白糸の滝・鬼押出し・鳥居峠・小布施・長野恵比寿講花火

2018年11月23日、歩く会の有志4名は長野恵比寿講の花火見物にでかけた。幼少の頃の記憶を再確認するためである。知らないことも多々あり、記憶も リフレッシュでき、新しい発展を確認できました。郷里は少しずつだが繁栄とはいえないまでも着実によくなっていると感じた。そこに賢さも感じて嬉しく思っ た。


白糸の滝

東京駅7:52分発 はくたか553号で軽井沢に向かう。軽井沢駅前のトヨタレンタカーで4名乗りをゲット。早速白糸の滝に向かう。周りの林は早くも冬支 度。白糸の滝は今回は3回目だ。

白糸の滝は浅間山の噴火で水を透さない溶岩層が広がった上に透水性の火山灰が降り積もってできたものと見えた。浅間高原に降った雨水が地下水に なって火山灰層を流れ、滝で涌出しているのだろう水は西側の浅間山から東に向かて流れこの段差で噴出している。浅間山の東側の斜面は集水面となっているか ら水は年中涸れることがない。



白糸の滝 2013年8月18日撮影


鬼押出し

白糸の滝からは峰の茶屋経由で鬼押出しハイウェーを下った。鬼押出しは今回は2回目だが、園内を散策するのは初めてだ。鬼押出しは1783 年の天明の噴火の溶岩流が達した先端だという。この溶岩のなかに東叡山寛永寺別院浅間山観音堂がある。我々は裏参道を見晴らし台まで登り、表参道 を下った。



鬼押出しにて

素晴らしい天気で見晴らし台からは浅間山、黒斑山、鳥居峠、四阿山、本白根山、浅間隠山が360°展開しているのが見晴らせた。鳥居峠の向うの雲の陰に北 アルプスが見えるはず。



左の鞍部は鳥居峠(1,362m) その手前の小山は糟塚山(1352m) 右手 は四阿山(2354m)

鬼押出しを万座川までくだった群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原(もとの鎌原村)にある観音菩薩を祀る礼堂がそれである。1783年(天明3年)7月8日(旧暦)、火口より北側約 12Kmにある鎌原村は、浅間山の大噴火(いわゆる天明大噴火)による土石流は(長らく火砕流とされてきたが、発掘による出土品などには焼け焦げた跡が無い ことから、大規模な岩屑なだれであったことがわかっている。

村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ、発掘による出土品や当時の様子、絵図などが観音堂に隣接した嬬恋郷土資料館に展示してある。

大噴火によって甚大な被害を受けて不安な日々を過ごす住民は、江戸の東叡山寛永寺に救済を求めた。前年に東叡山寛永寺護国院の住職から、信州善光寺別当大 勧進貫主に就任した等順が被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走、被災者一人につき白米5合と銭50文を3000人に施し、念仏供養を30日間施 行した。この土砂流は群馬まで溺死体を流している。


鳥居峠

鳥居峠は中央分水嶺で群馬側に降った雨は太平洋に流れ、長野側に降った雨は日本海に流れる。鳥居峠は懸念された降雪もなく、いつ峠を通過し たかもわからずに越した。

菅平口で右折し、大笹街道に入り、再び急坂を登る。菅平牧場の上部はうっすらと雪が積もっていた。大笹街道を仁礼(に れい)に 向かって下るコースは初体験。大笹街道と谷街道が交差するところに須坂の街がある。谷底に下るまで急な山腹の空中にかかった橋のヘアピンカーブを下る。仁 礼なる地名は幼少期祖母が口にしたので耳に残っていた地名だ。父に連れられて米子瀑布に出向いたときにもここを通過したはず。ここにある仙仁(せに)温泉は秘湯の宿では最高級の部類で1年前の予約が必要と言う。 ここの名物は洞窟風呂である。いちばん奥まったところに大浴場があり、その奥が自然の洞窟風呂なのである。いつか訪ねてみよう。


田中本家博物館

臥竜山を見ながら須坂藩主堀氏の館町だった須坂の坂を下ってゆくと田中本家博物館があったので、そこに立ち寄る。須坂田中本家」は、江戸の中期に初代新八(し んぱち)が 農業のかたわら、穀物や菜種油、煙草、綿、酒造業などの商いを開始。やがて須坂藩の御用達となり、名字帯刀が許された大地主へと成長した。3代のころには 須坂藩筆頭御用達となり、藩の財政にも大きく貢献。その財力は須坂藩をも上回るといわれるほどになった。北信濃でも屈指の豪商となった田中本家は、住居と してはもちろん、来客をもてなすための屋敷づくりにも熱心に取り組み、京都より庭師を招き、池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の 庭園をつくった。須坂の殿様はこれを好まれ、殿様の住まいの須坂陣屋から500mにある専用の裏口を通ってたびたび遊びにきたという。この庭は現在も維持されて初冬の風情を保っていた。その他、土 蔵に大切に保存されていたひな壇や生活道具一式が展示されている。



田中本家 池泉回遊式日本庭園


堀直虎時代、須坂藩財政は44,187両の赤字、そのまま明治を迎えた。幕末の現在の価値にして、40億〜50億位であった。すべて田中、小田切など須坂 の豪商が 肩代わりした。田中本家は仙台藩伊達家への大名貸もしていた。須坂から八王子までの『シルクロード』整備もして絹の輸出で金を稼いだ。



小布施

須坂から谷街道を北に向かうとやがて小布施の街に入る。小布施の街は折からの連休で大変にぎわっていた。ようやく駐車場を見つけ、竹風堂で昼食を取ろうとしたが、待時間が長そうなので、桜井甘精 堂にし、待ち時間に北斎館で北斎のコレクションを観る。北斎は小布施を好んで長期滞在し作品を沢山残した。昭和40年代(1965〜75)、小布施の人 々は地元に残る北斎の作品の流失を防ぎ、また北斎が天井画を描いたこの町の祭り屋台の保管にも万全を期し、さらには小布施が北斎研究の拠点となるようにさ まざまな願いを込めて開館したのが、北斎館という。北斎館は初めてであったが、かなりの量の収集量であった。

桜 井甘精堂の「おこわ」はおいしくいただいた。本堂の大間に北斎が描いた天井絵を観るため、車にもどり岩松院に向かう。岩松院は曹洞宗の寺で東山の麓に抱かれた心地良 いところにある。ここは2回目であった。岩松院には意外なことに豊臣秀吉の親類で賤ヶ岳の七本槍、反石田三成であった代表的な猛将の福島正則のお墓があ る。なぜ信州小布施岩松院にある のか?関ヶ原では家康に加勢したにもかかわらず、大坂落城後に、広島城の無断改修に言いがかりをつけて、信州川中島に移封させられる。幕府にとってはとに かくつぶしたかったからに過ぎない。そして、信州に来て 5年後の寛永元年(1624年)7月13日に、悲運の名将として死去。岩松院霊廟に葬られたというわけ。

道の駅おぶせで赤ワインを購入して長野でレンタカーを返却し、「ホテル・東横イン」にチェックイン。歩いてえびす講会場に向かう。


長野恵比寿講花火

私が長野を出る高校生のころはえびす講の花火は善光寺のある城山で打ち上げられていたと記憶している。しかしいまでは犀川の河原に変わって いた。内容は長岡の花火と匹敵するのではないかと思える豪華な内容に進化していた。音楽と同期した華麗な演出でIT時代をほうふつさせていた。この豪華な花火の饗宴をたっぷり2時間堪能して宿に帰る。



長野恵比寿講の花火


ホテルロビーで用意した寿司と赤ワインで夕食。

翌日は当初「旧碓氷峠アプト式鉄道遺跡ハイキングコース」を楽しむ予定であったが、参加者不足と、熊がでるかもしれないという危惧で中止し、雑用をこなして帰宅。

参加者:小粥、榎本、安井、青木

November 28, 2018

April 17, 2022


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