ところが!
今年の夏、息子が「武田信玄を調べるんだ!」といいだしたため、
それにつきあって甲府やら長野やらいったりしているうちに妙なことが判明したのである。

  

よそでは 

我が町では 

<私の考え>







山梨県甲府市の円光院というところにあった。

埼玉県児玉郡上里町金久保の陽雲寺にある。

お墓は分骨ということが考えられる。埼玉で亡くなったとしても、やっぱり夫のそばで眠りたいよねえ。







「円光院」という寺号は、三条夫人の法号に因んでいる。

死んだとき→『円光院殿梅岑宋*大禅定尼』

「陽雲寺」という寺号は、三条夫人の法号に因んでいる。

出家した時→『転法輪三条陽雲院』
死んだとき→『陽雲寺殿瑞昌芳秀大姉』
偉い人は法号を二つもらえるのか??







三条夫人は、信玄に先立つこと3年、1570年7月、50歳で甲府にて病死。

信玄を喪主とし、恵林寺の快川国師を中心にせいだいな葬儀がおこなわれたという記録が残っている。

三条夫人は、元和4年(1618)9月、97歳でこの陽雲寺にて死亡。

境内の槐樹のもとに葬られた。のちに三条夫人が使っていた屋敷を伽藍とすれば寺が長く栄えるといわれたので、なくなったあとすぐに本堂とした。

なななな、なにいい?長篠の戦いは、信玄が死んで2年もあとにおきたんだぞお。信玄よりも早く死んだのなら三条夫人が長篠の戦いの遺児を養育できるわけないじゃない!






京都、三条公頼のむすめ。

天文5年、信玄に嫁す。信玄と同じ16歳。

京都、三条公頼のむすめ。名は「秀姫」

天文5年、信玄に嫁す。嫡子義信を生む。

信玄の夫人にもうひとり京都三条家から嫁にきた人がいたんじゃないかと思ったんだけど、、。

ううううむ。


実は死んだと思われていた三条夫人は、実は生きていて、甲府から埼玉に移り、そこで生涯を終えた、、、って、ジンギスカンになった義経じゃあるまいし、三条夫人はそこまでのヒロインじゃないぞ。 いったいわが町の陽雲寺はなに? 不思議だ。

きっと長い歴史の中の混乱で、誰かと誰かを取り違えるようなことが起きてしまったのではないだろうか。
父信実の死後、艱難辛苦を共にし、家康に認められたことを誰よりも喜び、そして97歳まで、信俊のもとで幸せに長生きできる人物、ちょっと家系図をみてみると、なんとなくそれがだれなのか判るような気がする。

上里町町長様(教育委員会かな?)&陽雲寺の御住職様、歴史の事実は曲げられません。ぜひ今後の上里町のためにも見直しをしたほうがいいように思いますし、むしろ陽雲寺が三条夫人の菩提寺ではないほうが、よっぽど感動の物語があるような気がしますが。


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