岩殿山

2005年5月15日、橋倉峠特別探鳥会に参加予定のメンバーのうち3名の有志が岩殿山(いわとのやま634m)に登った。 岩殿山はJR大月駅裏にそびえる岩山である。大月からみると垂直の岸壁が恐ろしげに見えるが東隣の猿橋駅から見ればさほどでもない。

猿橋から岩殿山を望む 2008年12月2日撮影

岩殿山は9世紀末頃修験道の場として栄えた。16世紀になって大名の領国支配制が成立すると武田・小山田両氏の支配を受けるようになった。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、1509年武田氏の傘下に入った。その後は軍事的に武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、甲斐の国の国境警備の役割を果たした。1582年に織田軍が甲斐に侵攻したときに小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を郡内に入れず、進退に困った勝頼は天目山で自害した。江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定しており、江戸時代にも岩殿山城は近くの猿橋とともに要塞としての機能を保った。

麓の高月橋駐車場が標高400mだから正味234mの登り下りである。あいにく小雨が降りだしたが、カッパを着て山頂に着くころには晴れてしまった。

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 (地図画像)を使用した。(承認番号 平16総使、第367号)

垂直の岩盤で一見難しそうに見えるが、殆どコンクリートで固められ、崖縁には手すりがついているので難なく登れた。 遠目では一枚岩のように見える。なぜロッククライミングのメッカにならないのかいぶかったのだが、山頂から見下ろすとハーケンを打ち込んで固定できない礫岩のためだとわかった。下流にある石老山も同じ礫岩だったのでこの界隈に多い地層なのだろう。

岩の真ん中にくぼみがあり、その下が白くペンキで汚れたように見えるところが2箇所あった。双眼鏡でみると鳥の糞のようである。探鳥会のリーダーの山岸氏は多分猛禽類の巣なのだろうという。

山頂で

山頂はアンテナが林立して殺風景だが、他の登山者は嫌ってこないため、ネコの額ほどの草原でピクニック気分でおにぎりをエンジョイした。

岩殿上への下山は登りよりもやさしくかった。高月橋駐車場に戻り、橋倉峠特別探鳥会の前泊の 橋倉鉱泉で皆と合流した。

May 26, 2005

Rev. December 5, 2008


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