武田信玄ゆかり“陽雲寺の不思議”


旧中山道に面する石柱


陽雲寺本堂

陽雲寺<よううんじ> 
埼玉県児玉郡上里町金久保(地図まる1)

大正時代に書かれた陽雲寺の寺記『崇栄山寺記』には以下のように記されている。(超要約)

武田信玄の正室は京都三条家から嫁いできた「秀姫」という名で、信玄の死後、仏門に入り、転法輪三条陽雲院といった。(=三条夫人)
 信玄の弟、武田信実が長篠の戦いで戦死した後、息子の信俊がまだ幼かったので、この三条夫人が養育して川窪城主にした。

天正10年(1582)武田氏が滅亡した時、信俊の養母である三条夫人は一時山間に隠とんした。(織田信長の粛清がきびしかったためと思われる)

このとき信俊19歳。しかし武田という名門が滅びたのを惜しんだ徳川家康に見い出され、めしかかえられた。それからの信俊の軍功はめざましく、家康が関東に入ったあと、天正19年に金窪城主地図まる2)になり2000石の領地をあたえられた。

このため養母の三条夫人もまもなくこの金窪(金久保)にやってきて、焼失していた崇栄寺あとに庵をつくって住んだという。信俊は武田・三条両家の菩提を弔うために、この崇栄寺あとに三条夫人の法号陽雲院の名をとり『陽雲寺』を建てた。

三条夫人は元和4年(1618)この陽雲寺で97歳の長寿を全うした。そのお墓は現在上里町指定文化財となっている。


柵の中に見えるのが三条夫人のお墓

私はこのお寺の由来を知って、単純に感動した。
「おお! この辺はものすごく由緒あるところなんじゃないの! すごい! 歴史の大物がこんなところで登場するなんて。 この辺は信玄の甥が治めたところなんだねえ。」
「信玄の正室三条夫人っていじわる、わがまま、おたかい、というイメージがあったけど、戦の遺児を育てるなんて存外やさしいところがあったんだね。実際はひどい人じゃなかったのかもしれないね。」
「それにしても97歳なんて長生きしたんだなあ。ここでしあわせだったんだね、きっと。」

ところが、だ!


目次へ戻る