歩くための足から知るための歩きへ
―私が徒歩旅行とカントリーウォークで目指したもの―
村人に話を聞く
カントリーウォーカー
山浦 正昭(東京都)

足るを知る

 私たちはどれだけ足を最大限に生かして生きているだろうか?
 京都の竜安寺には知足の「つくばい」があり、それには、まん中に口があり、上下左右に文字があり、「吾、唯、足、知」と読ませ、「吾、唯、足るを知る」となる。

 ”足るを知る”
 日本人の大切な精神構造の一つであった”足るを知る”ということを、多くの現代人が忘れてしまっているのではないだろうか。

 私は永年にわたって、乗物利用の観光旅行ではなく、足を生かした、それも、一般の旅行者が目を向けない辺境の地の農山村を、徒歩旅行することに力を注いできた。
 私にとっても歩くという行為は、移動の手段としてではなく、より知るための重要な方法だったからである。徒歩旅行という切り口から、今までと違った日本の姿が見えてきて、マスコミや既存の情報では伝わってこないもう一つの日本人の生き様を、見ることができたのである。

 ”知る権利”といういい方がある。
 私たちが毎日、テレビや新聞、インターネットにとり囲まれていて、まるで情報洪水の中にいるが、自分が本当に知りたい情報を確実に知ることはできていない。情報から伝えられてくることは、情報を流す側にとって都合のよい情報であって、受け手個人個人にとって本当に必要な情報は少ない。
 私にとって、自分が自分らしく生きていくための”知る権利”を行使するために、徒歩旅行を行なっているのだということができる。
 したがって、世の中を知るために、私はせっせと世界各地へと徒歩旅行に出かけることが、私にとって一番の情報源なのである。
 わが家には、テレビは置いてないし、新聞も購読していない。パソコンもなければ、携帯電話もない。あるのはラジオとFAX兼用の電話くらいである。
 もうこんな暮らしを結婚以来30年以上も続けているが、別に困った経験は一度もないばかりか、つまらぬ情報を知らないでいられるし、余計なことに気をつかわないでいられるから、時間のロスがなく、快適だ。
 
 足で集める情報源が貴重だ
 
 私にとって一番大切な情報は、私しか知らない情報であって、アクセスしさえすれば、家に居ながらにして簡単に知られるような情報ではない。
 私が知りたい情報は、自分から動いて情報を集めるようにしている。徒歩旅行という方法による情報収集は、私に貴重な情報を多く供給してくれている。それもそのはずである。大規模な徒歩旅行を、たんなるアウトドアスポーツやレクリエーションとしてではなく、知る権利としてやっている人が、ほとんどいないからである。
 私が徒歩旅行で選ぶルートは、可能な限りの範囲内で、車では行けないルートや、車がめったに行かないルートである。地元に住んでいる人でさえ、もはや車づけの暮らしのため、最近その道を通ったことがないので、その道がどうなっているかを知らない。

 山の奥深くに、地図上では数軒しかない集落がある。そんな集落を、実際に訪ねて、どんな人たちが、どんな暮らしをしているかを知るためには、実際その土地へでかけてみるしかない。たいていの場合、集落までの自動車はあるが、かつてあった集落と集落を結ぶ山道が、ほとんど利用されなくなって、廃道になっていることが多い。現地へ行ってその土地の人の話を聞くと、かつては通学のために通った山道や、畑へ行くための山道が、かろうじて残っていることがある。そんな山道を実際に歩きながら、今の学校教育のことや、福祉のことを考えると、果たして、今のような便利な方が本当によかったのかどうかを疑ってみたくなる。
 本来、行政がきめ細かい住民サービスを行なうとするならば、そんな山奥に暮らす人たちを、無理に町の方へ移住させることではなく、そんな人たちの暮らしや声を、もっと真剣に聞き、行政に生かすべきなのである。

 無関心でいるということは、間接的に加害者になる場合がある。「平和」「戦争」「環境」「安全」といった事柄についても、何らの問題の意識も、何らの問題解決へ向けての行動を起こさないでいられるのも、無関心が原因であることが多い。
 では、なぜ無関心でいられるのかと言えば、それは現場での生体験が、欠乏しているからではないだろうか。
 私の場合、現地へ行って、そこに住むお年寄りと出会って、直接話を聞いた方が、何十冊の本を読むことよりも、自分の問題としてとらえることができるのである。

 私が、今まで訪ねた旅先、出会った人たちの数は、かなりの数にのぼる。したがって、たまにラジオのニュースから、その土地の様子が伝わってくると、妙になつかしく感じられるから不思議である。ヨーロッパへもたびたび行くので、ヨーロッパでの出来ごとも気になる。特に、友人、知人の多いイギリスやドイツのこととなると、無関心ではいられなくなる。これも、たんなる名所めぐりや、ショッピングのツアーと違って、その土地の人たちの暮らしのフィールドを、自分の足で歩いて旅をしてきたからだろう。
 
 徒歩旅行からはじめる変革・改革の第一歩
 
 さて、ずいぶんだらだらと書いてきたが、そろそろまとめのことばとしたい。
 それは、”よく知ろうと思えば、よく歩かなくてはならないし、よりよい考えを知りたければ、よりよい歩き方をしなくてはならない”ということである。
 つまり、足を生かすということは、よりよい考えを見つけるための、すぐれたシステムであるというのが、私の永年にわたる活動の一つの結論なのである。
 今の世の中、なかなか変革や改革が進んでいないのはどうしてなのか。私流に言わしてもらえば、それは現場を足で知る努力が足りないからである。現場を知らなければ、よりよい変革のシステムは、生まれにくい。
 テーブルの上でいくらプランニングしてもいくら会議を重ねても、現場に対する深い思いやりが愛情が欠けるプランでは、なかなか思うような変革プランは実行できない。

 今はもうビデオしか見ることはできない山田洋次監督の映画『男はつらいよ』の主人公の寅さんの方が、おそらくその土地の暮らす人たちの心を、つかむことができるのだと思う。
 大切なのは、熱ったかいハートである。
 今の世の中、このハートが忘れさられている。

 私は、徒歩旅行やカントリーウォークで、このハートをどれだけたくさんの土地の人からいただいたであろうか。そのいただいたハートに、少しでも恩返ししたいと思っている。
 そのために私がしなくてはならないことは、もっと多くの人に、日本のすみずみまで生きている人たちの暮らしを、見届けるための徒歩旅行やカントリーウォークをしてもらえる環境を整えるために努力することである。

 観光旅行するための条件は整っていても、徒歩旅行をするための条件は整っていない。観光地の情報は本屋にありふれているが、山奥の小さな集落や、離島の集落の案内は、まったくといっていいほどない。
 スローライフやエコライフというかけ声がようやくかけられているが、実際に行動を移そうとした場合、どこから手をつければいいのか、迷ってしまうというのが実情である。
 
 価値観の転換は、いろんな現場で行われなくてはならない。教育の現場でも、福祉の現場でも、そして、行政のあらゆる現場で。
 そうした改革や変革の、第一歩を踏み出すために、もっと違った切り口で、現場にアプローチすることが重要な鍵となる。

 私は私なりにこれからも、大規模な徒歩旅行や、人の眼につかない奥地をカントリーウォークするという手段で、この自分の生まれた大好きな日本を、次世代の人たちにいい姿でバトンタッチできるよう、努力を重ねていきたいと思う。
 最後にもう一度”足るを知る”ということばの奥にある精神を深くかみしめながら、無の価値を追い求めていきたいと思っている。
 

参考:農村を歩いて、もっとエコロジーなくらしをめざそう!―カントリーウオークのおすすめ(山浦正昭)

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