ブランド薬師・川柳将軍塚・更科八幡宮・開眼寺・安楽寺

信濃巡礼 予備調査行3

2007年11月1-6日、長野に所用で滞在中、暇をみて前から気になっていたブランド薬師、旧川端中学校、茶臼山、川柳将軍塚古墳、 更科八幡宮、信濃13番札所開眼寺の観音堂、別所温泉の安楽寺を車で歴訪した。センチメンタル・ジャーニーであり、目下NHKで放映中の風林火山の戦場めぐりでもある。また信濃巡礼の予備調査も兼ねている。

 

ブランド薬師

友人のクリさんの「坂東31番の笠森観音は長野のブランド薬師を思い出させた」という一言が気になっていたため、 まずここを訪問した。

ブランド薬師とは変な名前だが、これは俗称で正式名は八櫛(やぐし)神社という。初めは不落堂(ふらくどう)といわれたが、これが明治期に「ぶらん堂」となり、片仮名書きで「ブランド」となったようである。 八櫛(やぐし)神社とは薬師如来と渾然一体となった「神仏習合」思想の産物であろう 。明治期に神仏が分離されたので薬師如来は祭らず、八櫛という神を祭っているのだろうか?

ブランド薬師は長野の小学生は必ず一度は訪れるところのようで同行した妹は2度目だと言っていた。長野市の善光寺の裏手の淺川の薬山(くすりやま)にある。オリンピックの時、建設された 淺川ループ橋の近くの断崖の中腹にある。ここにある巨大な岩の斜度80度の斜面に作られた懸崖造りである。布引観音も懸崖作りだが、これは神社である。

八櫛神社の鳥居の前に駐車し、登りはじめた 。おびただしいドングリの実に足をとられて難渋したが、岩場もなく、気楽に登れた。ここから、善光寺平を見晴らすことができる。

ブランド薬師

ここで発芽したドングリの実をいくつか拾う。

淺川は天井川となっていて洪水防止のダム計画があったが、田中知事がつぶした。後任の村上知事はこれを復活させたことでこの地は有名になっている。

 

旧川端中学校(現櫻ヶ岡中)

卒業1年後の1955年に一度訪れた以後再訪する機会のなかった旧川端中学を訪れた。

旧川端中学

旧川端中学は戦後1947年の創立である。グリーンウッド氏が卒業した時は創立7年であった。創立21年後の1968年に南部中学校を統合し、櫻ヶ岡中学 校となった。戦時中に祖父の肩車に乗って陸軍の小隊とともに目撃した校舎は打ち壊されてグランドになり、コンクリート製の校舎がかってのグランドに新築さ れている。 この立派な校舎には戦時中は陸軍が駐留していたようだが、元来は小学校として作られたのかどうか?

川端の名は灌漑用水の南八幡川が前を流れていたから付けられた名前であろう。この用水はコンクリート製の開渠になって味気なくなったが、今だ健在である。 後身の櫻ヶ岡の名前はかってこの南八幡川を渡って正門に至る道の両側にあった見事な桜並木に由来すると思われるが、新たな正門は校舎のある北側に作られ、 桜は打ち捨てられて老木となって見る影もない。かっての正門の門柱は風化して打ち捨てられているが、いまだ処分もされず 、風化した姿で残っていた。

 

茶臼山

小学校の時、第4次川中島の戦いの時、晴信が陣を敷いたといわれる茶臼山(730m)への遠足は風邪で高熱を出していて参加できなかった。茶臼山は高くもなく、目立たない山で 、どれがそうかは判然としない。というわけで見定めるために篠ノ井に向かった。途中合戦場という場所を通る。第4次川中島の戦いの時、激戦が行われ、山本勘助が討死したところだ。ここは今、住宅地が分譲されている。幽霊がでるという噂もあるが、安いので売れているらしい。

篠ノ井は初めての地である。ここから見る飯綱山(1,917m)と戸隠山(1,904m)は立派に見える。そしてその奥に高妻山(2,353m)がピラ ミッドのような姿を見せている、戸隠山の手前には虫倉山(1,378m)から陣馬平山(1,258m)に連なる山並みが紅葉に燃えて迫力ある姿を ドンと横たわらせている。

虫倉山一帯は新第三紀鮮新世に活動した火山の溶岩や火砕流が積み重なった地層からできている。1847年の善光寺地震では、山崩れが虫倉山の急斜面の山腹 に発生した。特に規模が大きかったのは南側の斜面で、藤沢と太田の崩壊である。崩壊は溶岩が斜面にオーバーハングになっているような所で起きて、下の緩斜 面にたまり、渓谷を埋め た。このようにしてできた自然のダムが決壊して善光寺平の洪水を引き起こした。

茶臼山の地質はもろく、地すべり地帯である。1847年の善光寺地震に亀裂が生じ、1965年の松代地震で活発化し、土塊は約1,200mも移動した。この地滑り地を有効活用して森林を残し、茶臼山自然公園が造られ、茶臼山自然史館、動物園、駐車場 が完備している。家族連れが子供をつれて散策を愉しんでいる。茶臼山はまた植物化石の宝庫として知られ、約70種もの植物化石を産出していて展示されている。

この茶臼山山麓は篠ノ井布施五明というところだ。善光寺平を見下ろす緩やかな傾斜地で棚田がある。1553年の第1次川中島の戦いは坂城の名将村上義清が上杉謙信に助けを求め、 これに景虎が応じて始まった。そしてここ篠ノ井の布施で戦われたのである。

 

川柳将軍塚・姫塚古墳

司馬遼太郎の「信州佐久平道潟のみちほか 街道をゆく九」を紐解いた時、長野駅からタクシーで別所温泉に向かう途中、篠ノ井駅と稲荷山駅の中間にある川柳将軍塚古墳に司馬遼太郎が言及する場面があった。司馬遼太郎は言及しなかった森将軍塚 古墳の方を先に訪れたが、今回は、茶臼山の後、川柳将軍塚 ・姫塚古墳に向かった。

茶臼山の南斜面に川柳将軍塚・姫塚古墳はある。ここも地すべり地帯だ。湯入神社前から対向車が来たらすれ違えない程狭い山道を登ったところの尾根の上に川柳将軍塚、姫塚古墳、 陪冢(ばいちょう)がある。幸い対向車は1台もこなかった。道の狭さにおそれをなして誰も入り込まないのだろう。

川柳将軍塚の説明板には善光寺平の西辺を画する断層崖上に築かれた全長91mの前方後円墳であると記されている。5世紀の西暦400年前後の築造と考えられているという。姫塚古墳は更に200m奥の山頂に西暦300年前後に築かれた全長31mの前方後円墳である のでそこにも登ってみた。下の写真の手前の山のように見えるのが川柳将軍塚古墳で、その右手少し奥にあるなだらかな丘が姫塚古墳である。

川柳将軍塚ならびに姫塚古墳

安本美典の「巨大古墳の被葬者は誰か」によれば川柳将軍塚は5世紀前半崇神天皇(すじんてんのう)が 国内平定のために各地に派遣した四道将軍という皇族の一人、「大彦の命」の墓だという。古事記によれば「大彦の命」は高志(こし 越・北陸道)に遣わされ たということからきているようだ。しかし古田武彦の九州王朝説によれば古事記の解釈には別の見方があるのだ。安本美典が代表する東大史学が明治憲法に書いてある万世一 系の天皇家の日本という明治神話を守るためにこういう解釈をするという見方がある。東大歴史学科は明治政府を作ったからというわけなのかもしれないがかなりアナクロ ではある。というわけで私学がしっかりしないといけないのだが、福沢諭吉も奉安殿に涙したと聞いたから、おなじ穴のムジナのようだ。東大歴史学科は強力で NHKで放映される歴史も全てコントロールしている。

では4〜8世紀初頭頃に古代科野のクニがあったとされる地にある古墳に誰が埋葬されているのかというと我々の祖先ではあるが中国大陸から朝鮮半島や南西諸島などを経由して、古代日本に渡来し帰化した渡来人というのが本当の姿のようだ。川柳将軍塚のほかにも埴科古墳群(森将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳・有明山将軍塚古墳・土口将軍塚古墳)がある。その渡来の波は弥生時代に始まり幾度となく訪れたわけだが、その度に日本に技術、文化、政治の大きな変革をもたらした。遠く故郷の高句麗を向いた山の北面に古墳群があるのも特徴的である。参考文献

中野市の柳沢遺跡でこの10月、銅戈(どうか)、銅鐸がセットで発掘された。大阪湾型であり、弥生中期のものという。東日本では初めての発見という。将軍塚といい、日本海経由で関西につながっていたことを示唆している。

 

更科八幡宮(武水別神社)

川柳将軍塚・姫塚古墳の訪問の後、更に南下して6才の頃、祭りの時に親爺につれられていった記憶がのこる俗称更科八幡宮(正式名武水別神社)を訪問した。鬱蒼としたケヤキの森に囲まれた壮大な宮だ。

この地は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園となっており、968年-970年に八幡神を勧請したと伝えられる。この地方随一の八幡宮として木曽義仲など武門の崇敬を受けた。

第3次川中島合戦があった1557年正月、景虎はこの更科八幡宮に願文を捧げて武田氏討滅を祈願し、晴信への憎しみを顕にしていると伝わっている。

更科八幡宮

 

信濃13番札所開眼寺の観音堂

高校同期の和田弘正氏のご先祖、和田弥左衛門正廣が寄進したとかいう信濃13番札所開眼寺の観音堂を訪れた。 四代後の和田與惣衛門正常が建て直した。20年ほど前まで和田家が丸抱えでお寺の維持をやってきていたが、今は、維持会を作って維持してもらっているという。すぐそばにある大雲寺は和田家の菩提寺である。

更科八幡宮の西山の中腹を通過する篠ノ井線の山側にあった。杉並木が立派なお寺であった。

開眼寺

 

別所温泉の安楽寺

2007年11月6日、母と妹をつれて別所温泉に遊んだ。ここは二度目である。2002年の9月には塩田平が主目的であったため、北向き観音に立ち寄っただけである。

北向き観音 2002/9撮影

週末というのに予約しておかなかったため、旅館の日帰りは利用できず、食堂で当地の名物、マツタケご飯セットを食し、真田幸村の隠し湯「石湯」を愉しんだ。池波正太郎の「真田太平記 全12巻」のなかでお江(こう)という架空の女忍びと真田幸村が初めて会った場所であ る。池波正太郎の揮毫になる真田幸村の隠し湯「石湯」という石碑がたち、飲用の湯に杓子が添えられている。口に含むとかすかに硫黄の臭いがする。「石湯」はしかし、温度が下がったためだろうか、残念ながら一部循環式になっていた。

隣には上田藩の出屋敷、造り酒屋、湯宿と木造りの姿を変えずに今に至ったという、臨泉楼 柏屋別荘がある。(Hotel Serial No.407)別所温泉では花屋ホテルが最大の規模の旅館だが、大きすぎる。一泊するならここがお奨めであろう。

最後に安楽寺を訪れた。鎌倉時代からある禅寺で鎌倉北条氏の外護によって栄え、多くの学僧を育てた。北条氏滅亡後衰退し たが、安土・桃山時代に曹洞宗になって現在に至っている。鎌倉時代末期に建立された国宝の八角三重の搭が裏手の山腹に残っている。信州の鎌倉と言われる由 縁である。

安楽寺の三重の搭(国宝)

November 9, 2007

Rev. June 10, 2014


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