天正10年・『神流川の合戦』

天正10年(1582年)6月1日夜、2万の軍勢を引き連れた明智光秀は老の山峠に佇む。
右にいけば摂津、左へ道をとるならば京の都。今この闇夜を見つめる彼の胸に去来するものは何か。
そして、
「敵は、、、。」
この夜歴史は変わった!

「我が敵は、本能寺にあり!!」


えー、なんだか講談みたいになってしまいましたが。
ところで、唐突になぜ『本能寺の変』のことを話しだしたかといいますと、実は、この、織田信長が自害させられた『本能寺の変』こそが、上里町を戦火につつんだ神流川の合戦をひきおこしたのであります。いやあ、思いもかけないつながりに調べている本人も驚いております。

ではまず、この『本能寺の変』が起こったときの上里周辺の勢力図をみてみましょう。

<上州(群馬県)、武州(埼玉県)境の勢力図>

勢力図
縮尺が適当ですみません。(^^ゞ

一目瞭然、上里町は2つの勢力のぶつかりあう最前線に位置しているのです。(今はの〜んびりとしていますが、当時の領民たちの精神的不安はたまったものではなかったでしょう) 『神流川の合戦』はこの二つの勢力がぶつかりあった合戦でした。 上里町は後北条氏の支配下にありました。

なぜこの二つがぶつかることになったのか、それぞれの勢力の将についてちょっと説明しておきましょう。ご存知の方はすっとばしてください。

●上州勢:滝川一益(厩橋城主・織田信長家臣)

滝川一益像羽柴秀吉、前田利家、柴田勝家らと並ぶ、織田家重臣の一人。「攻めるに一益、退く(撤退のしんがりをつとめる)に一益」といわれ、鉄砲の名手でもありすぐれた戦術家であった。信長の天下支配の為に数々の手柄をあげた。しかし同時に茶の湯をこよなく愛する文人でもあった。


  
1582(天正10)年
月中旬 … 武田勝頼、自害。武田氏滅亡
月下旬 … 滝川一益、武田氏を滅ぼした際の功績を評価され、信長より、馬脇差しをたまわり、
       上州、信濃への赴任を命ぜられる。一益58歳。
月上旬 … 一益、厩橋城(現前橋市)に入城。
月上旬 … 信長の訃報を聞く。

なんてめまぐるしい、、、。

もっとも、一益はこの上州赴任をあまりよろこんでいなかったようで(そりゃそうだろう。)
「ちぇー、今度の武田甲州責めでの手柄でさ、信長様の秘蔵の茶器『珠光小茄子』がもらえるとおもったのになあ。馬とか脇差しもらってもなあ、、。おまけに上州信濃のな〜んにもない山へいけってか? あ〜あ、もうお茶なんかやる気なくなっちゃったよー。」とぶつぶついっていたようではある。(超訳)

       

●小田原勢:北条氏邦(鉢形城城主)氏直(北条氏5代目)

織田信長と同盟を結ぶ関係ではあったが、関東の覇権をにぎろうという政治的画策を絶えずしていた。(従って形の上では滝川一益とは味方どうしではあった。が、滝川一益(織田方)にとって北条は油断のならない相手であったろう)

系図は次の通り。

後北条氏系図

この北条氏邦の居城、鉢形城は近年発掘がすすみ、注目すべきいろいろなものがみつかっているようだ。

戦国時代の石垣を確認

 寄居町の国指定史跡「鉢形城跡」で、荒川の河原石を土塁にはめ込んで補強した戦国時代の石垣が確認された。同町教委は「戦国時代に東国独自の石積みの技法が存在していたことが確認され、城郭史にとって貴重な発見」と評価している。

 土塁は、築き上げた防御用の堤。三の丸土塁(全長約100m、高さ約3.5m)で、部分発掘の結果、長さ約40mの石垣を確認した。1段の石積みの高さは最高90センチで、三段積みと推定される。石材は荒川と、支流の深沢川の河原石。石垣は土塁の内側に積まれてあり、崩落防止のためらしい。

 このうち、段差を低くして段数を増やしだ部分は雁木<がんぎ>といい、多数の武者が一斉に土塁に駆け上がるため作られた。

 15、16世紀の関東戦国期の城郭で、土塁の石積みは、八王子城(東京都)などで山の切り石を利用した規模の大きなものがあるが、河原石を使った40mもの石積みは、関東初という。

 一方、北側の曲輪は、馬出し(城の守りや反撃のため城門外側に築いた区域)と推定され、ここでも内側に石積みが発掘された。角型の馬出しは後北条氏系城郭の特徴で、保存状態が良い角馬出しの全面調査は珍しいという。

 同教委は「技術は西国に劣るが、東国にも独自の積み方が確認された。本丸、二の丸から石垣が出る可能性が高い」と説明している。

(1999年1月23日付け新聞記事抜粋)

さああて、この二つの勢力がお互い様子をうかがっている時に『本能寺の変』は起こったのである。今、絶対のカリスマがいなくなった!!!


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