玉縄城跡

玉縄首塚、七曲坂、陣屋坂、ふわん坂

七里浜から国道1号線に出る近道は県立フラワーセンター前を通る。この 道沿いに竜宝寺という寺があり、近くには玉縄城址があることも 知っていた。しかし栄光学園や清泉女子学院高校があって公開されていないため、いまだ城址を訪れたことはない。

最近、小田原 城を訪れたのち、時間ができたので調べてみた。

玉縄城は1513年、北条早雲(伊勢盛時)により築かれた。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点と なったとある。上杉謙信・武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどの堅固な城であったという。豊臣秀吉による1590年の小田原征伐においては、徳川家康の攻撃を受け、守将北条 氏勝は降伏・開城。以降徳川氏の支配下になったという。家康の参謀として知られる本多正信(真田信之の妻小松姫の父本多忠勝は別系)の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となった。

時は流れて、戦後の高度成長期に地元の反対もなく、清泉女学院中学高等学校が城址を買収した。そしてキャンパスを造成したとき、その多くを破却した。城 の最高地点には北条氏の諏訪神社があったため「諏訪壇」と呼ばれているが、清泉女学院中学高等学校はここを公開していない。唯一当時のままの雰囲気が残っ ているのは竜宝寺から路地を入り、鎌倉みどり保育園から大手門跡に至る「七曲坂」と「陣屋坂」、「ふわん坂」ばかりという。ただしここを登っても大手門跡 はフェンスで閉じられ、「諏訪壇」は難攻不落という。

2016/1/31に玉縄城探索にでかけた。モノレールの富士見町駅下車。東海道線の踏切と戸部橋で柏尾川をわたって玉縄首塚に向かう。1526年、安房の里 見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となった。この戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。 氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は、里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったと伝 えられている。



玉縄首塚


近道のトンネルを通って竜宝寺に向かう。途中王泉寺と国道1号線に出る近道のトンネルを通る。竜宝寺は大きな本堂を持つ。玉縄民族資料館で玉縄城の模型を みてから七曲坂にとりかかる。未舗装の山道を期待してきらが鎌倉市は突然観光資源に目覚めたのか、業者をいれて階段を整備していた。なにをいまさらと興ざ め。



七曲坂

登り切ると、そこは住宅地で左手に太鼓楼址があった。説明板があり、城の復元図があった。



玉縄城の復元図 右手が南側

平成5年(1993)鎌倉市教育委員会発行の「かまくら子ども風土記(中)に破壊される前の玉縄城の航空写真が掲載されており、「まちへ、森へ」というサイトに転載されている。ここに画像への直リンクさせていただいた。



破壊される前の玉縄城の航空写真

かの悪名高い、難攻不落の「諏訪壇」は住宅の隙間から望まれるが、清泉女学院中学高等学校の石垣とフェンスで守られている。多分ここは破壊されずに原型をとどめているところだろう。



諏訪壇

大手門址はいまでは閉鎖されて一切の出入り口はない。そのまままっすぐ西に向かうと三叉路があり、そこに「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が居 た。この三叉路が鎌倉植木ヒルステージに下る「陣屋坂」への分岐点だ。更に道なりに西に向かうと「ふわん坂」への三叉路がある。この急坂を下って城の南側にある大型ショッピングセンター まで歩き、バスで遊行寺経由、藤沢駅北口に移動し、江ノ電で帰宅。



ふわん坂

清泉女学院校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部と言われているというが、今回は歩いてはそこに到達できなかった。諏訪壇にあった諏訪神社は城が放棄されたのち、村人によって竜宝寺の北側に移設された。

地図を見ると玉縄城と今の諏訪神社のある丘陵の下をトンネルがつけられている。この丘陵地形はすぐ西にある遊行寺、芙蓉カントリー倶楽部、湘南カントリークラブ、スリーハンド レッドクラブ丘陵に続いている。

February 1, 2016

Rev. July 16, 2018


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