妙本寺

妙本寺のある谷戸は、比企ヶ谷と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員(よしかず)ら比企一族の屋敷があったという。1203年、「比企の乱」で比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地である。比企能員の末子の比企大学三郎能本(よしもと)が比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まりという。日朗を開山として1260年に創建された日蓮宗の寺院である。

二天門から祖師堂をのぞむ 2008/1/20撮影

比企尼(ひきのあま)は頼朝の乳母で頼朝が伊豆に流されていた時も、武蔵国比企郡(現埼玉県東松山市とこれを囲む7町)の代官となった夫の掃部允と共に京から領地へ下り、1180年の秋まで20年間頼朝に仕送りをしている。比企尼は男の子がなかったので甥を養子にとって比企能員とした。能員は頼朝の信任を得て、1180年以後御家人となった。源平合戦から奥州征伐まで数多くの功績があり、後に能員の妻は源頼家の乳母となり、その娘、若狭局(わかさのつぼね)は第2代将軍頼家の妻となり、頼家の子、一幡(いちまん)を生むなど、源氏とかなり深い関係を持つようになった。

このため、源頼朝の妻、北条政子の実家である北条氏は、次第に勢力を増す比企氏を危険視し、頼朝の死後は、いっそうその対立は顕著なものとなった。1203年に頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を将軍にしようとする北条氏と、若狭局が生んだ一幡を将軍にしようとする比企氏の間で争いが起きた。能員は頼家と北条氏討伐を謀るが、察知され、釈迦堂切通の上にあった北条時政南邸で殺害されてしまう。比企一族は、能員殺害後、比企ヶ谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが、敗れ、屋敷に火を放って自害した(小御所合戦、比企の乱、比企能員の変)。若狭局はそのときここには居なかったが後に蛇苦止の井に入水(じゅすい)して自害し、一幡は戦火で焼け死んだ。6歳であったという。

能員の末子、能本は比企の乱が起きた時は2歳であった。生き残って京都へ行き、順徳天皇に仕えた。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の子)が4代将軍九条頼経(よりつね)の妻になったことから許されて鎌倉に帰った。1234年に竹の御所は出産時に死去し、頼朝の血はここで途絶えた。その菩提を弔うために能本が法華堂を比企ヶ谷に建てたのが、妙本寺の前身である。能本は鎌倉で布教していた日蓮に帰依していたため、この法華堂は日蓮宗となり、以後日蓮宗の重要な本山となった。このため、この寺の住職は1947年まで東京・池上本門寺の住職を兼任していた。

能員の妹は丹後局と呼ばれ頼朝の側室となり、島津忠公を生み、後の島津家の祖となる。

グリーンウッド夫妻は2008年1月20日、妙本寺を訪れた。鎌倉に引っ越してから一度訪れただけである。奥深く立派なお寺であったと記憶していたが本堂と思っていたのは祖師堂であった。 2008年2月13日にノースウェスト・アース・フォーラムが計画している古寺巡礼の予備調査のために再訪したのである。

総門をくぐって参道に入ると右手に古風な比企谷幼稚園がある。長い参道の左手「妙本寺方丈」と表札のある門をくぐり石段を上がった方丈の隣に本堂がある。「妙本寺方丈」と表札のある門手前の路を左奥に向かって歩 き、階段を上がると蛇苦止堂(じゃくしどう)(蛇苦止明神)に行き着く。その右脇には屋根のかかった蛇形の井戸がある。

蛇形の井戸 2008/1/26撮影

いずこにも曲がらず参道を真っ直ぐゆくと二天門があり、その奥に堂々たる祖師堂がある。祖師堂には開祖の日蓮聖人の像があるだけである。祖師堂には入れない。女性をめぐって喧嘩していた中原中也と小林秀雄は祖師堂前の海棠(かいどう)の下で和解したと伝えられている。

祖師堂右手に「一幡の袖塚」というのがある。比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという頼家の子、一幡の袖をまつっている。一幡の袖塚の左奥には比企一族の墓がある。

祖師堂左手にはかって「竹御所」の法華堂があったというが今はない。祖師堂左手奥に行くと小道はやがて祇園山ハイキングコースに出る。

鎌倉地図

January 12, 2008

Rev. March 19, 2008


トップページへ