新宿御苑・絵画館・明治神宮・原宿・表参道


新宿御苑

2013年7月25日、青山で午後6時から開催されるSEFサロンに出席のため、新宿にでかけた。講演テーマが日米安保のため閣僚の靖国参拝が刺のように刺さった痛みをどう解決するか、個人的な思索のために(無論健康維持目的でもある)小雨のなか、新宿御苑から絵画館、明治神宮、原宿を散策した。

新宿で新南口改札口から出るのは初めてであった。高島屋側にでて、バーガーで腹ごしらえし、甲州街道を御苑に向う。新宿門 をパスしてまっすぐ四谷大木戸に向かう。新宿御苑の北端は玉川上水の終着点大木戸までの最後の600mが復元されていた。といっても現在の遊歩道がかっての水路であり、復元された水路はほんの申し訳程度の小川で、水はトンネル工事のときでた地下水をくみ上げて利用しているという。四谷大木戸水番屋跡から江戸市中 に石や木で造られた水道管を通じて、水が供給された。淀橋浄水場が完成した明治34年(1901年)ころまで、玉川上水は、江戸・東京の人々の貴重な水源で あった。


大木戸直前の復元された玉川上水 2013/7/24撮影

大木戸門から200円支払って御苑に入る。そこには婚約時代デートでいった新宿御苑にはなかった真新しい温室があった。

大温室とNTTドコモ代々木ビル

デートは秋の落葉のころだったのでほぼ樹木は葉を落としていてだだっ広い芝しか覚えていない。45年振りに訪れると、印象は大きく異なった。巨木がうっそうと茂り、あのだだっ広い英国庭園は昼なお暗い森に囲まれ、狭く感じた。それでも芝のむこうには新宿の新しいスカイスクレーパーが林立している。


イギリス風景式庭園

花が沢山あるフランス式整形庭園はこの日照りで心なし花が傷んでいる。この庭園はメーンエントランスを入ったところにあるが、今は門は閉鎖されたままである。ここが御苑で最も低地となっている。

フランス式整形庭園

メー ンエントランスから出ることができれば絵画館には近いが、門は閉鎖されている。園内にある千駄ヶ谷と呼ばれる湿地帯を横断してゆけば千駄ヶ谷門があるが方向が違う。やむを得ずUターンし、大木戸門に引き返す。途中玉藻池がある。案内書には新宿御苑は江戸時代に完成した 内藤家の庭園「玉川園」がルーツで玉藻池はそこにあった池だとある。内藤家と何者かと調べると信濃高遠藩内 藤家だという。高遠は元禄4年まで天領となっていたが、旗本の内藤清枚が3万3000石で入り、高遠藩内藤家を興す。

江 戸四谷付近に甲州街道の宿場として内 藤新宿が開設された。宿場予定地一帯には内藤家の江戸中屋敷などがあり、清枚は開設に先立ち幕府に宿場用の土地を返上している。内藤新宿の名はこの 地にあった「内藤宿」に由来し、「内藤」を冠したのは内藤家の拝領地であったことによる。内藤新宿は玉川上水のラストランの北側にあった。内藤新宿は甲州 街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。 現在の新宿はこの内藤新宿が発展したものである。

玉川 園という名も玉川上水との関係があるのだろう。外苑西通りの西側は内藤町といい、御苑を借景した住宅地になっている。御苑との境が低地になって四谷大木戸から 分水した余剰水はこの低地を流れ、メーンエントランス前を通って明治通りの東側にある旧穏田川を流れ、渋谷川にそそいでいたという。

SEFの会合後、元千代田の営業だった山内氏から国内営業担当のハンサム・ボーイの故内藤氏はこの内藤家に婿養子にいったのだと聞き、世の中は狭いものだと感じた。

絵画館

中央線と首都高の ガード下をくぐり絵画館に向かう。正式には聖徳記念絵画館(Meiji Memorial Picture Gallery)と言われる。絵画館は二度目だった。入館料500円、シルバー料金なし。昔、若いとき訪問したときはかなり好戦的な絵が多いと感じたが絵 の質が高いので不快感はなかった。そういう意味で安倍流の日本の正しい歴史を学ぶ格好なところだと感ずる。今回はそういう感じはうすれ歴史的にも明治は頑張ったなとの感動があった。多分中国や韓国の人が見ても、時間が経過しているため反発はしないのではないか。

建物の外観をみたとき、フランスのアンバリッドのような感じで、A級戦犯を除く戦没者の慰霊の場にふさわしいと感じたが、もしそうするとかえって近隣諸国の反発が生じるだろうなと感ずる。


絵画館前並木道

フランスはナポレ オンをアンバリッドに葬っても周辺国は文句は言わない。そして凱旋門下には無名戦士の墓があり、米国にはアーリントン墓地がある。英国の場合はセントポー ル寺院なのだろう。マーガレット・サッチャーはここに葬られた。しかし英国の兵士はそれぞれの戦場近くに葬られる伝統だ。シンガポールにあると聞いたが、ルーマ ニアでもバスガイドにここに英国兵眠ると聞いた。無論日本にも英連邦戦没者墓地は旧東海道の権太坂上交差点の更に東側の丘の頂上にある。

2015/2/20、 明治神宮の付属施設である、絵画館にタクシーで移動。3回目の訪問である。今回は明治神宮国際神道研究所打越孝明研究員の説明付である。建物は何ら変わら ずそこにあった。鉄筋コンクリート造りで2倍の強度をもたせたため、関東大震災にもビクともせず生き残った。ただ暖房施設が貧弱で寒いこと。前回2回とこ となる点はフルベッキ群像写真をみてしまった後であること。

絵画館の85画の原画はすべて二世五姓田芳柳が描いたそうだが、日本画家の幾人から原画とは全くことなる絵にしたそうである。

吉野氏は絵画館を視察したのち、睦仁親王が暗殺され大室寅之祐に入れ替わった時期と場所は明治天皇が東京に行幸するとき、農民の稲作作業を視察する絵があるが、このような時に行われたのだろうと推論できるという。

昭憲皇太后は無論入れ替えを知っていたが、献身的に皇后を演じ続けた。なかでも武士階級の子女が女工として働く富岡製糸に馬車で1週間かけて往復したという逸話は迫力がある。そしてその絵は絵画館でも出色の絵として残っている。

絵画館の中央ホールの奥に明治天皇の愛馬「金華山号」のはく製と骨格標本が展示してある。盛岡行幸のとき購入した何部馬だそうだが今の馬と比較し貧相であ る。しかし、大変賢く、自分の立場を理解し、周辺が騒がしくとも微動だにしないため、死ぬまで16年間、御料馬だったそうである。

明治神宮

絵画館の後は靖国神社に合祀されたA級戦犯抜きの第二靖国の建設余地があるか、興味を持って、原宿に向かう。国立競技場の南にある都立明治公園という広域避難所を横切り、原宿駅への最短距離を歩く。道は明治通りを横断する場所が一番低い。かって川が流れていた証拠で玉川上水の余剰水がここを通って渋谷川に向かってながれていた証拠だ。

明治神宮はその全域をあるきまわった。その森林は明治期に全国から寄贈された苗木を植えてゼロから育てたというが、その密度は原始林のごとく、林床も雑草が生い茂っている。広さは広大で中で方向感覚がなくなり、スマホ のGPSで危機を脱した。大日本帝国の中心だった明治天皇と、その天皇のために命をささげた将兵の慰安の場所として両者を同じ神域に祀るのは時期にか なうと思うのだが、それでも現在の明治神宮にそのような施設を増設する余裕はないと感じた。むしろその南の都立代々木公園が適地のように見えた。

明治神宮 外拝殿前の石畳

2015/2/20、明治政府の内務大臣を曽祖父にもつ元興銀の方のアレンジで鎌倉プロバスクラブメンバー20名とともに明治神宮に3度目の訪問をした。

原宿駅集合までの時間、竹下通りを見物した。そのケバさはまさに異次元の世界である。

原宿の大鳥居から神官の案内で入り、無線で参道の設計のウンチクを聞く。参道は途中南池から流れ出る小川を橋で渡る。この川は渋谷川の源流だという。代々木の地名の基になった樅(もみ)の 大木「代々木」の2代目が参道左側にあった。戦禍で焼失したので植え替えたとか。他の木は殆ど95年まえに飢えた人工常緑広葉林でいまは大木に育ってい る。伊勢神宮に倣えば針葉樹林となるところ外国に学んだ林業学者の意見で日本向けに常緑広葉林としてという。唯一の例外は南神門手前右側の赤松でここに明 治神宮が建設される前から荒地に立っていたものだそうだ。社殿は空襲で焼失したそうyだが赤松は生き残った。

外拝殿前の石畳は横綱の土俵入りをするところだ。外拝殿から立ち入りできない内拝殿をみながらお賽銭を投げる。そして石畳の右手にある神楽殿で神事一式を 見物。地下に潜って明治神宮国際神道研究の佐藤正宏所長(東大卒、東京銀行、宮内庁侍従)や打越孝明研究員、神官まで参加して大変丁寧にあつかってくれ た。

原宿・表参道

原宿駅は雨にもかかわらず人が多い。変わったところは背景のNTTドコモビルとモダンなガラス張りの地下鉄千代田線の出入り口だ。

原宿駅

ここから青山大学まで表参道とその脇道を歩く。原宿周辺はファッション・デザインのセンターという感じであった。

表参道とクロスする昔の大木戸と渋谷川を結ぶ穏田川を暗渠にした街はなかなかおしゃれで キャットストリートと呼ばれる。ここらへんが穏田(おんでん)村の集落があったところだ。往時には、よく知られた葛飾北斎の浮世絵「穏田の水車」をはじめ、いくつもの水車掛けが 見られたという。「穏田橋」と書かれた欄干のモニュメントなどを見つけることができるというが気が付かなかった。またこのあたりで、明治神宮南池からの流 れが合流していた。Locanda F.Qという店があった。

結局今日の散策コースは玉川上水の余剰水を渋谷川に流す穏田川の川筋を歩いたことになる。自 動車では気がつかないが、歩くと地面の起伏がよくわかる。穏田川は玉川上水の余剰水を受けていたために豊富な水量を誇ったが、上水の廃用以降、周辺の宅地 化とともに徐々にドブ川化が進行し、東京オリンピックを前に全面的に暗渠化されたという。

青山のSEFサロンに出席後、元職場の仲間と飲んで、青山1丁目から田園都市線相互乗り入れの半蔵門線で中央林間まで移動し、そこから小田急江ノ島線で帰る。江ノ電は終電すぎで久しぶりにタクシー帰還となった。

2018/2/21 表参道のカワイ・コンサート・サロン「パウゼ」での藤田真央のピアノ・リサイタルを 聴きに久しぶりに表参道まで出向く。2015年原宿駅まえにあった原宿第一マンション(上の写真の右手の建物)が取り壊されて、空地になり、新しいビルが工事中であった。街には七里ヶ浜と 同じく大きなスーツケース引きずった中国人観光客が増えていた。カワイ・コンサート・サロン「パウゼ」の位置を確認してから原宿餃子楼でビールと餃子で腹 ごしらえ。演奏会後、穏田川の原宿川の小路にあるMushroom Tokyo(神宮前6-2-4)で茸チーズ、九条ネギのアヒージョ、チリ―産の赤ワインで西岡氏と一杯。



カワイ・コンサート・サロン「パウゼ」前の表参道 2018/2/22撮影

July 25, に2001

Rev. February 22, 2018


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