円覚寺

円覚寺は蒙古軍の来襲を撃退した時の第8代執権 北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の渡来僧、無学祖元(仏光国師)を招いて創建した臨済宗の寺である。開祖・無学祖元の唱える明確な『怨親平等』論により、死者たちは安らかに国境を越えて眠っている。

鎌倉五山第二位とされる。おもえば南海貿易を傘下におさめたいクビライが南宋を攻めて滅ぼしたわけであるから、南宋の地から渡来した無学祖元がクビライに抵抗することをすすめたことは想像に難くない。

鎌倉五山はいずれも裏に山、前に升形(ますがた)、池と橋、五段階の階段 状地形という組み合わせの典型的山城の構造をもっている。これはこれはもともと中国の地で寺は城郭の役目を持っていたことの影響が日本にも及んだことのよ うだ。敵が来たときはこの橋を落として篭城することが出来たのだ。円覚寺前にいまでも残る白鷺池がそれである。JR横須賀線の線路は池と山門の間に敷設さ れてしまった。従って北鎌倉駅は円覚寺境内にあることになる。北鎌倉駅の感じのよさはここに起因していることがわかる。

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円覚寺山門

円覚寺で歴史的に意味のある建物は第9代執権北条貞時により1285年に創建された国宝の舎利殿、1301年に貞時に寄進された国宝の洪鐘(おおがね)、1783年再建の山門だけであろう。お金のある寺なので建物は沢山あるがすべて近年のものだ。

舎利殿などは正月三が日を除き近寄ることもできない。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きである。元から円覚寺にあったものではなく、鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したもので、15世紀(室町時代中期)の建築と推定されている。

金閣寺も銀閣寺もこの舎利殿を祖型としているという。金閣寺は同じ臨済宗の禅寺で1397 年将軍職を辞し太政大臣になった足利義満が造営した。3層の桜閣で、初層が藤原期の寝殿造、第2層が鎌倉期の武家造、第3層が唐様式仏間で各時代の様式を 独創的に折衷させている。銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政で祖父である足利義満が建てた金閣寺を参考に造営した。銀閣(観音殿)は2層構 造で初層は「心空殿」といわれる住宅風様式を取っている。上層は「潮音閣」といわれる禅宗様(唐様)の仏堂である。

仏殿には本尊、宝冠釈迦如来像、梵天・帝釈天像を安置。境内奥にある仏日庵(ぶつにちあん)は開基北条時宗を祀る塔頭寺院でここに十一面観音が安置されている。鎌倉三十三観音霊場第33番でここで結願となる。

弓道は立禅(りつぜん)の一つといわれるくらい禅とは縁が深い。円覚寺の門を入ってすぐ左にある『桂昌庵』は閻魔堂と も呼ばれエンマ様が祭られている。弓道場にもなっている。この弓道場にはオイゲン・ヘリゲルが使った弓が遺品として残されているとの事。ヘリゲルは 1924〜29年まで東北帝国大学の講師を務めたドイツの哲学者であり、『弓と禅』などの著者を残している弓道家でもある。わが高校の同期生の才口元判事は毎週この道場に通っているという。 四元義隆氏が揮毫した扁額もここに寄贈したという。

円覚寺はJR北鎌倉駅すぐ近くで東京方面からの日帰り観光地として人気がある。しかし七里ヶ浜からのアクセスは不便で七 里ヶ浜に住んでから25年になるが、1回位しか訪れていないのではないかと思う。鎌倉キリシタンの殉教を知って、東慶寺と光照寺を訪れたついでに立ち寄っ た。

円覚寺は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。

黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡

January 29, 2004

Rev. January 7, 2011


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