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<<神流川の合戦、始まる>>

滝川一益は思った。 「おのれっ! 光秀め。急ぎ上洛して主君の仇をうつべしっ!」
北条はほくそ笑んだ。 「しめしめ、うるせえ奴がいなくなった。このスキに上州もわがものにっ!」

滝川一益はさらに考えた。「上洛するにしても、ここからでは時間がかかりすぎる。優秀な群臣が京都のすぐそばにいる。だれかがすぐにかけつけてかたきをうつだろう。それより、この事件を聞いて北条氏直が上州に押し寄せてくるにちがいない。上州の安寧のために、ここで北条をうちやぶるのが私のすべきことであろう。」

そして滝川一益は、上州衆に信長の死を告げ、人質を返し、結束を確認した上で、北条氏直・氏邦に宣戦布告ともとれる使いを送った。
「私はいまから主君のかたきをうちに上洛する。ついてはこの厩橋城が空くので、要るようなら自分でさっさととりにこいっ!」(超訳)

で、北条氏邦は小田原からの援軍もまたず、鉢形城から“さっさと取りに”出向いたのである。
時は信長が自害して16日目の早朝、一益が赴任してわずか3ヶ月足らずの出来事だった。

天正10年6月18日

上里町の金窪城上里町の地図まる2) ここは北条氏、武州側の前線基地。


今はその名残りをわずかにとどめるのみであるが。

滝川一益の挑発をうけて、のうのうとやってきた北条氏邦。

小田原から出陣した北条氏直の軍勢は熊谷あたり(上里から約30〜40km程のところ)にやっと到達していた。

北条氏邦が金窪城についた時には上州軍は、未明から軍をうごかし、すでに北条氏の上州側前線基地『霞(今井)城』をおとし、北条氏邦の軍勢が手薄なのをみさだめて一気に金窪城を攻めた。このときの戦火によって、金窪城をはじめ神流川周辺はすっかり焼きつくされたという。北条氏邦は敗退を余儀無くされた。

1日目=滝川一益の勝ち!


唯一戦火に焼け残ったとされる大光寺の旧山門


合戦の時のヤジリや、鉄砲の玉のあとが残っている(といわれている)

天正10年6月19日


合戦場跡に立てられた石碑

北条氏直の軍勢が合流して、北条氏邦は軍をたてなおす。

再び金窪へ。北条の大軍を目にした上州軍はすっかり戦闘意欲をなくし(戦場をはなれ自分の城に帰ってしまったという)、また北条氏の伏兵の襲撃をうけ、半時もたたぬうちに2000もの死傷者をだして完全に敗北してしまった。

このあと滝川一益は、残党をあつめて箕輪城にて酒宴をし、そのまま伊勢の国(自分の領地)へと落ちていったという。

2日目=北条氏の圧勝、のち、上州は北条氏と真田氏との支配下となる。

神流川をはさんでの戦いは2日間で終了した。

ちょっと不思議に思う。

戦術戦略に長けた、滝川一益ほどの人物がどうして多勢に無勢、結束もそれほどかたくない上州勢を率いて

無謀ともいえるこの戦いをおこなったんだろう。北条にあっさり明け渡すこともできたのに。

「せっかく自分が治めかけた上州の安泰のみを考えた結果だ」

とか

「織田信長を失ってしまった一益の最後の御奉公か?」

とか

今の神流川の流れを目の前にしながら、いにしえ人の思いを推し量ってみるのはとても面白い。


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