国民の発展のための農業と教育
―グルントヴィとタゴールに関連して アルフレッド・アルン・クマール(Alfred Arun Kumar) |
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クマールさん(カフェスロー前)
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1、 インドとデンマークは、その大きさ、人口、地理的な環境、一人当たりの収入などいろいろな点で異なってはいるが、共通するものが一つある。それは両国とも基本的には農業国であるということだ。デンマークの場合は、前世紀から、貿易、建設、工業技術、電気工業、オルタナティブ・エネルギーなど、多様な産業に移行したとはいえ、農業と酪農への愛着は依然として残っている。タゴールとグルントヴィの教育と農業にかんする努力と革新から学び、国民およびインドの発展のためにわれわれはともに考え、ともに計画し、ともに働く場所に集っているのである。 私の乏しいデンマークの知識では、デンマークといえば、チーズとグルントヴィになる。グルントヴィについては私の父の友人だったデンマーク人から少し聞いたことがある。私はいつもグルントヴィの美しい詩「生きる国」で元気づけられたものだ。ここであなた方とこの詩を分かち合ってみよう。 私は基本的には農業科学者で、草の根レベルでのリーダーになるインドの貧しい小規模小作農たちの教育に従事している。実験室での研究から得たことを現場にもっていき、貧困を軽減する道を切り開こうと努力している。この論では、農民教育の分野で、国民の発達のための農業知識の増大という問題にかんして、われわれの誇り、ノーベル賞詩人のラビンドラナート・タゴールとデンマーク国民の誇りグルントヴィのなしたことをリンクさせ、そしてそれに今はディーム大学となったアラハバード農業研究所の業績をからめて語っていきたいと思う。 シャンティニケタン(タゴールの創設した私立大学。のちに国立化されてヴィシュバーバラティ国立大学となる)の創設の後、タゴールは「染料の村」を創設した。ヒンドゥー教徒、イスラム教徒そして未開の部族の人々は、悲惨な経済状況と社会条件の中で生きていた。彼は「染料の村」に来る人々が、自立するように手助けしたかったのである。タゴールのよき理解者であったレオナルド・エルムハーストは合衆国でタゴールと出会った。エルムハーストはイギリスのヨークシャー出身で、ケンブリッジ大学で歴史を学び、その後合衆国のコーネル大学で科学と農業経済学を学んでいた。彼はタゴールの招きでインドへ渡り、シャンティニケタンの農民たちを援助するようになった。彼もタゴールの仲間になり、その日は1921年11月28日であった。 それから三ヶ月ののち、1922年2月5日、農業を志すシャンティニケタンの学生10人とわずかな数のスタッフによって、「スーラルの村」がつくられ、詩人の農場の住まいがつくられた。トイレ、庭園、家、作業場が建設され、「地域改良研究所」とよばれた。その後、タゴールが「スリニケタン」という名を与えたが、これはサンスクリット語で「優美の家」という意味である。われわれのセンターも、同様の活動に従事しており、土壌学を学ぶために、ここに学生を送っている。 ガンジーと彼の仲間C・F・アンドリューがスーラルとスリニケタンを訪れ、そこで行われている地域改善の活動に大きく感銘したことを記しておこう。ガンジーのシクシャーサトラへの訪問は、彼の「基礎教育」の哲学、あるいは肉体的な仕事にもとづく教育の哲学を要請し、発展させるのに寄与したといわれている。タゴールがガンジーに対し、最初の文部大臣になることを自発的に申し出たのもここだったのである。 1921年、二人のアメリカ人、サム・ヒギンボトムとムーディ女史がエルムハーストと知り合うことになる。その時点で、サム・ヒギンボトムは「アラハバード農業研究所」を始めていた。エルムハーストは、「私はすぐにサム・ヒギンボトムに会いに、アラハバードへ行くことを決めた」と語っている。 この訪問によって、エルムハーストは、スリニケタンでの農業と地域振興の活動をどうしたらいいかという点で、大きな影響を受けた。スリニケタンの少年少女が、彼らの必要に応じてなされた、成長、想像、探求のための教育によっていったん目覚めたならば、村で主要な役割を果たすに違いないとタゴールは強調した。 アラハバード農業研究所=ディーム大学のノンフォーマル教育センターで働く一員としては、この研究所が、タゴールによってサンティニケタンあるいはヴィシュババラティの一部として始められたスリニケタンと関わり、その栄光の遺産を継いでいることを誇りに思う。 タゴールにとって、スリニケタンは、生きた実験室であり、そこでの実験は、国民の発展と自給自足社会のために指揮された。しかし、すべては自然との密接な結びつきを通してである。自然そのものは、最良の教員であり、学生の能力と観察力に応じて報酬を与えるものである。自然の中では、学生が失敗するときは教員も失敗する。生徒の失敗はもはや彼の生来の無能力のせいにするわけにはいかない、というのがタゴールの考えであった。 タゴールは以下の毎日の農業技術を家庭、社会、国家の発展にとって重要なものとして挙げている。 3, デンマークのエフタースクールもユニークなものの一つである。デンマーク社会には「義務教育」と「就学義務」のあいだには明確な区別がある。エフタースクールは義務教育を提供する。グルントヴィがアイディアを創案し、クリステン・コルが教育の実際にそれを応用した。それは生の啓発を与えるものだから、いかなる試験からも自由である。1851年にリュスリンゲに創設された最初の学校の特徴は、主に農民の若者たち向けだった。 デンマークのフリースクールはグルントヴィとコルの伝統の一部である。主な目的はフリースクール同士の友好と共同を促進し、就学義務の問題にかんして家庭での影響と教育の権利を守ることであった。これらの三つの学校の形態はみな、提供される教育にかんして、ウィンストン・チャーチルの次の言葉をよくあらわすものである。「私は学ぶ心づもりはあるが、教えられたくはない」。 いかなる国でも教育が改善の鍵になることはみなが知っている。デンマークは無学な民衆に教育を提供するという点では一つのモデルを与えている。インドでは、タゴールとガンジーが、グルントヴィのように、力強い役割を演じてきた。1923年の「デンマークとスリニケタンにおける成人教育」という名をもつ論文では、「タゴールとガンジーはグルントヴィの教育思想に影響を受けたが、彼ら自身の教育哲学によってそれを自己のものとしている」とある。 社会政治的環境と経済的な状況の変化、そして自由化、個人主義化、グローバリゼーションの時代の中で、文化の価値とライフスタイルは損ねられ、腐敗してきた。グルントヴィ主義者の理想である「生のための教育」のコンセプトはより必要で今の時代にふさわしいものになっている。 ここでサム・ヒギンボトムが創設したアラハバード農業研究所にふれるのは場違いではないだろう。これは現在はディーム大学となり、ロール博士が現在の学長で、牧野博士がノン・フォーマル継続教育学部の学部長である。牧野氏は有名な米栽培学者で、拡張教育の専門家でもある。彼らの長期的なビジョンのもとで、アタプラディッシュの農民たちに、小規模ながら農業革命をもたらすように試みてきた。 われわれアラハバード農業研究所ーディーム大学にいる者が、貧しい地方の農民たちを教育し、異なった地方からの民衆運動のリーダーたちを養成しているという点で、グルントヴィとコルの足跡を追っていることをうれしく思う。今までは、ホイスコーレの伝統も知らずに行っていたが、これからはその伝統を意識しつつ行うのである。ノン・フォーマルな拡張教育を行うことは、国民の形成と発展のプロセスにそれなりに関与していることになる。また、ノン・フォーマル継続教育学部は、自分たちで教育を行うというフリースクールの伝統の中で、活動をしていくわけである。 ジャダプア大学の成人継続教育部とアラハバード農業研究所ーディーム大学のノン・フォーマル継続教育学部は、グルントヴィとタゴールの思想をともに実践していくことで、西ベンガルとウタープラデシュそしてそれ以外のインドの農民たちに、スローではあるが確実な革命をもたらすことができると思う。それは新しい緑の革命であり、インドの貧困の緩和と発展のための活動なのである。 |
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