています。しかも、ここフォルケセンターは単なる論議の場に留まらず、実際的、具体的な試みの実践の場でもあります。
 誰もが訪れることができ、どこの部屋でもどの機器装置でもデータ通信装置でも見学できます。秘密の施錠された部屋などありません。例外は危険性のある機械が設置されている部屋のみです。
  口で礼賛するだけなら簡単なことことでがそれは簡単なことではありませんす。お分かりと思いますが、理想主義とも見えるそこがフォルケセンターのもっとも強い長所であり、同時にもっとも弱い弱点でもあるのです。それはオルタナティヴ・エネルギー開発にたずさわる人たちにとってはもっとも良い環境です。一方、私物化しようと思えば資料や書籍、装置などをたやすく盗むことができます。
  
 世界中にどこにもない試みの場であるのでそれが理想的にいっていないと言って非難することは容易ですが大資本に集中しているお金をいかにしてこのような分散型プロジェクトに振り向けさせることができるか、それは所長のプレーベンの役目ですが それは極めて微妙、デリケートな問題であって、大変難しく多くの者が容易に理解できる仕事ではありません。

常に異なる利害とのバランスをとりながら存在し、強く干渉されることに敏感でなければなりません。政府が予算を凍結するか、あるいは活動成果としての刊行物を通常の企業のように利益のみを考えて、単なる商品として売買するならばフォルケセンターの存在は不可能になり、また意味もなくなります。 フォルケセンターに対するそうした批判的、否定的な外部からの強い攻撃に耐え、自らを守るための障壁が必要です。そのためにはそうした運営上の重要な原則に対して内部基準としてのボーダーラインを引く者も必要なのです。


5 まねのできないテクノロジー
日本に来てこの国がソフトで誰にも管理集中しないエネルギーを育てるには大きな困難があることに気づきました。日本語でテクニックもテクノロジーも同じく「技術」と訳されているようですが、実は全く異なる概念です。テクニックは民主主義下でも独裁主義下でも関係なく存在するものです。そのテクニックをどう使うのかがテクノロジーの問題です。つまり、テクノロジーはテクニックの政治的社会的次元の問題です。テクノロジーはつまり、法の問題になり、法が核社会を存続させるか人間の尊厳と調和の発展の可能性を保ちながら地球を存続させる社会を選ぶのかということになります。
 かつて日本は西欧の工業製品を量産技術で圧倒したみたいに今度もまた風車発電の技術が日本から盗まれるのでないかという懸念もじつはデンマークでも少しはあります。実際、日本企業もそれを狙っているのも事実です。フォルケセンターに留学生を日本から入れることを私は薦めていますが、日本の大企業から産業スパイが送り込まれるのでないか、フォルケセンターの補助金は国民の税金で賄われているのに、デンマーク人でなく外国人のためになることをするのは何事か、などの懸念ですが、私はそんなことはないと彼らを説得しています。デンマークの風車発電技術というテクノロジーは社会の民主主義と全く一体なものであって、民主主義を知らない日本の企業が上っ面だけまねて盗むことは出来ないであろう、もし彼らが盗めるものなら私はむしろ彼らのために祝いたいくらいです。ですから日本の企業や日本国家が民主化されない限り風車発電はそんなに簡単に盗めるものではありませんが、出来るものならどんどんまねして盗んでもらいたいと思います。

 平和利用の核なら良いのか
日本で未だ、核技術を核兵器として使うのは悪いが平和利用の原発は良い、という議論が生き残っているのを聞きいささか驚いております。今はさすがにそう言う議論は聞きませんが、かつてはある日本の左翼政党が社会主義下のソ連の核兵器はきれいなので賛成、資本主義下のアメリカの核は汚いから反対だと言っていたことがあるとも聞きました。原発も「正しい」人ないし「正しい」政党が「きちんと」管理すれば原発が安全に運転できるというものではなく、巨大で危険な原発という実体そのものが民主主義では許されないものです。一体人は核を使いこなせるのかという根本的な議論がなされ、核を使わないという選択があってしかるべきです。そのような議論を積み重ねを含めたものがテクノロジーです。

 不安と恐怖感
 変わりつつあるとは言え、ヨーロッパの人もアメリカの人も政府共々、原発なしには暮らせないと思いこんでいる人が多くいます。そう思い込んでいる人々にとっては原発なしには発展はおろか未来すら考えられないのです。原子力は暮らしや世界中の軍事用として欠かせないと思っています。このように彼らが考える理由の一つは別の道があることを理解できないのです。もう一つは彼らの内にある潜在的な不安と恐怖感に由来します。つまり、彼らはあまりに多くの資源を浪費しているのを知っており、それが地上の生命や環境を破壊しているのを知っているのです。そうした不安感を紛らわせるため核が最も有効な解決手段であると思い込んでいるのです。

 ドイツで80年代初期にこういう反核スローガンがありました。“中性子爆弾はテレビは壊さず、おばあちゃんを殺す”つまり核兵器は私たちの文化の源を完全に断ち切ります。社会の伝統を壊し生き物を危険にさらし、人を物質的なものが一番大事であるようにさせる。原爆は原発の延長にあります。それ故平和運動はもっともっとエネルギー政策に積極的に関わるべきだと思います。権力者にのみ都合の良い規則や煩雑な法などは平和なソフトエネルギーの創造に対する妨げです。

 デンマークを見れば明らかです。民衆と政府が共に原子力に反対したとき彼らは“原子力の平和利用”と“友好国であるNATO”の核搭載艦船入港を共に拒否しました。
 私はフランスが核実験で死の灰を太平洋にまき散らした事に対して大変遺憾に思っています。ドイツの一市民として、ドイツとドイツのエネルギーシステムがこれを支えていることを恥ずかしく思っています。

 市場原理と公共性
 原発はコストが安く風車は高いと長い間言われ続けました。しかしデンマークではそのように考える人はもういません。私はものの値段は基本的に市場原理で決めるのが一番うまくいくと思います。しかし、私はそのためには安全性、廃棄物の問題など捨象しないで情報公開され、政府は本当に公共の立場に立ち本当のエネルギーコストを考える事が求められます。


6 原発を進めるヒットラーの亡霊

 今でも生きているヒットラーの法律
 私はもともとエンジニア出身ですが、ヘッセン州首相が依頼したエネルギーボックス研究も結局うやむやなものになり、ノルドライン・ウェストファーレン州経済大臣だった兄が研究機関に命じたチェルノブイリ原発事故の研究も国が禁じる、などということが何故できるのか、どういう勢力が政府に圧力をかけるのかということを知りたくて戦前戦後のエネルギー関連法を片っ端から詳しく調べ研究しました。そしてその研究のなかで明らかになったことがありました。ドイツの6六法全書というのを洗ってみました。するとドイツの法律の条項のなかにちょこんと小さな星形の印がついているのを発見しました。そして印のついた法律は全てヒットラーにさかのぼることを発見しました。アドロフ・ヒットラーは永続戦争を続けるためエネルギーと水を支配する1941年に定めた法がありますが、それがなんとヒットラー亡き後数十年たった現在でもドイツの電力は今なお、ヒットラーが定めた法の下で、支配されていることが明らかになったのです。ドイツの巨大財閥は今なおその法をもとに動いていることが明らかになったのです。

永久戦争のために
 1941年7月29日と言うのは独ソ戦が開始された直後、ユダヤ人虐殺が始まった直後です。その日ヒットラーはエネルギー統制令というのを出しました。 その時にヒットラーは戦争遂行と国家計画は一体となって進めなければならないと考えました。国民を戦争に動員するためには国民にとって不可欠な水とエネルギーを国家統制下に置けとヒットラーは命令しました。そこで、水とエネルギーを統制する総監、ジェネラルインスペクター、なるものができたのです。総監と言えば役職名みたいに見えますが、法律上そう言うのが存在するだけで、実際の個人として存在するわけではないのです。つまり、それまでは実在した個人が責任をもって政策を遂行していたのが、特定の個人が責任をもつということではなくなったわけです。その結果、統制令が出てから国民の知らないうちに匿名集団によって事態が勝手に動いていくことになりました。 
 日本で言えば日本を戦争に導いた戦前の軍部の統帥権の独立みたいなものでしょうか、ヒットラーの第三帝国には2種類の大臣がいました。 「水とエネルギーの総監」は第三帝国と呼ばれるナチの大臣とプロイセンの大臣双方にまたがる権力を持っていました。ヒットラーのつくった法が政府ないし政府の機構を越えて存在することになるわけです。

 民衆は見破る
 ドイツは敗戦しましたがヒットラーのエネルギー統制令は戦後も残ってしまったのです。 その結果として1948年11月15日に電力会社が自分たちだけでエネルギー政策を決定するということがヒットラーの遺産として可能になりました。8大電力会社DVGをつくって電力会社が電力のことをまったく自分たちで決めることができると言う体制になったのです。 政府の統制をほとんど受けないに等しいことになったのです。
 エネルギー統制令のおかげで誰にも見られずに自分たち電力会社の人間が何でも勝手にやれるぞと言うわけですね。  でも、いつまでもそれを許していて良いわけがありません。いつかそれを見破った民衆によって張りぼてがストンと落ちて・・・。あ、バレちゃった!なんてことになると思いますが。

 原発推進の方程式
 広島長崎に米軍が落とした原子爆弾はアインシュタインの相対性理論によるE=MC2 という原理に基づいていますが、これに対して国家にとっての原子力とはヒットラーの遺産、「水とエネルギーの総監」の存在という原理に基づいているのです。彼らの体制は永久戦争の体制、永久の破壊と搾取の体制であり、ヒットラーがいなくなっても生き延びる。そういう体制であると思います。 私の推測では日本の九電力独占体制はドイツの体制をかなり真似して輸入したものであろうということです。 
  これがデンマークの風車がなぜドイツで根付かなかったかと言う理由です。ドイツに風車発電をオルタナティヴ・エネルギーとして持ち込もうとするとたちまち電力会社と衝突する。そのとき向こうはヒットラー時代の法を盾に取ってくるというわけです。
で すから差別や環境破壊、乱開発に反対する人々は風車発電を推進する事が必要があるのではないでしょうか!

 郷里の風車発電
 風車発電が巨大な電力会社を恐れさせているのは原発とは全く異なる精神から生まれたもので、風車発電はハイマート(Heimat:郷里、地域)と直結する発電を提案しているからです。風車発電や太陽光発電コストはどんどん下がってきてます。一方、他の化石燃料、や核燃料は有限なわけですので、いずれにしても将来的にあがることは間違いありません。

国益の問題
 核燃料に至っては使った後出る核のゴミの後始末のことを考えると、とてもコストを計算できる段階ではないので話になりません。 それでもなおかつ電力会社や国家が原発をやめようとしないのは実は電力需要とは別の理由があるからです。つまり、本当にあるのは国家の安全とか(国民の安全ではない)核で侵略支配したいという、一言で言えばナショナリズムとミリタリズムがあるからです。私はその問題を研究しているしこれからもしていきたいと思います。
 日本が原発を37基(現在52基)もつくっていると言うことはまさに自殺行為です。特に地震のことを考えると大変恐ろしいと思います。まして大事故でも起こったら日本はいっぺんに壊滅してしまうでしょう。まさに国益の問題ではないでしょうか!

参考:風力発電、それはMade in Denmark